14.巡り逢いは予想外
五崎に電話した。
再就職の件を断った。
「ちょっと待てよ、本気なのか?」
電話口で、元同僚は信じられないといった様子で驚いていた。
しかし永盛は思い切って言った。
「うん。悪いけれど……」
「社長も部長も謝罪すると言ってるんだぞ。それで復帰すれば、これまでよりも社内の評価は上がるだろう。もちろん蟹山のがんばりにもよるだろうが、以前よりは回りから見る目も違う」
コンビニでアルバイトなんかしていても低賃金では将来困窮するのが目に見えていると、五崎は唾を飛ばさんばかりの勢いで正論を口にした。
「もしいままでの仕事が不向きだというなら、別の部門へ配置してくれるよう言えばいい。きっと承知してくれる」
「厚意はすごくありがたいよ。いまどき大きな会社の正社員になれる口なんて、なかなか見つからないからな」
鴻円商事といえば、中堅の企業だ。株式も上場している。将来のことを考えれば魅力的な会社だ。
「だったら普通、二つ返事で受けるだろうが」
「うん……でもな……仕事よりも他にやりたいことができたんだ。だから……」
「やりたいことだと? ……十年ぐらいしてから後悔しても知らんぞ」
「十年後か……。そのとき、たぶん、僕は会社に戻ったのを後悔しているかもしれない」
「なんのことだ? ……まぁ、いい。わかった」
五崎は根負けした。
「復帰したいなら、言ってくれ。社長への返事は保留しておく。でも長くは待てないからな」
「ありがとう」
通話を切った。
コンビニのアルバイトに生活の不安がないとは言えなかったが、それでも永盛は「音楽」を選んだ。永盛から音楽をとったらなにが残るだろう。空虚な人生をただ送っているよりは、たとえ貧困にあえごうとも好きなことに情熱を傾けていたい。
永盛には、まだそう思えるほどの若さがあった。
駅ピアノでは観衆が増えていた。なかには一昨日昨日と待っていた人もいたぐらいで、どうやら例の放送を見た人がかなりいたようで、駅まで特定されたようだった。
SNSで取り上げてくれたLAMMINなる読者モデルがどんな人で、どれだけ人気があるのかわからないが、永盛が思っている以上にその影響はあるらしい。
そのためか、その日、永盛とアリサが連れ立って駅ピアノにやってきたとき、異様な雰囲気さえ漂っていた。
今日は、新曲の練習で収録はしないので、同じ曲を二、三度演奏するつもりだったが、そうもいかない空気があった。
「予定を変更して、新曲を一回、最近ユーチューブにアップした曲を二曲で、いきますか?」
アリサが永盛に耳打ちした。
聴衆は十五人ほどだが、広いとはいえコンコースにそれだけの人が立ち止まっていると、圧力を感じてしまう。
「そう……ですね……」
永盛が承知すると、アリサは振り返り、聴衆に向かって一礼する。
永盛は一週間前に収録したばかりの曲を弾き始めた。これなら楽譜がなくても憶えているから演奏できるし、アリサも歌詞がわかっているだろう。
アリサのボーカルと永盛のピアノが渾然一体となってコンコースに反響する。それでもそれぞれが互いに主張しあい、競走するかのように旋律をつむいでいく。
通り過ぎていこうとして足を止める人。さらに聴衆が増えて、さながらミニコンサートだ。
三曲目は新曲だ。本来はその練習のために来たのだ。
お互い自宅で練習してきて初めて合わせるため、呼吸のずれがあった。いつもなら、それを調整するため二、三度、演奏するのだが、こんなにも聴衆がいるとやりづらい。
三曲目を終えたところで、アリサと永盛は聴衆に、ありがとうございましたと、一礼し、拍手に送られるようにして駅ピアノを後にした。
なんとなく媚びるような感じになってしまい、
「これからは、練習はわたしの家でしましょうか」
アリサはそう提案した。
「そうだなぁ……」
