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1.課長は上から目線

「わたしと結婚しなさい」

 課長の言ったことが理解できなかった。

「あのう……」

 なにかの聞き間違いだろうと思って、蟹山かにやま永盛ながもりは口ごもった。会社のオフィスで真っ昼間に話す内容ではないだろう。

 呼ばれて来てみたものの、京極きょうごく課長のデスクの前で固まったまま、へんな汗が出てきた。またなにか課長を怒らせてしまったのだろうかと不安になっていたからかもしれない。

「蟹山くんは独身でしょ?」

 と、京極課長は言った。確認、というより、念を押しているような口調。もっとも、課長はいつもなんでもお見通しで、逃げ場のない言い方をする。

「はい……」

「見るからに独身って感じだものね。これまで彼女とかいたことないでしょ?」

 見るからに独身というのがどういうものなのかわからなかったが、彼女がいたことないというのは事実だった。でもそれをここで指摘されるとは思ってもみなかった。なんで知っているのだろうか、それってセクハラじゃないのか、と言いたいことはあったが、ここは黙っている。この課長にはどんな意見もしてはならないのだ。なにか言えば回復困難なダメージを負うほど言い返されてしまうからだ。

「ま、きみは入社して四年にもなるのに、いまだに雑用係だものね。取り柄のない男だし、モテないのも当然かな」

 課長の言うことは、いちいちもっともである。二流大学を卒業して、人出不足の風に乗ってなんとかこの会社に就職できたが、一流大卒の同僚にどんどん水をあけられてしまい、早くも出世コースから外れてしまっていた。それは努力でカバーできるレベルのものではないと、永盛はこれまでの社畜人生で思い知らされていた。人間のレベルが違うのだ。もって生まれたDNAが違いすぎた。

 一方、課長──京極天亜蘭(ティアラ)は、超のつく一流大学を卒業し、三十歳にしてすでに課長職についている。それだけ優秀なのである。

 その優秀な彼女が言った。

「だから、わたしと結婚するのに、なにか不都合でもあるわけ?」

 切れ長の目が鋭く射るようだった。

「あの……」

 けれども永盛はまだ真意をつかみきれていなかった。ここで下手なことを言ってはいけないと、慎重に言葉を選んで。

「不都合と言いますか……僕が……ですか?」

「そう! さっきからそう言ってる。わからない?」

「いえ……あまりに予想外で……」

「きみはなにを言っても『予想外』じゃない。というより、なにも考えてないから、なにを言われても予想外になるんじゃないの」

 いつもながら、ビシビシとくる。

「あの……聞き間違いだと思うんですが、僕には『結婚』という言葉が聞こえました」

「そうよ。間違いじゃないわ」

「課長が結婚されるわけですか……」

「わたしが、蟹山永盛くんと結婚するのよ」

 聞き間違いでないとするなら、これをどう解釈すればよいのだろう。

 額の汗がひとすじ顔を流れる。

「なにか不服? ないよね、そんなの」

「あの……できれば理由をお聞かせ願えれば」

「めんどくさいことさせるのね。このわたしに、理由を説明しろと?」

 そういうのは自分で考えろ。

 業務でなにか戸惑うことがあっても、いつもそう言われてしまう。そのたびに、永盛はそれ以上なにも言えなくなってしまう。

 それで自分で判断して失敗すると、「勝手な判断をするな」などと、ご無体な注意を受けてしまう。

 一を聞いて十を知る。

 永盛に言わせれば、「一を聞いて十を誤解する」であった。レベルの高い人間の求めることを推察するのは困難きわまりなかった。

「いいえ、そのようなことは……」

 しかし理由もわからずに結婚する──。そんなことがこの現代日本にあるのだろうか。いや、理由は存在するのだろう。ただ、自分にそれがわからないだけであって──。

 それはともかく、結婚など考えてもいない永盛は抵抗する。

「ですが、結婚は業務ではなく、極めてプライベートな事柄ではないですか。いくらなんでもそれを指示するのはいかがなものかと……」

 課長は浅くため息をつく。

「蟹山くんは自分の立場がわかっているのかな……」

「と、言われますと?」

「わたしは管理職としてこれまで蟹山くんを見てきたの。このままだとリストラ対象になりかねない。毎年入社してくる新人に追い越されてしまうでしょう。日本では働き方が変わってきているとはいえ、一度レールを外れてしまったら、取り返しが難しい。わたしは蟹山くんの人生を救ってあげようって言ってるのよ」

 将来、クビになりたくなければ課長と結婚しろ、ということなのか? だから受け入れろと?

「部長には話をつけてあるから、報告はわたしからしておくわ。一応、蟹山くんの両親にも挨拶しないといけないし、これからやることが多いわよ。しっかりやりなさい」

 課長の理屈についていけなかった。飛躍しすぎてやしないか?

