10.下僕の日々の結末
その日一日、なにが起こったのかわけがわからないまま終わった。
はっきりしているのは、会社を辞めることになった、ということだ。
(どうしてこうなってしまった……? なにが悪かったのだろう……)
直接言われた解雇理由に、蟹山永盛はまったく思い当たるところがない。いわば言いがかりのようなものだった。
こんなことがまかり通るのか……。不当な解雇だと労働基準局に訴え、弁護士を通じて争う?
それでも会社側はさらになにか理由をつけてリストラを敢行する気がした。会社というのは、そういうところだ。閑職に追いやって辞めさせるよう仕向ける、というのはよく聞くやり口だ。
依願退職なら退職金も支払うという。それを甘んじて受けなければならないのか……。勤続四年ではたいした金額にならないだろうが、ゼロよりはマシだろう。
マンションに帰宅した永盛は、茫然とリビングの床に座り込んでいた。なにも食べる気になれず、暖房もつけずコートも脱がずに、ただじっとしていた。テレビもついていない静かな部屋で、たった一人でなにも考えられないで、壁の時計が時を刻む。
どれぐらいそうしていただろうか──。
京極課長が帰ってきた。
永盛の目が課長をとらえる。そして、
「あ、お疲れさまです」
まるで条件反射のように口から出た台詞は感情がこもっていなかった。
課長はなにも言わない。
永盛は言った。
「課長、僕は退職することになりました……」
「聞いているわ」
課長はそれだけ言うと、自室に引き上げていった。きわめて事務的な会話。それ以外に言葉をかわさない偽装結婚をした夫婦。
部下がクビになった理由が理由だけに、課長も声をかけにくいようだった。
翌日、永盛は会社を休んだ。
オフィスでは噂になっているだろうし、それを思えば居づらい。というより、そもそも出社して労働する気力がなかった。
ただ、退職に向けて提出しなければならない社内向けの書類があるので、それは書かなければならないし、私物も放置できないから、一度は出社しなければならなかった。
気まずさから、翌日の定時後に出社することにした。定時をすぎても管理職はだいたいまだ席にいた。
感情をまじえないやり取りで部長に辞表を提出し、「お世話になりました」と形だけの挨拶をして、勤務表や通勤定期の清算書などを直の上司である京極課長に提出した。
それらの書類をざっと確認し、
「これでいいわ。ご苦労さま」
「それと課長……」
永盛は京極天亜蘭に向かって言った。
「僕と離婚してください」
課長が目を上げる。思ってもみない申し出に、その目が見開かれる。
「この結婚は、僕の職を安定させるためでもあったんですよね。なのに、その効果はなかった」
なにかを言いかけた課長の口が閉じられる。京極課長にしてみれば、この結婚は新潟の実家に引きこもるのを阻止するためのものだった。結婚が解消されたなら元の木阿弥だ。
しかしそれは課長の都合である。会社を解雇されたなら、婚姻を成立させていた永盛側のメリットは、家賃を肩代わりしてもらっている以外になくなった。
「マンションを出ていくの?」
収入が絶たれたため、この同居はお金の面だけをみれば永盛にとっては助かるが、クビになった会社の課長と同じ家に住み続けるのは苦痛だった。
「はい。貯金はありますから、当面の生活には困らないですし、無職でもアパートは借りられます。もちろん、条件のいい物件は無理ですけど、以前住んでいたところも、そんな感じのところでしたし」
「……考えなおす気はないのね?」
課長にとっては掃除や買い出しをしてくれる無料の「家政婦」がいなくなり、またそれらを自分でやらなければならない一人暮らしに戻るわけで、小間使いを引き留めたい心もあったが、一方で今回の解雇処分が京極課長の保身工作によるものだったわけで、同居を続けることでそれが露見する可能性を避けたいという気持ちもあった。
