11.春が来て急転直下
永盛の再就職は、簡単には決まらなかった。
正社員として働いていた頃の待遇を求めるのは無理だとしても、これから一生、明日をも知れない不安定な職を転々とするのはリスクが高い。なるべくならずっと働ける職場がいい。ブラック会社ではいけない。
そういう考えで、会社を選んでいった。
だが昨今の不景気の折り、履歴書の段階ではねられて面接まで進めなかったり、面接や試験で不採用となったりで、現実は永盛に厳しかった。
就職が決まらない間、永盛は自宅の電子ピアノで曲の練習に励む。しばらくキーボードに触っていなかったから感覚を取り戻すのだ。
もう一度アリサと音楽を真剣にやっていくのだということなら、こちらも手を抜けない。アコースティックピアノに近い固さにキーボードを調整した。サンプリング音も、できるだけ駅ピアノに近い感じで。
アリサからは新しい曲ももらえた。まずは譜面通りに間違えずに弾くところから始まる。
自然体で弾いていい、とアリサは言ってくれたので、力まず、自分なりのリズムの取り方で奏でる。
クラシックを弾いているときには気づかなかったが、アリサの曲を弾き、リピート機能で後から何度も聴きなおしてみて、永盛は自分の弾き方の特徴が見えてきた。
(アリサの求めていたことというのは、これだったのか──)
それはアリサの作った曲だからこそ見えてきた特徴かもしれなかった。アリサがあれほど永盛のピアノに惚れ込んでいたのも、曲との相性がよかったからだったのだ。
相性というのは確かにあった。曲はすべて同じ弾き方でいいというわけではない。曲によって変えていくのが普通だ。自動演奏や打ち込みでは表現できない微妙な感覚の違いは、聴く人が意識していなくても感じ取れるものなのだ。
しかもアリサの曲には歌詞がある。それが曲の特徴と弾き方と相まって、独特の雰囲気を出すのだ。アリサが一人でピアノを弾くのではその雰囲気は出てこない。
それがわかって、永盛は一層練習に熱を入れた。
「スタジオ録音じゃなくても、駅ピアノの演奏をそのまま録音してみましょう」
電話で永盛は提案した。
「いまはスマホでもそこそこいい音が録れるし、それをユーチューブで公開して、反応を見てみるのもいいと思う」
これまでユーチューブで公開はしていたが、いずれもアリサ単独での動画ばかりだった。反応は今一つで、再生数もそれほど伸びていなかったし、アリサ自身、客観的に聴いて満足していなかった。壁にぶつかっていると感じていた。
「僕もアコースティックピアノに近い鍵盤の固さにして練習していますし」
「うん……、そうですね。じゃあ、一曲ずつやっていきましょうか。そうなると、ちょっと準備がいりますね」
スマホで動画を記録するのはいいが、ピアノの演奏と歌っている姿がしっかり写っていないと視聴者はそっぽを向いてしまう。三脚を立てて、スマホをホルダーに固定して、撮影することにした。
なるべく通行人の雑音が混じらないよう、平日の日中に収録することにし、それまで二人とも熱心に練習した。
四月になろうとしていた。各地でソメイヨシノが咲き始め、吹く風も穏やかになってきた。
その日、駅ピアノに来た永盛とアリサは、一度リハーサルをして収録に挑んだ。三脚を配置し、スマホでの録画テストも済ませ、いよいよ本番である。もちろん、納得がいかなければ何度でもやり直すつもりで。
「では、いきます」
アリサがスマホのカメラを起動させ録画ボタンを押してピアノの横に移動する。
永盛は深呼吸し、両手を鍵盤に置いた。
イントロを奏でる。
アリサの歌が旋律に乗った。
永盛のピアノの音とアリサの歌声が、抜きつ抜かれつするかのように走っていく。二つの音がダンスを踊っていた。リハーサルでも感じていた一体感。コンコースの壁に反響して、よりその重なりが強くなる。
四分間ほどの曲は突然ブラックアウトするかのような終わりかた。
録画を停止。
「どうだったかな?」
思わず訊いてしまう永盛。
「よかったと思います」
アリサは上気した頬を永盛に向け、
「気分の乗っているうちに、あと二曲をいっぺんに収録しましょう」
「そうですね。やりましょう」
収録を順調にこなしていった。三曲とも満足のいく仕上がりで、さっそくその動画ファイルをユーチューブにアップした。
