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15.ビフォーアフター

「あんた、テレビに出てたんだって?」

 日々、未経験の雑務が怒濤のように押し寄せて、目が回りそうな時間がすぎていく――そんなとき、永盛の母親から電話がかかってきた。

 放送があったのはもうずいぶんと前のことだ。

「ああ、あれ……。見たの?」

「かあさんは見てないんだけれど、近所の人とかから見たっていうのを聞いて……」

「ああ、そうなんだ……」

「なんでも若い女の人といっしょに歌ってるって言ってて……、その女性ひと、天亜蘭さんじゃないんでしょ。どうなの?」

 実際に放送を見たわけではないから、その確認を兼ねて電話してきたようである。不貞を働いているのではないかと心配なのかもしれない。

「あれはその……そう、趣味友だちだよ」

 嘘は言ってない。

「じゃあ、天亜蘭さんは納得してくれているのね?」

「うん。まぁ……」

 ここですべてを打ち明けたくはなかった。天亜蘭と離婚し、会社を退職したことなど言えるわけがなかった。母親の頭のなかでは、天亜蘭は「いいお嫁さん」であり、鴻円商事は大きな会社だ。息子には安定的な生活を送ってほしいと望む親からしてみれば、それを手放したとなると果てしなくがっかりするだろう。

「ならいいんだけど……」

 母親はそれ以上追求するつもりはないようで、永盛はほっとする。

「でもテレビに出るぐらいだから、なんかすごい歌なんだと思うけど……」

 番組を見ていないため、いまひとつ想像が及ばないようだった。

「たまたまだよ。それに歌っているのは僕じゃないし」

「あらそうなの? もしあんたが歌手になったら、かあさん応援するわよ」

 本気でそう思ってはいないだろうと、永盛は苦笑する。

「なにがあったのか知らないけど、吹っ切れたみたいね。なんだか声が明るくなったし」

 意外な指摘にはっとなった。もしかしたら、母親は薄々は気づいているかもしれなかった。

 もしアリサとのユニットが成功したなら――そのときこそ、すべてを話せるのだろうな、と将来の夢を思い描く永盛だった。



 梅雨空の下、田植えが終わった水田には小さな苗が規則正しく並んで雨粒に打たれていた。

 周囲に田んぼが広がる一軒の大邸宅──。

 鴻円商事を退職した京極天亜蘭(ティアラ)は、都心のマンションからこの広い豪邸に戻ってきていた。住居は素晴らしかったが、京極の心はいまの空と同様、雨雲に覆われていた。

 最悪だった。まさかこのような事態になるとは思ってもみなかった。

 宇松遼治うまつりょうじとの出会いが人生の変わり目だったろうか。それとも蟹山永盛と偽装結婚したことが、そもそもの始まりだったろうか。

 考えても詮無いことを毎日のように考えてしまう。

 キャリアを失ってしまったいま、茫然としているまにほぼ強制的に新潟に戻らされていた。今回の大失敗で、両親になにも言い返せなくなっている天亜蘭であった。

 そして、間もなく結婚させられる。

 武之。四十五歳の頭の薄い冴えない三段腹の男が、天亜蘭の結婚相手だった。まったくもって信じられない身の上である。悪夢でも見ているのではないかと呆気にとられてしまう。

 結婚式はまだ半年も先だったが、すでになにもかもが怒濤のように両親によって進められ、気がつけば天亜蘭は家で、いまどき「花嫁修業」という口実で慣れない家事手伝いに身を落としていた。

 武之は天亜蘭の父親が経営するいくつかの会社のひとつに長年勤め、部長にまで上り詰めていた。その点でいえば「優秀」なのだろうが、それだけの男であった。

 レールに乗って無難に歳を重ねてきたうえで今日の地位を得ているだけの、天亜蘭にとってはなんの魅力もない人畜無害な男だった。だからこんな歳になるまで女性に選ばれてこなかったのだ。

 婿養子に入ってくれるという条件が飲めて、なおかつ信用のおける会社でそこそこの地位にあるということでふるいにかけた末に残ったのが武之だった。

 蟹山永盛とそう変わらない。男性として、異性としては見られない。天亜蘭は、結婚にはなんの希望も感じていなかった。だからこの結婚も永盛のときと同様、ドライに形だけの婚姻だと割り切ってもよかったが、今回はそこに「ビジネス」という生き甲斐が欠落していた。懸命に頑張ってきた仕事を取り上げられて、魂まで抜かれてしまったように気分の高揚がない。