さらに、実家からはこの離婚を期に新潟に戻れと言われそうだったが、離婚したわたしは結婚には向かないのだ、と主張できる──そんな思惑から永盛を無理に引き留めようという態度には出なかった。
「ありません。僕の考えは変わりませんよ。もう部下でもないわけですから、指示にしたがうつもりはないです」
言い捨てて、永盛はオフィスを辞した。もうこの会社に来ることもない、と思い、ビルを出た。三月の夜風はまだ冷たかった。
翌日から引っ越しの準備を始めた。
この時期、アパート探しは苦労した。四月から大学進学やら就職やらで都会へ転居する人が多く、条件のいい物件はもう残っていなかった。しかも無職となると、貯金はあるとはいえ、物件はかなり限られた。
築年数の古い、若い世代からは人気のない地区の1DKのアパートが見つかって、そこに引っ越すことになった。ただ、引っ越し業者を利用しようにも、この時期はどこの業者も忙しく、すぐには引き受けてくれなかった。そこで永盛は自分でトラックをレンタルし、荷物を運びこむことにした。もともと私物は少なかったし、大きな家具はベッドぐらいだったから、一人でもどうにかなった。
こうして、印をついた離婚届だけを置いて、永盛は京極課長がいないうちにマンションを退去した。
たった二ヶ月半の結婚生活。夫婦らしいことはなにもなかった偽装結婚。二人でいっしょになにかをしたという想い出のないマンションは、シェアハウスのようなもので、一人暮らしとさほど差がなく、研修のために一時的に寝泊まりしていた施設を出るときのように、退去にあたってなんの感傷も永盛は抱かなかった。
京極天亜蘭は上司であり課長であり、その関係が家にまで及んで、ずっと会社にいるような錯覚さえあった。
二人きりで住んでいたのに、いっしょに食事をしたり家事をしたり外出したりしたことはまったくなかった。会話をしなかった日さえあった。
思えば最初から夫婦ではなかった。
永盛は、もしかしたら、結婚をもちかけた課長に少しでも特別な感情があるのかもしれないと最初は思ったこともあったが、そんなものはものの見事になかったし、同居しているうちに恋愛に近い気持ちがお互いに育ってくるかもしれないと、ほのかに期待したこともあったが、それもすがすがしいほど皆無であった。
最初に課長が言ったとおり、これはあくまで「形だけの結婚」であって、それを貫き通された。ブレない課長をなんら責めるつもりはない。この婚姻は、永盛も承知したのだから。
だがそんな関係が長く続くはずがないのだ。最初っから破綻していた夫婦生活にピリオドが打たれるのは、冷静に考えてみれば時間の問題だった。
もう少し永盛が男として魅力的で、女である京極天亜蘭を振り向かせられたら、あるいは結果は違っていたかもしれない。しかし永盛はそうしなかった。そんな努力はしなかった。そもそもできるとは思っていなかったし。
仕事第一の京極課長には仕事でアピールするしかないが、その「仕事」ができない永盛なのである。いつか、年齢があがって五十代ぐらいで会社をリストラされるのではないかという予感はあったが、二十六歳の平社員で給与も安いなら、まだ会社がクビ切りの対象にはしないだろうと楽観視していたのは甘かった。能力のない人間はいらない。
会社員としても夫としても永盛はお払い箱になってしまった。一流大学の入試の不合格通知を受け取ったときを思い出し、おまえはダメな人間なのだと思い知り、背伸びせず、自分の身の丈にあった生活をすべきなのだと永盛は意思を固める。
家賃七万五千円の隙間風の入る部屋には冷蔵庫もエアコンもなく、生活するには買いそろえなければならないものも多かったが、徐々に購入していけばいいだろう。
それよりも、職探しだ。
貯金があるとはいえ、それほど余裕があるわけではない。もたもたしていたらすぐに貯金を食いつぶしてしまうだろう。
近くのハローワークに出かけた。電車に乗り、たどり着いた職業安定所には意外と多くの人が仕事を探しにきていた。
