弔砲
サヤは現在地確認のため、カラスの姿になり、森の上へと出た。木々を抜けたところで気づく。
「空が暗い……これは、呪? いえ……」
森を覆う黒い雲のようなもの。それは一見、典型的な呪に見える。だが、その雲の醸し出す雰囲気はただの呪とするには異様だ。呪は世界に宿る力で、意志を持つ者だけが扱える。形あるものを好むから、サヤの刀やシュウの銃のような物に宿った状態である場合が多い。
呪を効率よく扱うためには媒介を用意した方がいいという話もあるくらいだ。呪は形あるものに納まった方が安定する。
しかし、サヤが呪と疑った黒い雲のようなものはどうだろう。形がなく、不穏で、何かが蠢いているような気がする。
瞬間、サヤの耳に数多の声が聞こえた。
『助け『いやあああああ『死なな『死にたい』『殺してください』息子は病『どうし『かみさまはせかいをすくってあの『くれない』子が吸『になってもいいから生き『怖いよ怖いよ怖い怖い怖い来ないで』血鬼なんかに』気なんですだか『やつらを根絶やしにするまでオレは死ねない』息『なんで人間は弱いの』『すぐ死ぬの』子を『力さえあれ『力なき人間に力を手にする資格など『遊ば』ない』『死にた『呪ってや』くな『る』い死『呪って』にた『や』くな『る』い』『どう『お願』して許せな『い』の』『だから』殺さないで!!』
重なった声、言葉の一つ一つを聞き取ってしまい、サヤの体がぐらりと傾いだ。カラスは人間には聞き取れない周波数の音も聞こえてしまう。飛べる体に不便を感じたことはなかったが、こんな欠点があるとは。
サヤは即座に人間の姿になり、森へと落下した。あれを聞きながらでは飛べない。想定通り、人間の姿になると、あの声たちは聞こえにくくなった。鼓膜がまだ揺さぶられているように感じるのは余波だろう。
枝を一つ掴み、着地して走り出す。湖の方角はわかった。走り出す。
「まさか絶唱姫の呪が途切れただけで、あんなものまで寄ってくるとは」
黒い雲のようなものは呪ではない。先程の声たちで確信した。あれは「魂たち」だ。
隔離世界メアに閉じ込められた魂の多くは動物の遺骸に取り憑き、灰眸種となった。だが、全ての魂がそうなったわけではないし、例外はいるものの、基本的に呪という力を扱えない吸血鬼は灰眸種になり得ない。ここは隔離されているため、死んだ者の魂は呪に昇華されない限り漂い続け、存在し続ける。黒い雲のように集っているのは、そういった行き場のない魂たちだ。
魂たちがこの森に一斉に集まって、害意の有無に拘わらず、一ヶ所に集ってしまったために、一つになろうとしている。
低俗な吸血鬼なら一瞬で粉微塵にするほどの絶唱姫である。彼女が歌い続けるのには、当然理由があるだろう、とサヤは読んでいた。この森に愛着があるからとか、或いは、この森で何かを守っているから、とか。
絶唱姫の呪が強すぎてサヤにはわからないが、おそらく湖に何かがあるのだろう。だとしたら、先の銃声のこともある。シュウが危ない。
上空の魂たちは半ば呪と化しているようなものだ。そう考えると、彼らはかなり危険な状態である。何故なら、彼らには「形がない」からだ。彼らの受け皿になる媒介がない。形のない呪は不定形であるため、不安定で、どのような暴走をするかわからないのだ。
湖にある何かを求めているのなら、湖にいるシュウが危ない。いくら強い呪を扱う絶唱姫が一緒とはいえ、絶唱姫が完全にこちら側の味方とは限らないのだ。
シュウが外の世界から来たと仮定して、隔絶され、魂すら出入りのできない世界である。それなら、世界の管理者クラスがシュウがこの世界に来るよう手引きしたと考えるのが真っ当だろう。世界の管理者といえば、この世界を作ったメアがまず挙げられるが、絶唱姫は隔離世界となる前から、メアと共に戦っていたとされる。
メアから絶唱姫が何か聞いているかもしれない、と思い、記憶のないシュウがこの先どうすればいいか、指針を示してくれるだろうと予測して、サヤはシュウと絶唱姫を二人にした。一介の灰眸種が聞いていい内容ではないだろうからだ。だがサヤは絶唱姫を信用しているわけではない。
元人間とはいえ、今は吸血鬼だ。世界の管理者と関わりがあるのも、きな臭く思えてきた。
メアは人間のはずだが──と考えたところで、視界が拓ける。
『長い眠りから覚め私は来たの
当て所なく空見上げ私は逝くよ
人は皆生き死に、其処へ逝くの
あどけないあなたは何処へと逝くの?