「しかし好きでもない人と結婚するって、おかしくないですか?」

「きみは今後の人生で、好きになった人と結婚できると思っているわけ?」

「えっ?」

「両想いなんて幻想よ。みんな妥協している。これはわたしからのプロポーズなの」

 もう、わけがわからない。

「あ、ひとつ重要なことを言い忘れていたわ。結婚するので同居することになるけど、あくまで結婚という形式をとるだけだということを理解しておいて。わたしのプライベートにはいっさい踏み込まないこと。いいわね? 好きでもない相手と結婚するわけだから、それはきっちり割り切っておかないと、続かないと思うから」

 ええ?

 永盛の頭がさらに混乱する。課長の目的がなんなのか、さっぱりわからなかった。課長にとって、この結婚はどんな意味を持つのだろう。それに自分が巻き込まれるような形になっている理由は?

 なにからなにまでわからないことだらけだった。

「いつまでそこにいるの? もういいから戻っていい。通常の業務を続けて」

「あ、はい……」

 永盛はふらふらとデスクに戻っていった。



 この僕が結婚する──しかも、職場の課長と。

 永盛はへんな夢でも見ているような気持ちになった。

 結婚だけでも非現実的なことであるのに、その相手が四歳年上の課長。直属の上司と結婚なんて、なにかの冗談ではないか、もしかしたら、担がれているのかもしれないと思ったが、冗談が通じる課長でないことは知っていた。

 これは本当に事実なのだろうか。なにか、とんでもない勘違いをしているような気がしてしかたがなかった。

 友人に相談しようとしても、この会社に気軽に話せる友人など、ただの一人もいない。

 気がつくと定時をすぎていた。さっさと仕事を切り上げて退社する人もいれば、残業を頑張る社員もいた。

 永盛はやり残した仕事を明日に回すことにして、今日は帰宅することにした。

「お先に失礼します」

 カバンを抱え、席を立つ。

 課長のほうを見ると、まだ仕事をしていた。永盛にはなんの注意も払っていない。それはいつものことだ。だから永盛も気にしないでオフィスを出た。

(やっぱり気のせいだったのかな)

 課長に呼ばれたのも気のせいなら、結婚の話を聞いたのも気のせい。

 自宅へ帰る道すがら、そんなことを思ってしまう。それは一番、ありそうな感じがした。

 悪夢。あるいは、幻覚。

 冷静に、理論的に考えて、あの優秀な課長が、自分と結婚などするわけがないではないか──。

(そうだよ。そんなことあるわけがない。へんな思い違いをしていた)

 そう結論すると、急に気が楽になった。

 電車を乗り換え、コンビニによって今日の晩ごはんの弁当を買うと、アパートに帰りつく。

 永盛は一人暮らしだった。築二十五年の古い1DKのアパートは家賃九万円。入社してからあまり給料は上がっていないから、住む部屋もグレードアップできないでいた。

 給料が上がらないのは仕方がない。昇給するだけの成果をあげられていないのだから。

 昔から、なにをやってもうまくできなかった。勉強も運動も、いくら一生懸命にやっても結果がでなかった。

 だから大学も一流どころは合格できなかったし、二流の大学でさえも、講義についていくのが精一杯だった。

 会社でのいまの地位も、しかたないと思えた。

 そんななにもできない永盛だったが、唯一特技があった。ピアノだった。幼いころから習っていて高校まで続けていた。音楽大学に入学する夢ももってはいたが、音大では将来の就職には不利だろうとあきらめたのだ。親を安心させるためでもあった。

 音楽で食べていくことはできない──。

 不可能ではないだろうが、そんなことができるのは、一握りのエリートか運のよかった人間だけだ。自分にそこまでの実力はない。運はそれ以上にない。そこは周囲を見ていればわかる。自分よりもすばらしい演奏ができる者はいくらでもいる。コンクールで入賞できなかった永盛はそれを思い知っていた。好きなピアノでも一流にはなれない。

 だがピアノを弾くこと自体は好きで、あくまで趣味と割り切って演奏を楽しんでいた。

 必要以上のものを買わないため、なにもない部屋に、ひとつだけ不釣り合いに置いてある、電子ピアノ(キーボード)

 永盛はクッションにあぐらをかいて電子ピアノを載せ、音がうるさいと苦情が来ないようヘッドホンを耳にあてる。

 電源を入れ、今日の気分で曲を選んだ。

 ショパン・子犬のワルツ。

 ショパンは好きな作曲家だった。あの、忙しくもタイミングを微妙にずらした、追いかけるような旋律が美しかった。

 ひとしきり演奏し、気分が落ち着いた。好きな音楽に触れれば幸せだった。他になにも望まない。広い家も高級車も海外旅行も最高級の料理もブランド品も。そんなものなくても困らない。