永盛は、失業保険の申請をし、いくつかある端末機のひとつに腰を落ち着けて職探しをする。希望する条件を入力し、検索結果を見る。
経験や資格が必要なものが目立つ。未経験でよいのなら二十代まで、というのもあった。
とりあえず、めぼしいものをプリントアウトして持ち帰り、吟味したうえで連絡していくことにする。労働環境の悪いブラックな会社があるだろうから、ここは慎重に選びたいが、このなかから相手にしてくれる会社はどれだけあるだろうと不安はつきない。
ハローワークを出て、電車に揺られる。
ドアのすぐ横に立ち、窓外を流れる景色をぼんやりと眺める。対応してくれたハローワークの職員は、「まだお若いですから、チャンスはいくらでもありますよ」と、明るく励ましてくれたが、特別な技術も経験もない、一度レールから外れてしまった労働者が簡単に再起を図っていけるほど日本は甘くない。いつ職を失うかわからない非正規雇用に落ち着いて日銭を稼ぐ不安定な生活を送ることになるのかもしれない。結局、いくらがんばっても同僚との差を埋められなかった能力のない人間に、社会はそれ相応の身分しか提供しないのだ。
ため息しか出てこなかった。
最寄り駅から歩いて十分。不動産屋からは歩いて八分といわれた閑静な昔ながらの住宅街に、永盛の住む古いアパートはあった。
築二十二年の三階建て。すべて1DKの単身者用が十二部屋あるが、三部屋ほど空いているという。永盛の部屋は三階だ。ベッドを運ぶのにやや苦労して、結局大家に手伝ってもらったのだった。
アパートの共同玄関を入り、塗装の剥がれた鉄の階段を重い足取りで上がって三階にたどり着く。ポケットから鍵を取り出そうとして、階段を上がってくる靴音が耳に入った。
(そういえば、まだ隣人に挨拶さえしていなかったな)
と思った。もっとも、お互い一人暮らしでそんなのは不要かもしれない。でも一応、こんにちはぐらいは言おうと振り返った。
「あ……」
が、永盛は固まった。予想外であった。
階段を上がってきたのは、村川アリサだった。
コンビニのアルバイトの帰りだった。家の近くにもコンビニはあったが、顔見知りに出会うのも気まずいので、電車に乗って少し距離のあるこのコンビニで働いていた。
歩道を歩いていると、ハローワークから出てくる人に見覚えがあった。
(蟹山さん……?)
村川アリサは駅に向かって歩いていく後ろ姿をつけるように歩調を合わせた。
蟹山永盛とはあの事件、結婚相手である課長に人目もはばからず烈火のごとく責められて以来、連絡を絶っていた。あれからもう一ヶ月半になる。
LINEに一度メッセージが入ったが返信していない。する勇気がなかった。あんな剣幕でまくしたてられて、それに反論するほどアリサは気が強くはなかった。もしここで反感を買って永盛の会社での立場が悪くなってしまったら、それで永盛の人生を狂わせてしまったら取り返しがつかないというのもあった。他人の生活を乱してまで自分の夢をかなえたいとは思わない。
だからアリサは身を引いた。
永盛との出会いは素晴らしかった。永盛のピアノにアリサは光を発見した。永盛の演奏なら、作った曲を活かせるのではないか、と直感したのだ。そしてその感覚は間違いないと、二人で練習をしながら思ったものだった。
(なのに──)
アリサは悔しかったが、あきらめるしかなかった。次にそんな出会いがあるとは思えなかったし、一人でなんとか乗り切るしかないと練習するが、どうしてもうまくいかない。
やはり永盛と演奏していきたい。それはしかし望むべくもないジレンマであった。
その永盛が、どういうわけかハローワークから出てきた。
声をかけようかと一瞬思ったができなかった。
後をつけようかどうしようか迷った。迷ったまま駅についてしまった。
これから家に帰るところだったアリサは、ここで別れてしまうのだろうかと思ったが、永盛が乗った電車は家に帰る方向と同じだった。
(どこへ行くのだろう……?)