やりづらいのは確かだ。
ただ、ユーチューブにアップするための収録は駅ピアノがいいと思う。ずっとそうしてきたから。でも練習となると、あれだけの聴衆を前では、打ち合わせもやりづらい。となると、ピアノもあるリビングの広いアリサの自宅という線に落ち着く。家も近いし。永盛の狭いアパートでは防音の面で問題がありそうだ。
「でも、いいのかな……?」
「わたしのほうはいつでも歓迎よ」
アリサの家族を思い出した。永盛は陽気なその笑顔に懐柔されてしまいそうな気がした。
社長がどうしても話をしたいから、一度、会社に来てくれないか──。
永盛は五崎に懇願されて仕方なく鴻円商事の本社を訪ねることにした。
(そこで自分の意思を伝えよう。申し出はありがたいが、強く断れば、無理にとの話にはならないだろう)
久しぶりにネクタイを締め、バイトの合間にオフィスに向かった。しばらく乗っていなかった路線で電車を降りると、初夏の日差しに街路樹が青々と葉を茂らせていた。
エレベーターで事務所のあるフロアまで移動すると、以前はスルーしていた正面玄関の受付で立ち止まる。カードキー兼用の社員証はもうないので、それ以上は進めない。
鴻円商事のロゴ看板を背負った暇そうな受付嬢を通さず、元同僚に電話した。
玄関前に来ていることを告げると、しばらくして出てきてくれた。
ドアを開け、「じゃ、入ってくれ」と五崎。
「社長室の場所はわかっているよな。今日来ることは伝えてあるから、直接行ってくれ」
「そうするよ」
肩を並べて廊下を歩きながら言葉を交わした。別れ際、五崎は言った。
「おまえの人生だからな。好きなように生きるのがいいさ。ま、なにをやりたいか知らないが、せいぜいがんばりなよ」
「ああ。わざわざ、ありがとう」
社長室の前まで来た。
永盛はひとつ息を吸い、重厚な木製ドアをノックする。前回ここへ入ったときは、クビを言い渡された。二度と来ることはないと思っていたが──。
「どうぞ」
社長の声が返ってきた。
永盛はドアを開ける。
「蟹山です」
一礼した。
デスクの社長が立ち上がる。
「そこへかけてくれたまえ」
ソファセットを示した。
そのソファセットにはすでに人がいた。
髪を金色に染めた十代と思しき少女。この社長室に似つかわしくない。何者なのだろうかと思っていると、笑顔を向けて少女が立ち上がる。学校の制服があか抜けていた。
「初めまして、LAMMINです」
自己紹介されたが、永盛はピンとこない。
「これは私の孫だ。今日ここに連れてきたのは、蟹山くんに会わせるためだ」
「僕に……ですか……?」
意図がわからない。内心首をかしげていると、
「テレビで見たよ。ピアノが得意だなんて、知らなかったよ」
「あ……」
(あの放送、社長も見ていたんだ……)
「きみがなぜ我が社への復帰に前向きな返事をしてこないのかがわかったよ」
「それは……」
永盛は言いよどんだ。きちんとした仕事よりも、音楽などというチャラチャラしたものを選んだことが、社長の目にどう映っているのかは明白だ。
しかし社長は笑顔で応じる。
「あの番組で紹介されていたSNSの主がこの子なんだよ。現在、ファッション雑誌でLAMMINという名前でモデルをやっている。私が言うのもなんだが、人気があるようだ」
「あっ……」
永盛はやっと思い出した。LAMMIN──そうだった。
「お会いできて光栄です」
少女が言った。SNSで広がったアリサと永盛の動画の最初のきっかけがLAMMINの投稿。そのときはLAMMINがどんな人なのかぜんぜん知らなかった。
(モデルだったんだ……)
とテレビを見て初めて知った。
「あの動画を見たとき、『あ、これはすごい』と思ったんです。あたしの思ったとおりでした。他の人もあたしと同じように感じたし」