駅近くのビル内にあるコーヒーショップに場所を変え、アップされた動画を二人で確認して、にんまりとする。
「わたし一人では、こんな動画は撮れませんでしたから、これは大きな前進です」
アリサは素直に感動していた。
こんなものが全世界で見られるなんて、と永盛はへんな感覚を味わう。スマホの小さな画面に映っている自分の姿が非現実的だった。これまで演奏している自身を見たことがなかった。
──こんなだったのか。もう少し愛想があってもいいな、と背中しか映っていなくて、横で歌うアリサの豊かな表情と比べてしまう。
「書き貯めた曲がまだありますので、また楽譜をもってきました。練習しておいてくださいね。わたしもがんばって歌いますから」
永盛は譜面を受け取る。四曲あった。
音符の流れを読むと、頭の中に旋律が浮かんだ。
「いい曲ですね」
四曲の譜面を順番に見ていると、アリサは話題を変えた。
「それはそうと、蟹山さん……あの……もしよかったら、就職が決まるまでわたしが働いているコンビニでアルバイトしませんか? いま募集しているんですよ」
「え……? コンビニで……」
「コンビニなら勤務時間を融通できて、音楽に時間をかけられるんですよ。就職……決まりそうですか?」
「うーん、それがなかなか……」
慎重になりすぎているのかもしれないが、確かにこのままだと、いくら節約していてもいつかはお金がなくなってしまう。失業保険がもらえている期間はまだいいが、就職先が決まらないといずれ干上がってしまう。が、就職できるかどうかは採用する側が決めるわけで、努力でどうなるものではない。
それまでコンビニでアルバイトするというアリサの提案は、悪くないような気がした。
「うん。そうだな……。そうすることにするよ」
上場企業の正社員からアルバイト生活。まさかこのような境遇になってしまうとは、つい半年前には思ってもみなかった。
「じゃあ、店長に話しておきますね。一応、履歴書がいるので書いてきてください。コンビニの場所は──」
テキパキとアリサがLINEでメモしてくれる。
永盛はそれを見て、アリサの働くコンビニに行ったことはなかったな、と思った。
「じゃあ、いつコンビニに来られるか連絡ください」
「わかったよ」
(もし決まったら、アリサといっしょに働くのか……)
そのことに気づいて、永盛は複雑だった。京極課長と働いていた職場は、思えば結果が出ずに苦しかった。先輩であり上司であり、そして「妻」であった課長からは厳しく成果を求められた。
一方、コンビニでアルバイトすると、そこにいるのはアリサだ。なんでも話し合えそうな職場関係は、永盛にとって新鮮であり、精神的にずっとよさそうだった。
翌日、履歴書をしたためて、アリサの勤めるコンビニに行った。
「いらっしゃいま──あ、蟹山さん!」
揚げ物を保温器に入れていたアリサがトングを置いてカウンターから出てきた。
「待っていましたよ。──店長!」
振り返って声をかけると、四十代のオーナー店長がバックヤードから現れた。
「よく来てくれました。奥で面接しますので、こちらへ」
「はい」
いつもの仕事のときに着るスーツではなく、すぐにでも働けるラフな普段着で来た永盛は、店長にうながされてカウンターの奥のバックヤードに入る。
簡単な質問や説明を受けるだけで、あっけないぐらい即、採用となった。
「じゃあ、できるところから順にやっていこうかね」
こうして永盛はあっさりと新しい仕事を得た。
次々とアリサの作った曲を自宅で練習してから駅ピアノで合わせ、納得のいく完成度にまで高めると録画してユーチューブにアップする、というルーチンを繰り返した。
アップした動画の数は、これまで作った曲のストックがあったせいですぐに十個に達した。それにともなって再生数も二桁から三桁に上がり、チャンネル登録数も徐々にだが増えだした。
もちろんそんな再生数でなんらかの収入が得られるわけはなかったが、コメント欄に書き込まれる反応が上々で、二人はそこに手応えを感じ始めていた。
同じ職場で顔を合わせていることもあって、ちょっとした思いつきを相談したりできた。それでますますクオリティを上げることにつながった。