 それに、都会で働くのではなく、新潟で家庭に入って家を継ぐというからには子供も求められる……。武之の子供を身ごもるなど、考えただけでも肌が粟立った。

「武之くんが来たわよ」

 母親が呼んでいる。こんな男のどこがいいのか、母親には受けがいい。

 広い部屋の掃除をしていた天亜蘭は、今日が武之とのドライブデートだったことを思い出す。

 大きくため息をつき、玄関に出ると、野暮ったいスーツを着た十五歳年上の中年のおっさんがそこにいた。これでおしゃれしてきたつもりらしい。

「天亜蘭さん、迎えに来ましたよ。行きましょう」

 ひひっ、と気持ちの悪い笑みを浮かべている。

 嫌味のつもりで天亜蘭は普段着で出て行ったが、ぜんぜん気に留めていない様子だ。

 門の外に、トヨタのセダンが停められていた。

「今日は、あんまり天気が良くないけど、水族館だから平気ですよね」

「まぁ……」

 感動もなく、天亜蘭はクルマに乗り込む。走り出すと、ワイパーがフロントガラスの水滴を引き延ばした。

 カーオーディオからは聴いたことのない音楽が流れていた。ユーチューブにつながっていて、そこの曲が流れているようだった。女性ボーカルとピアノだけのシンプルな曲だったが、歌詞とピアノが補完し合うような、会話しているような聴き心地がすっと胸に入ってくるようだった。

(こんな曲が流行ってるのか……)

 ぼんやりとそう思っていると、信号待ちでカーナビの表示がユーチューブに切り替わった。曲が終わり、ピアノから振り返って一礼するのは──。

「蟹山くん!」

 目を疑った。いまの演奏を、あの蟹山永盛がしていた。

「どうかしました?」

 突然、声を上げた天亜蘭に、武之が訊く。

「なんでこんな動画を聴いているの?」

「なんでって……なかなか、いいでしょ? ネットで話題になってるんですよ。こんど初のライブコンサートが開かれるらしいです。観に行けたら行きたいんですが、遠いですからね」

「そんなに人気あるの?」

「らしいですね。いい曲ですよね。天亜蘭さんもそう思いますでしょ? コンサートに合わせて正式版が配信予定ということですから、天亜蘭さんにもダウンロードしてさしあげます」

「…………」

 天亜蘭はめまいに似た感覚を味わった。

(あの、なにをやってもダメな蟹山永盛が……?)

 落ちぶれたいまの自分の境遇に耐えられないほどの差を感じた。

 殴られたような敗北感が胃を委縮させ、急に吐き気がしてきた。

「あれ、どうしました? クルマに酔いましたか? 顔色が青いですよ」

 武之はハザードを出して、クルマを停止させる。

 天亜蘭はシートベルトを外すのももどかしく、ドアを開けて歩道にしゃがみこんだ。

 ぜいぜいと呼吸が荒い。気持ち悪いのはストレスのせいか、それとも──。

(まさか──宇松の子供を妊娠している?)

 その可能性に気づいて天亜蘭は恐怖に襲われる。脂汗が額ににじんだ。どうか気のせいであることを必死で願った。



 九月初旬──。

 まだ暑い日が続く空は快晴。

 午後六時からのコンサートに向けて、ホールはその準備に忙しかった。

 機材の搬入から設置、調整。それが完了したらリハーサルだ。

 永盛とアリサはこの日に備えて準備してきた。

 曲の練習の他レコーディングスタジオで収録した音源をCDにする際の、そのCDのデザインから印刷の打ち合わせ、ステージ衣装の調達。

 本人ばかりでなく、チケットの販売やポスターの制作などのプロモーションには、鴻円商事の五崎が慣れないながらも東奔西走して間に合わせた。コンサートに必要な人員の確保を含め、全面的に働いて今日の日を迎えた。

 ホールの入り口にはいくつものスタンド花が飾られていた。鴻円商事はもちろん、永盛とアリサが働いているコンビニや駅ピアノを設置してくれていた駅からも送られ、派手やかに祝ってくれていた。