「そうだったのか……。ありがとうございます」
永盛は礼を言った。あの投稿がなかったら、テレビで取り上げられることはなかっただろう。
「あたしが取り上げなくても、たぶんいずれ注目が集まったと思いますよ」
「そ、そうかな……」
それでだ、と社長が言った。
「あのときは本当にすまなかった。社内調査でも京極課長の工作が見抜けなかった。課長は懲戒解雇し、代わりに蟹山くんに課長をやってもらおうかと思ったんだが、どうやらそれよりも、音楽活動を本格的にやっていきたいようだね……」
「はい、申し訳ありませんが……」
「この子から詳しく聞いて、ユーチューブも見させてもらった。まだ、プロとしてやっているわけではないようだけど」
「そうです。ですから本来ですと、こんな道楽を続けていくのは、いい歳して褒められたものじゃないと自覚はしています」
音楽活動をしている人はものすごく大勢いる。しかしプロとしての活動ができる人間はごくわずかで、目指していても夢がかなわないのがほとんどだ。そんな将来の見えない道に飛び込んでいくのはリスクが高すぎるとは承知している。堅気の社長を前に、寝言を語っている滑稽さが恥ずかしいばかりだったが、それでも──。
「力を貸そう。私の罪滅ぼしとでも言おうか……。孫がこんなにも高く評価しているのだから本物なのだろう。どうだね、ライブコンサートを開く資金を提供しようと思うが、受けてくれるかね?」
「えっ?」
「もちろん、会社とて思惑がある。青田買いではないが、今のうちに後援して、鴻円商事の名前を売ろうというハラもある。そこは企業としてメリットは求める。が、悪い話ではないだろう?」
「はい! もちろんです」
永盛は顔を上げた。
ライブコンサート。そもそも来てくれる客がいなければ成立しないから、これまで考えてこなかった。
「ですが……」
永盛は不安を口にした。無人のコンサート会場で曲を披露してもわびしいばかりだ。駅ピアノには来てくれる人もいる。が、それも数十人がせいぜいだろう。それではライブハウスでもほとんど空席だ。
「お客さんは来ますよ。あたしも呼びかけに協力します」
LAMMINが自信ありげに言う。
「実は今回のことは、エンターテインメント業界への参入の足がかりとしても考えているのだよ」
すると社長も援護射撃。確かに資本力があれば、そこそこの動員は可能だろう。
「ありがとうございます」
こんなにも味方がいるなんて、思ってもみなかった。心強かった。
「では、今度はアリサさんをまじえて、打ち合わせをしてすすめていくことにしよう」
思ってもみない展開に体が震えた。
アリサと永盛の活動は、ダイナミックに動こうとしていた。
五崎から電話があった。
おれがおまえのライブコンサートの実行責任者に選ばれたよ、と言った。
「なんの因果か、社長からエンターテインメント事業の話が舞い込んできたよ。京極さんがいなくなって大忙しだよ」
「農業事業も五崎がするのか?」
京極課長が詐欺にだまされて、進めていた農業事業は頓挫してしまっているだろうと永盛は想像した。京極課長も辞職したいま、事業を再構築していくのは、かなり実行力のある者でないと難しいだろう。
「いや、それは別の担当者が決まったよ。部長が直接指揮することになった。おれはそこから外れて、一人でエンターテインメント事業の立ち上げをすることになったんだ。とはいえ、なにもかも初めてのことばかりで頭が回らないよ」
ライブコンサートを行うためにはなにをどうすればいいのか、当の永盛でもよく知らなかった。会場の設定、宣伝、チケットの販売、当日のスタッフの確保、機材のやりくりとその操作……。たぶん、それ以外にもさまざまあるだろう。
金があればなんとかなるわけではなく、現場で汗を流す人間が必要になってくる。イベント実行のノウハウを持っているどこかの会社に委託すればいいのだろうか。