永盛は、商事会社に勤めていたときには感じられなかった充実感を覚えるようになってきた。たいした腕ではないと思っていたピアノに自信を持てるようになっていた。
会社員として再就職すると、こんなにピアノに時間を割けなくなってしまうなら、このままアルバイト生活でもいいかな、と思えてしまう。家族を養う必要もないからコンビニのアルバイトでもなんとかなる。
ピアノを楽しく弾いていられるほうが、いまの永盛にとっては重要なのだった。賃金を得る仕事にやりがいを求めていないのは、会社勤めのときと同じだったが、ピアノに生き甲斐を見つけられて、いまはそれだけでじゅうぶん幸せだった。
「おまえ、蟹山だよな?」
あるとき、カウンターでレジに入っていると、客から声をかけられた。
ホットの缶コーヒーをレジ袋に入れようとしていた永盛の手が止まる。普段は見ることのない客の顔を見た。
鴻円商事で働いていた頃の同僚だった。同じ課ではあったが、それほど親しいわけではない。名前は──五崎といった。
辞めてからもうひと月になり、そいつの顔を見るのもひと月ぶりだ。
「こんなところで働いていたのかよ」
「百三十二円になります」
「コンビニでアルバイトなんて、落ち目になったもんだな。あの事件、京極課長が仕組んだんじゃないかって噂がたってるんだが、要領が悪いおまえは詰め腹を切らされたのかもな」
永盛は提示されたスマホで精算すると、レジ袋を差し出し、
「ありがとうございました」
と、型通りの接客をする。
元同僚・五崎は相手にされないことに苛立ったようだが、
「ま、なにも言い返せないよな……」
哀れみの表情をにじませて立ち去った。
永盛は自動ドアを抜けて出ていくかつての同僚を目で見送った。
「蟹山さん……」
隣のレジで別の客の応対を終えたアリサが声をかけてきた。
「いまのは……」
「以前の会社にいたときの同僚です。──そんな顔しないでください」
永盛は、アリサの悲しそうな目を見て作り笑い。
「つらくないですか?」
「いいえ。僕は……アリサさんのおかげで、いまがいちばんいいときなんですよ」
負け惜しみではなく、それが永盛の本心だった。元の会社に未練などなかった。
五月も半ばになろうとしていた。
永盛とアリサは、駅ピアノの前で演奏を収録し、動画をユーチューブにアップするということを順調に続けていた。
お金ができたらスタジオを借りて、という話もしていたが、コンビニバイトではお金はなかなかたまらなかったし、そもそもそこまでして作った音源の使い道がなかった。このままでもいいかもしれないと思っていた。
ヘッドホンをしてピアノの練習をしていたせいで、アリサからのLINEに気づかなかった。
『蟹山さん、ユーチューブの閲覧数がいきなり増えてますよ』
永盛は確認する。昨日までは三桁だったのに、軽く四桁になっていた。チャンネル登録数も同様に急激に増えていた。
『なにがあったんでしょうか』
『SNSに誰かが投稿してくれたようです』
『誰かって、誰ですか?』
『わからないです。でも有名な人なんでしょうね』
『それはすごいですね。有名な人が見つけてくれたのはラッキーです。でも再生数の増加は、一時的なものではないですか』
『わたしもそう思います。でも、嬉しいですね』
長く続けていると、少しはいいことがある。誰かに注目されるのは大きなプラスだ。
永盛は、この調子で徐々にでも再生数が増えていけば、アリサの夢である、プロとしての活動もいつかできるかもしれない、と希望を持った。
アリサもアリサで、やっと満足のいく音楽に仕上げられてきたと感じていた。永盛の演奏を得て、思い描いていたクオリティに届いたように思っていた。が、それだけではまだ足りないとも感じていた。継続的に人気を得ていかないと、ずっと鳴かず飛ばずのままだ。
そう思って、新曲作りにもいっそう熱が入る。そうしているうちにも、動画の再生回数はのび続けた。ただし、それだけで大きな潮流にはなりづらかった。知る人ぞ知るレベルで、じわじわと一部の人のなかで広がっていくにすぎなかった。
宇松遼治逮捕。
その一報が入ったとき、京極天亜蘭は会社の事務所にいた。