同じ電車の少し離れた位置に立って永盛の様子を見つつ、アリサは不審がる。電車の行く先は永盛のマンションや会社とはぜんぜん方角が違う。仕事でどこかへ向かう途中なのだろうか。にしては服装がラフだ。コートの下はスーツではなく、セーターを着ていた。
永盛が電車を降りた。
そこはアリサの家の最寄り駅だった。アリサも降りる。
何人かの乗客にまぎれて改札口を抜けると、永盛の歩く先もまたアリサの家へ向かう道であった。自然、あとをつけるようになる。
永盛の身になんらかの変化があった──アリサはそう思う。しかしそれは、いい変化ではないだろう。
歩いて十分ほどして──。
永盛は三階建てのアパートの玄関から階段を昇っていく。このアパートは昔から建っていたからアリサも存在は知っていた。ただ、駅への道すがらその前を通ることはあっても、用がないので敷地内に踏み入ることがなかった場所だ。
アパートの共同玄関にはステンレス製の集合住宅用郵便受けが設置されていた。アリサはそこへ駆け寄り、住人の名前を確かめた。301号室に「蟹山」とあった。
アリサは階段を駆け上がった。そして、301号室の前で鍵を取り出そうとしている永盛に追いついた。
「アリサさん……。どうしてここへ?」
永盛は混乱する。
「蟹山さんこそ……、どういうことなんですか?」
永盛は目を伏せた。自分のいまの境遇を話さないわけにはいかないだろう。
「実は、会社をリストラされたんです……。クビになってしまったんだ」
「どうして! あの奥さんのせいなんですか?」
「いや、僕の成績が揮わなかったんだ」
真相を知らない永盛は、京極課長にはめられたとは思っていなかった。五千万円の損害を永盛のせいにさせられていたとは。
「で、僕から離婚を言い出して、それが認められて家を出たんです。さすがに愛想をつかされたというか。だから課長とはもう夫婦でも上司でもない」
永盛は自虐的に笑った。これまでの人生で、よかったことなんかなにもない。なにをしても中途半端な結果が、この体たらくなのである。
「だったら……、もう、あの女性と関係なくなったんなら、またわたしに連絡してくれてもよかったのに……!」
「稼ぎもない、こんな惨めな男が、どんな顔してきみに会えるっていうんだ。LINEなんかできないよ──アリサさん?」
永盛は息をのんだ。
アリサの目から涙があふれ出していた。
「え、あの……」
どうしていいかわからないでいると、突然、アリサは胸に飛び込んできた。嗚咽が止まらなかった。永盛のコートを握りしめて、声を殺して。
「ちょっと、アリサさん……」
永盛はあわてた。玄関先で、この状況はさすがに気まずい。
「とにかく、部屋に入ってください」
玄関ドアを開け、永盛は肩を震わせるアリサを招き入れる。住んで間もない部屋の匂いがまだ慣れない。外気とほとんど変わらない室温の居間にアリサを通した。
落ち着くまでしばらくそっとしておいた。
アリサの細い背中を撫でていると、やっと顔をあげて涙をぬぐった。
「取り乱してしまって、ごめんなさい……」
「いや、いいんですよ」
そう言いながらも、さっきはひどく驚いて狼狽えてしまった永盛だった。女の子を泣かせてしまった男の気持ちが初めてわかった。
「自分でも感情が抑えられなくて」
アリサはどうしてここへ来たのか説明した。コンビニでのアルバイトの帰り、ハローワークから出てくるところを見かけて、たまたま家に帰るルートの途中に永盛のアパートがあった、と。
「なにがあったんだろうって思って。表情が暗くて、自殺でもしそうな感じだったし」
「そんなひどかったか……」
永盛は苦笑した。自分では意識していなかったが、かなり落ち込んでいたのかもしれなかった。こんな顔で面接に臨んでも、どこの会社も採用してはくれないだろう。
「すべて失くして一からの出直しさ。展望は決して明るくはないけど、なんとか生きていかなくちゃならないからね」
「あの……蟹山さん」
アリサはしばし、迷ったように口をつぐみ、意を決して口を開いた。
「こんなとき言うのはなんですが……、あのとき、あんな形で別れてしまったけれど、また、わたしの曲を弾いてくれますか。わたしといっしょに音楽をやってくれませんか」
永盛を見つめた。
無精ひげの残る永盛は、うなずいて答える。
「いいですよ、もちろん。きみさえよければ」
「ありがとうございます!」
アリサは永盛の両手を握りしめてきた。初めていっしょに食事をしたときが思い出された。永盛の冷たい手に、アリサの柔らかい手が温かかった。
永盛は、部屋の隅に立てかけてある、買って間もない電子ピアノを見やった。アリサと選んだキーボードは、また曲を奏でてもらうのを待っているかのようだった。