「ライブコンサートの日取りは秋口を目標にして、いまは関係者との打ち合わせをしようってところなんだ」
「なにか僕にできることはないか?」
永盛は訊いた。五崎の苦労は想像に難くない。手伝えることがあれば骨を折りたかった。なにより、自分たちのコンサートなのだ。
「いや、コンサートの運営はこちらにまかせろ。おまえには、会場で販売するグッズのことで、やってもらいたいことがある」
「なんだ?」
「会場で販売するCDさ。いまはダウンロードが主流だけれど、直接手に取れるCDもまだ根強い。ユーチューブの曲もいいが、雑音も入っているし『売る商品』としてのクオリティに達していない。だからレコーディングスタジオで録音した『買ってもらえる音楽』を用意してほしいんだ。もちろんスタジオを借りる費用は会社が負担する」
「……そうか……そうだな……」
言われてみて、永盛は納得する。
「わかったよ。アリサに言って、スタジオ録音するよ」
「品質はまかせるけど、妥協するなよ」
「それはだいじょうぶだよ」
「今回の事業に、どれだけの費用がかかるかわからないけど、広告宣伝費から一部予算を回してくる予定らしい。鴻円商事の名前をあちこちで目にするようになるだろうな」
忙しくなりそうだった。
ピアノの練習はもちろん、ユーチューブへの新曲アップも継続的におこなっていくこともファン獲得のために必要だ。ユーチューブの動画再生回数が、テレビ放送後に急上昇しているのをアリサが知らせてくれた。
コンビニのアルバイト時間を調整しなくてはならないだろう。オーナー店長にはなるべく迷惑をかけないようにしたいが、頭を下げてお願いして時間を確保しないといけない。
アリサは素直に喜んでいた。夢であったレコーディングスタジオでの録音がついに実現する。すでに前もってレコーディングスタジオを調べていて、「ここにしたい」と言ってきた。グランドピアノが置いてあるからだった。
後日、電話でスタジオのエンジニアと打ち合わせをした。レコーディングにおけるエンジニアの役割は、端的にいえば録音された音のクオリティを上げることだった。できるだけアーティストの希望に沿った感じで「音」を仕上げていくプロである。スタジオ利用者には初心者も多く、担当エンジニアは丁寧に説明してくれたから、アリサも永盛も安心して録音に臨めそうだった。
録音までの日は、できるだけ練習につぎ込んだ。場所はアリサの家である。これまでユーチューブにアップした曲の他、新曲も含めて十一曲をスタジオ収録に向けて用意し、よりクオリティを上げるため、互いに意見を出し合って連日練習に励んだ。アリサ両親も仕事がオフのときは見てくれた。これまでの「ネットで見てもらうだけ」のと違って、お金で買ってもらうのだから手は抜けない。
永盛は、自分のピアノに価値なんかあるものなのかという気持ちがあったが、ここまで来たらもう開き直るしかなかった。
そして当日、緊張しながらも、レコーディングスタジオに入った。事前に一度スタジオに来ているので、機材の様子はわかっていた。
収録は、ユーチューブのときと同様、「一発録り」であった。ピアノと歌、お互いが呼吸を合わせながら進めていくのが曲の特徴だったから、バラ録りではその特徴が死んでしまう。エンジニアもそれで了解していた。
録音室に入り、グランドピアノの前に座った永盛は、心地よい緊張感を覚えながら近くに立つアリサにうなずきかけた。
「では、録音をしますので演奏を始めてください」
エンジニアから合図が来た。
永盛は鍵盤に指をおいた。まずは一曲目。何度も弾いて指が記憶しているその旋律を奏で始めた。流れるイントロにアリサの歌声が乗る。
二人が出会って五ヶ月──ひとつの大きな目標に届いた瞬間であった。