詐欺被害に遭い、割り当て予算を大幅に削られたために進まないでいる、というより事実上頓挫している農業事業の企画書を何通も保留にし、とりあえずは通常業務を優先していた。
商社という職種ゆえ、常に国内外の動向にアンテナを張り、情報収集をしていかなければならないなか、ニュースサイトもチェックしていた。
そこに飛び込んできたのが、詐欺の容疑で宇松遼治が逮捕されたというニュースだった。もちろんそこには本名が書かれており、宇松遼治という名前ではなかったが、表示される映像はたしかにあの男であった。
(逮捕されたか……)
容疑はしかし鴻円商事への詐欺ではなく、別の人間への詐欺であった。つまり、宇松はいくつもの相手に詐欺を繰り返していたわけなのである。いくつもの手段でもって。
最初に出会ったバーでも、京極がカウンターに並べていた名刺を見て、とっさに手持ちの「札」のなかから最適なカードを出してきたのだろう。
両側から警察官に挟まれて連れていかれる宇松の映像を見て、京極はだまされた怒りがふつふつとたぎる。
(よくもよくも……)
京極に見せた笑顔の奥で嘲笑っていたのかと思うと、パソコンのディスプレイを叩き壊してやりたい衝動に襲われた。被害にあった金のどれぐらいが取り戻せるのかわからないが、詐欺の手口でぶんどった金がアウディや高そうなジャケットに化けていたのだとしたら散財しているに違いなく、満額返済はほぼ絶望的だろう。
(この男のせいで、わたしの出世はどれだけ後退したと思っているのか!)
同時に、こんな男にだまされてしまった自分自身にも腹立ちを覚えた。銭金の問題よりも、京極個人の想いをもてあそばれたことに。
(あんなに信用していたのに!)
ときめくような恋愛感情が芽生えていた。もし京極にビジネスプランがなかったとしたら結婚詐欺に遭っていたかもしれない。それぐらい宇松は魅力的な男に映っていた。あちこちからだまし集めた金で羽振りよく着飾り、できる事業家だと安心させて。
(ざまあみろ)
溜飲が下がる思いであった。
が、京極はこのときまだ気づいていなかった。今回の逮捕によって火の粉が降りかかってくることを──。
宇松逮捕から一週間後、京極は社長から呼び出された。
京極の頭のなかには、傾きかけた新事業をどうやって立て直していくか、ということしかなかった。つきあいのある既存の協力業者をかき集めてなんとか小規模な実験設備の建設を着手する方向に──などと、構想をやりなおしたりしていた。社長に呼び出される理由というなら、そのことしかないと考えて。
社長室に入ると、そこには社長の他に、スーツを着た見知らぬ男性が二人いた。いずれもがっしりとした体形で髪の毛を短く刈った日焼けした男で、体育会系の匂いがした。一人は若く、もう一人は中年だった。
「京極天亜蘭さんでらっしゃいますか?」
男性の若いほうが訊いてきた。
「はい、そうですが……」
京極がそう答えると、スーツの内側から黒い手帳を取り出して、見えるように示した。
「我々は警視庁の刑事です。実は、先日逮捕した詐欺事件の犯人への取り調べのなかで、京極天亜蘭さんから五千万円をだまし取ったと自供しましたので、事情聴取のためにやってきました」
すると社長が戸惑いぎみに訊いてきた。
「刑事さんはそう言っているんだが、あの話……きみは蟹山くんが書類を書き換えたと言ってなかったかね?」
京極の顔面がこわばった。
「捜査にご協力を願います」
手帳をしまい、刑事は続ける。
「署に同行いただいてもいいのですが、よろしければ、こちらでお話を聞かせてくださっても結構ですよ。──どうされました?」
京極が膝からその場にくずおれるのを、刑事は駆け寄って二の腕を引き上げる。力強い男の腕だった。
「そこのソファに座ってもらいましょう。顔色が悪い」
もう一人の中年刑事が優しく指示した。なにかを感づいている様子だった。
「社長さんも、話をお聞きになりますか?」
「はい、我が社のことですから、一応は……」
その言葉を聞き、京極は気を失いかけた。
(ああ、もうおしまいだわ……)
新事業が滞るどころの話ではない。ことの顛末がぜんぶ明らかにされてしまう。
京極天亜蘭の築き上げてきたこれまでのキャリアのすべてが水泡に帰してしまおうとしていた。光り輝く未来が手の届かないどこか遠くへ消えようとしていた。