 ステージ上で、永盛とアリサがリハーサルで手順をひとつひとつ確認していると、鴻円商事の社長がLAMMINを伴ってやって来た。

「あ、社長」

 永盛は舞台袖に現れた社長に駆け寄る。

「今日はわざわざ来てくださり、ありがとうございます」

「これはただのコンサートではなく、我が社の事業だからな。しっかり見届けるし、本番を楽しみにしているよ」

「会社の援助がなければとてもこんなコンサートなんか開けませんでしたよ。感謝でいっぱいです」

 この単独ライブコンサートを行うのにどれだけの費用と手間がかかっているのか、永盛は知らない。

「いや、きみたちの実力があってこそだよ。キャパシティ六百席が完売だからね。ちゃんと利益が出てると思うよ」

「僕よりもアリサの歌がよかったからです」

 アリサの曲と歌。永盛はそれにほんの少し味付けしているにすぎないと思っている。

 そのアリサも歩み寄ってくる。

「がんばって歌うので、最後まで見て行ってください」

「あたしもすごく楽しみ」

 社長の横のLAMMINも笑顔で応じる。友だちも何人か来るらしい。

 そこへ五崎がふらりと現れた。

「もうすぐ開場時間だから、お客さんを入れますよ。蟹山とアリサさんは楽屋に移動してください。社長とLAMMINさんの席は中央の一番いいところにとってありますので、あとで案内しますよ。とりあえず、控室に」

「そうか……では、開演までそこで待つとしよう」

 社長はLAMMINを連れて係員に案内されていく。

「さて、おれはホールの外の物販コーナーに行って、売り子をやってくるよ」

 五崎が言って、ステージを降りていく。ロビーではスタジオ録音したCDが販売される。音源の正式ダウンロードもCDの通販もすでにされていたが、CDを手にしていない客にむけて会場ここでも売るのだ。

「そこまでおまえがやるのか?」

 永盛は驚く。

「おれが最初から最後までやってきた企画だからな。どんな具合になるか、最前線で見ていたいのさ。そっちは主役で、おれは監督のような感じだな。まぁ、こんな仕事もいいんじゃないか。一つのイベントを指揮してやり切るのも達成感がある」

 背中を向け、勾配のある客席を出入口へと登っていく五崎。

「じゃ、僕たちもしばし休憩だ」

 永盛はアリサに言った。

「はい、緊張しますね」

 MCもアリサの担当だ。歌以外のトークは初めてだ。なにを語るかも考えてきていた。

 いったん控室へ引き上げようと舞台袖から奥へと行くと、そこには今度はアリサの両親が来てくれていた。

「がんばりなさいよ」

 アリサ母が声をかけると、

「うん、しっかりやるわ」

「蟹山くん、おたのみ申す」

 アリサ父も励ましてくれた。

「はい、がんばります」

 みんなが期待してくれている。その期待に応えたい。

 ここまで来れたのも、大勢の人の協力があってのことだ。半年ほど前、会社を退職してなにもかも失っていたときを思い返すと、いまここに立っていることが奇跡のようだ。人生というのは、こんなにも劇的に変わるものなのか……。

 あのとき、アリサと出会わなければ、いまでもなんの取り柄もない男で、夢のない消化試合のような人生を送っていただろう。

 まさしく、人との出会いが人生を変えるというのを実感する。

 いつか、音楽活動が本格的になってきたなら、永盛は両親にもライブコンサートに来てもらおう、と思う。

 控室で出番まで待つ間、気分を落ち着けようとするがうまくいかない。何度も深呼吸している。ステージの上で人前でピアノを弾くのは高校の文化祭以来だ。そのときはいまよりずっと楽な気持ちで臨めたが、今回はそうもいかない。

「時間ですので、お願いします」

 スタッフが呼びにきてくれた。

「蟹山さん、リラックスですよ」

 アリサがそう言ってくれる。歌手としてやっていくことを目指していたアリサはこの瞬間を楽しんでいるのがわかった。

 そうだな、と思う。注目されるのは主役のアリサであって、永盛ではない。

 少し気が楽になった。

「よし、行こう!」

 不安を吹き飛ばすかのように声を張り上げた。

 ステージの袖に上がると、観客席のざわめきが耳に入る。社長もLAMMINもアリサ両親も着席して開演を待っている。

「蟹山さん」

 舞台袖で、アリサが手の甲を差し出している。

 永盛はうなずいて、そこへ手を重ねた。

「やり切るぞ──ゴー!」

 右手を頭上に振り上げた。

 客席の照明が落とされ、ライトの下に明るく浮かび上がったステージ。

 そこへ向かって、二人は歩いていった。



〈完〉


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