偉人の灰眸種
セナ、という名前にサヤが驚いていたので、どういう人物なのだろう、と気になったが、シュウは質問する間を与えてもらえず、サヤに手を引かれて、キロという黒猫を追いかけた。
キロは灰眸種の中でも力が弱まっており、黒猫に取り憑くのが精一杯だという。だから、目も灰色じゃないし、人間の姿になれないという。
ただ、それにしてはやたら元気……というか、猫らしくすばしっこい、というか、足が滅茶苦茶速い。
僕、病み上がりなんだけどなあ、と思いながら、シュウは息を切らして走る。サヤにがっちり手首を掴まれているので、走らざるを得なかった。そのサヤも足が速い上に、息一つ切らさない。
灰眸種は既に生き物ではないものを呪の力で動かしているので、呼吸も何もしていないのだが、そんな説明を受けている余裕もないのだろう。シュウの手首を掴むサヤの手の力は強く、表情は切羽詰まっていた。おそらく、あのキロという黒猫は限界が近いのだろう。
一番生活感のある建物に入っていく。そこでサヤが足を止めたため、シュウも慌てて止まった。
床は塵一つなく綺麗で、壁紙もちゃんとしており、家具は使用感がありつつも、まだ使えそうなくらい立派に整っている。その中をキロが猫独特の足取りで歩き、一つの椅子に座る人物の膝へ飛び乗った。
椅子に座る人物はサヤに比べると赤みの射した、生きている人間らしい肌色をしている。指通りの良さそうな茶髪は長く下ろされており、キロの猫耳をちょこちょことくすぐっている。
「ああ、よかった。誰か見つけられたのね」
安心したような女性の声は明るく、気さくで、姉のような印象だった。シュウに姉がいたかはわからないが、なんとなく、そう思った。
しゃら、と猫を撫でるために動かされた腕についたブレスレットが音を立てた。碧い石、紫の石、紅い石。三つのブレスレットがしゃらりと音を立てると、それらが不思議な光を放ち、手を伝って、キロへと注がれていく。
「お疲れさま。おやすみなさい」
慈愛に満ちたその言葉がシュウにはある歌と重なる。
絶唱姫ミクの放つ広範囲高威力の呪。葬送の歌。
キロがなぁーーん、と眠たげな声で鳴いて、その金の目を閉じる。それを見て、シュウは直感的にわかった。この黒猫が目を開けることはもうない、と。
「セナさま、キロは……」
「吸血鬼に襲われたのだと思うわ。近くに潜んでいるかもね。この子は人の姿になれないから、吸血鬼になぶられたようね。あたしが通りかかったときには、魂を繋ぎ止めるだけでいっぱいいっぱいだった」
その目は赤みがかった灰色をしている。
この人も灰眸種なのだろうか。
「体の損壊が激しかったから、治癒の呪を使ったのだけれど、この子自身の呪の力が弱まっていたから、最期に何か言い残すことがあるか聞いて、看取ろうとしたら、『サヤさまが銀の森に行ったから心配で、せめて一目、ご無事を確認したい』と。だから短い時間だけれど、あの子の呪をあたしが補強したの。無事だったようで何よりよ。黒翔の君サヤ」
「セナさまのキロへの慈悲に、心より感謝いたします」
サヤは女性の前に跪いた。シュウと会ったときと言い、サヤは誰かに頭を垂れることに躊躇いがなくてびっくりしてしまう。
シュウがサヤからセナと呼ばれた女性に目を向けると、セナとぱちりと目が合った。シュウの中でどくん、と鼓動が高鳴る。不思議な感覚がした。セナとは初めて会うはずなのに、この感覚は……「懐かしい」……?
「サヤ、そう簡単に跪かないで。あたしはあなたに頭を垂れさせるような器じゃないわ」
「何を仰いますか。セナさまは旧世界にて創造主メアと共に吸血鬼を狩った英雄でございましょう」
メアという名前にシュウが反応する。サヤの反応をセナは困ったような眼差しで受け止めていた。
「吸血鬼と戦っていたのはあなたも同じ。灰眸種になった者は皆、吸血鬼と戦った騎士団の同志よ。この子だってそう」
セナの細い指が黒い毛並みを撫でる。その膝の上で、キロは安らかに眠っていた。
この世界に吸血鬼が隔離される前、吸血鬼と戦っていた集団騎士団のことはシュウも軽く聞いていた。団というからにはそれなりの人数がいたはずだ。吸血鬼に立ち向かう灰眸種がサヤだけでないのも、騎士団に所属していた人間の魂がいくつも呪として灰眸種になったからだろう。
それはシュウよりサヤの方が知っているはずだ、とシュウがサヤに目を向けると、サヤの口から飛び出したのは、憎悪と憤怒の言葉だった。
「けど、あいつだけは違います! アレは裏切り者だ!! 灰眸種の恥、石英の……」
「サヤ、落ち着きなさい」
セナがサヤの額をぴん、と弾く。なかなかいい音がしてぎょっとする。サヤという少女の輪郭が消え、カラスがそこに落ちそうになるのを、なんとかシュウがキャッチした。
「いい動きするじゃない」
「まさか、試したんですか!?」
んー、それもあるかも、とセナがあっさり言う。「も」ということは他にもあるのだろうが、シュウを試すのにサヤを傷つけるのはいかがなものだろうか。
それにしても……
「呪って、治癒にも使えるんですか?」
「使えないわよ、普通はね」
不思議に思っていたことを口にすると、セナは至極当然といった風に返してくる。シュウは心の中でずっこけるが、そんなのはお構い無しにセナはすらすらと説く。
「呪というのはそもそもただの『力』という概念に言葉や形式という輪郭を与えて具現したもの。粗削りな『力』が人や物を傷つけるのは当たり前のことでしょう?
傷つける力としての呪が吸血鬼という脅威のある世界では都合がよかっただけ。言葉や形式、構成をよく考えて練り上げれば、力は癒しにだってなるわ。少しの加減で毒草が薬草に、薬草が毒草になるのと同じよ。あたしはその論理を応用して、治癒する呪を扱えるようになっただけの人間……じゃないわね、今は灰眸種だっけ。人間だった頃の記憶が明瞭だから慣れないのよね」
セナは同じ灰眸種でも、サヤとはずいぶん様子が違う。サヤが畏まっているだけかもしれないが、感覚がシュウに近い側だ。
サヤを抱き止めたシュウにセナは体を向ける。ショート丈のジャケットにショートパンツのかなり動きやすそうな格好のセナは赤灰色の目でシュウを見る。
「あなたとの再会、または初対面に相応しい言葉は何かしらね? まああなたに言っても仕方ないんでしょうけど。あたしの名前はセナ・エル・ブランシェ。今は情報屋をやってる旧世界の大天才さまよ」