 永盛には、このアパートの空間があればじゅうぶんだった。

 だから結婚も必要ない。

 明日も、いつもと同じ日常の業務が待っているだろう。なんの変化もないルーチンワーク。仕事でなにか大きなことを成せるとは思っていなかったし、進んで取り組もうなどとは思わない。変化のない穏やかな日常──永盛はこの生活に満足していた。

 だから翌朝──。

 京極課長からのメールを見て、永盛は愕然とした。

 そこには、今後の結婚へ向けてのスケジュールが詳細に書かれていたのだ。

 それぞれ両親への挨拶に始まって、婚姻届けの提出、新居への引っ越しと日程が書き込まれていたのだ。

 やはり、自分は結婚するのか……。

 昨日の課長とのやり取りは幻覚でも間違いでもなく現実だと認識した。それでもどこか信じられない。

 なぜ、自分なのか──。

 課長はたしか、こう言ったのではなかったか。

『理由など説明する必要はない』

 面倒だというので、そのときは引き下がった。ではその理由とはなんだろう?

 改めて考えるが、なにも思いつかない。永盛は結婚に前向きではなかったし、さして必要とも感じていない。

 特定の相手がいないから──。だとしても、なんでそんなことが課長にわかる? わかるのか?

 永盛は、窓を背にしたデスクの課長を盗み見る。とにかく、日程を確認した。

 次の日曜日に、課長の両親への挨拶。その際の口上文が添付ファイルにあり、「よく覚えておくように」と念を押されていた。

 ワードファイルを開けてみると、五百文字ほどの挨拶分が書かれていた。京極課長への信頼と、結婚への熱意が直接的に伝わる内容で、これは全部課長が書いたのだろうか、それともネットで拾ってきたものを適当に加工したものなのだろうかと訝った。これを覚えて、課長の両親のもとで述べなくてはならないのかと思うと、いつもの仕事とは比べ物にならないほどのプレッシャーと感じた。

 次の週には、永盛の両親のところへの挨拶で、スケジュールの調整をしておくように、とあった。都合がつかない場合は知らせよ、と。

 婚姻届けの提出は、二人そろって行くことになっていた。一人で提出に行くと、役場も怪しむのでスムーズな受け付けを望むため、とのこと。

 新居への引っ越しの準備をしておくよう書かれ、引っ越しの日程も決められていた。新居に入る荷物の量が制限されており、永盛へのプライベート・スペースに入り切るものだけ持ってくるよう手配する旨が記されていた。入らないなら処分するか、トランクルームを使用せよ。

 なにもかも永盛の都合など考慮に入れていない、いってみれば身勝手で一方的なスケジュールであった。

 が、そこで永盛は気づいた。

 式や披露宴はいつ執り行うのだろう? 結婚といえばそこも肝心なところなのだろうが、一切記載がない。新婚旅行についても触れていない。

 形だけの結婚といった課長の意図がそこに見えた。

 ならばこちらもそういう態度で臨むのがいいのだろう、たぶん。

 とにかく、このスケジュール通りにことが運べるよう、与えられた仕事をきちんとこなす。通常の仕事と同じように。そう、これは仕事の一環なのだ。そう捕らえると落ち着いたが、結婚という極めてプライベートなことを会社に持ち込んでいる昭和時代のような感覚に、知的で現代的で常に未来を見通しているような京極課長にイメージがあわず、永盛は戸惑うのだった。



「あんた、結婚するの?」

 電話にでた永盛の母親はひどく驚いていた。

 正月ぐらいに、ほとんど義務感から帰省するときにしか両親とは会わないし、電話もLINEも必要以外することがない。

 よって、今回のことはまさしく寝耳に水だ。

「あんたにそんな女性ひとがいたなんてねぇ……」

 電話口でしみじみと言う母親だったが、そんな女性がいたことなんかなかったからな、と冷静に思う永盛自身、恋人でもなんでもない女性と結婚するとは思ってもみなかった。そんなのでいいのかな、と頼りなく感じなくもなかったが、課長の言うように、これを逃せば結婚する機会はなさそうであったし、両親も安心するだろうとの打算がなかったとはいえない。そこに「永盛本人の気持ち」は入っていなかった。そんな気持ちで結婚生活が続けられるかどうかわかるはずもなかったが、あの優秀な京極課長ならだいじょうぶだろうと、他人任せの永盛であった。京極課長はいずれ部長、常務と出世していくだろう。自分とは違うそんな優秀な課長の判断に、間違いがあろうはずがない、と思えればいいが。

 挨拶に行くよ、と言うと、永盛の両親は快く承諾してくれた。

「ごちそうを作って楽しみにしているわ」

 母親はそう言ったが、

「うん、ありがとう」

 と返事をする永盛には、なんの喜びもなかった。


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