悲しみが空から降り注いでく
暖かい雨が頬を伝ってく
さあ、生きとし生ける憐れなものらに
葬送の歌届けに行きましょう』
拓けた視界の先で、シュウが白銀の拳銃を空に向けていた。そのすらりとした指がゆっくりと引き金を引き、乾いた音が響く。
その銃声はどこか悲しげで、寂しげで、……それでいて、共に行こうと手を引いてくれるような、優しさに満ちたものだった。
サヤは不思議な感覚に陥る。魂が肉体から浮くような、地に足のつかないような感覚。その状態が不安定なことはわかっているのだが、とても、気持ちいい。
ぱぁん、という音で、サヤははっと我に返る。同時にシュウが何をしていたかわかった。
「弔砲を、打っていたのですね」
サヤがゆっくり歩み寄ると、シュウが微笑んだ。無事でよかった、とサヤの手を取る。
弔砲。それは亡くなった人物のために打つ大砲である。人間がほとんどいないこの世界に大砲はない。シュウがやったのは正確には弔銃というものだが、持つ意味はほとんど同じだ。読んで字の如く「弔い」である。
「うん。説明はされなかったけど、なんとなくわかったんだ。あれはもうどこへも行けない、報われない魂だって。死んだ魂を浄化するには、やっぱりきちんと弔ってあげることが一番かなって思って、僕にできることをしたんだ」
サヤは明確にはシュウのその行いが「弔い」ではないことを知っていた。シュウの双銃はかなり強い呪である。魂たちに呪を当てることによって、魂を昇華させた。それがこの世界の有り様だ。
だが、シュウのその清らかな心遣いに対して、重箱の隅をつつくような指摘は野暮というものだろう。
「絶唱姫から、何か聞けましたか? 呪が復活したようなので、駆けつけましたが」
「うん。僕にはやることがあるみたい。ミクはあまり長く話せないから、詳しくは説明できないって言ってたけど」
シュウが空を見上げる。釣られてサヤも見上げると、黒い雲たちは散り、日の光が射すようなことはないけれど、赤い月が照らす夜空が広がっていた。どことなく爽やかになった気がする。
シュウが語る。
「どうやら僕は、この世界をどうにかするために呼ばれたみたい。吸血鬼のこと、サヤたち灰眸種のこと、この世界に残された人間のこと、さっきみたいな死んだ人の魂のこと……たぶん、この世界にはたくさん問題がある。サヤが教えてくれた通り、三千世界の転換期ってやつなのかも。節目の年、だっけ」
「けれど、この世界の問題は、この世界の者たちで解決すべきでは?」
「それができていたら、この世界は三千年も隔離されてないよ」
シュウの言う通りで、サヤはぐうの音も出ない。サヤたち灰眸種黒曜族を筆頭に、吸血鬼への憎しみだけで戦い続ける者は多い。灰眸種間でも考えの違いがあり、敵対している種族までいる。それだけでも滅茶苦茶なのに、吸血鬼は更にそれらを滅茶苦茶にしていく。
この世界で生きるものは往々にして自分勝手だ。憎みたくて憎んで、殺したくて殺す。人間が育んだ文化の一つであるはずの料理の一つすらまともにできなくなるほどに。
「ミク──絶唱姫はもう歌うことに集中して話せないと思う。だからこの世界に詳しい人に聞こうと思うんだ」
「と、言いますと?」
「世界の創造主、メアって人を探す。まあでも、まずは身近な人に頼ろうかな」
シュウはサヤの目を見て、首を傾げる。
「サヤ、この世界を案内してくれないかな。吸血鬼を倒すの、手伝うからさ」
シュウからの申し出に、サヤは心の中に歓喜の感情が広がるのを感じた。
サヤは一人で行動をしていたが、元々は誰かに仕えることの方がサヤの気質に添うのである。
「謹んで、お役目承ります。シュウさま、これから、よろしくお願いいたします」
そして、永くて短い、終焉の旅が始まった。
第0楽章「葬送の歌」完
第1楽章へ続く──