絶唱姫
三千世界。三千年という世界の節目。
赤い月が昇りっぱなしの世界では、それくらいしか判断する基準がないだろう。
サヤはシュウが世界に「もたらされた」と表現した。それなら、シュウがこの世界の何もわからないのも頷ける。こんな濃い世界の話を聞いて、自分のことを何一つ思い出せないのは、シュウがこの世界の人間じゃないからだ。
だとしたら、何故もたらされたのか。どうして呪が使えるか。疑問はいくらでも湧いてくる。
サヤはそれを想定していたのだろう。淀みなく続ける。
「だから私はあなたをこの絶唱姫の森へ連れてきました。この世界が今の世界になったときから生きていて、何かを知っているとしたら、それはメアと共に戦っていたという絶唱姫をおいて他にいないでしょう。まあ、絶唱姫の森があまり吸血鬼の寄りつかない安全地帯だというのもありますが」
「絶唱姫はこの世界を作ったという人と仲間だったの?」
「ええ。メアには頼もしい騎士団という仲間がたくさんいて、その中でもトップレベルの実力を持つとされた五人のうちの一人が絶唱姫だそうです。志半ばで吸血鬼にされてしまったため、今は私たちのために歌ってくれているのでしょう」
「歌……」
そういえば、意識を失っている間、ずっと少女の歌声が聞こえていた気がする。
そう思い出した瞬間──
『……ら、から……、く……』
「!!」
覚えのある歌声が聞こえた気がした。
が、それはサヤの次の言葉に否定される。
「絶唱姫は声が出なくなっても歌い続けることで呪を振り撒く存在。故に、声が絶えても唄うという絶唱姫と渾名されるのです」
「え」
それじゃあ、この声は一体……
シュウが問うより先に、サヤがシュウの額に手を当ててくる。距離が近い。少し動けばキスでもしてしまいそうなくらいに近いのに……サヤの唇から吐息が零れることはない。額に当てられた手も生きているとは到底思えない冷たさだ。
サヤが人間ではないことをまざまざと感じて息を飲む。幼い面差しながら眉目秀麗なこの子は、とうの昔に死んでいるのだ。
温かいスープを作れるのに、とシュウはサヤがくれた皿から一匙掬う。湯気が立っていた。
「熱は下がったようですね。スープを飲んだら、絶唱姫のいる湖に行ってみましょう」
「うん……っげほっ」
掬ったスープを飲んでシュウは噎せた。滅茶苦茶塩辛かったのだ。塩の味がするだけ。この琥珀色は一体何なのか。
「あら、申し訳ございません。我々灰眸種は元は人間と言えど、死んでいるので食べ物を食べる必要もないもので……お口に合いませんでしたか?」
「な、何で作ったスープなの……?」
「お湯を沸かして、塩を入れました。人間の家で見たスープの色にならなかったので、体に害のないという着色料を少々」
吸血鬼と戦ってばかりだからか、人間としての生活が忘れ去られているようだ。三千年もそうだと、無理からぬ話だろうか。まあ、廃屋の有り合わせで水分が摂れるのはありがたいことだと思っておこう。スープはしょっぱすぎて飲めないが。
シュウは人間だから、食べなければ生きていけない。この世界の人間はわずかだと聞いた。吸血鬼は人間と同じ食事をするのだろうか。血液だけで済ませているのだとしたら、食糧問題でシュウは詰んでしまうのだが……
後のことは後でどうにかしよう。ひとまず、絶唱姫に会う予定を繰り上げることにした。
「絶唱姫ってどんな人なの?」
森を歩きながらサヤに問う。コートは血塗れだが、一応着られるので、着てみた。裾丈はちょうどシュウの膝くらいで、妙にしっくりくる。襟は立襟になっていて、首回りを覆う形となっている。生地もいいようで、着心地がとてもよかった。
サヤがシュウを見つけたときは所々破けていたらしいが、それはシュウが寝ている間に繕ったのだという。跡がわからないレベルなので、料理はあれだが、裁縫はいけるらしい。服が破けるなんてしょっちゅうなので、と弁解していた。別に責めてはいない。
「絶唱姫はずっと歌っているだけなので、人となりはわかりませんが……呪の扱いに関してはどんな灰眸種も敵わないくらい器用で膨大な出力の持ち主です。ここが絶唱姫の森と呼ばれ、傷ついたものの休み場になるくらいには広範囲に呪が及んでいますから」
「吸血鬼ながらに、吸血鬼避けになっているってことだよね。呪ってそんなに強いの?」
吸血鬼は殺したら死ぬ。シュウは拳銃で吸血鬼の眉間を撃ち抜いた。眉間を撃ち抜かれれば普通に人間は死ぬので、同じ構造をしている吸血鬼が死ぬのはわかる。
ただ、サヤにああは言われたものの、呪という特別な力を使った実感がない。武器を使って敵を倒したくらいの認識しかないのだ。
サヤも吸血鬼を倒していたが、刀で斬っているだけのようにしか見えない。
「そうですね……吸血鬼と人間の大きな違いは吸血行為の有無が主に挙げられますが、肉体の大まかな構造が同じでも、肉体の強度が段違いというのがあります」
「人間より吸血鬼の方が体が丈夫ってこと?」
「そうです。普通の刀で斬りつけただけでは吸血鬼の首は飛びません。どんな達人が斬っても、ついてせいぜい掠り傷です。
シュウさまの武器、拳銃では手のひらすら貫通しないでしょう。眉間を撃ち抜くなんて夢のまた夢です」
人を撃ったことがないのでわからなかったが、暗に人の眉間は通常の拳銃でも撃ち抜けると知ってしまった。知りたくなかった気がする。
だが、なんとなくわかった。つまりただの刀を振っただけでは先のサヤのように吸血鬼をなますにはできないということ。呪は刀の強化のようなものだろうか。
「呪を一口に説明するのは難しいですが、武器の強化という認識で大体合っています。ただ、そもそも呪というのは『害あるもの』という意味の言葉なので、気をつけないと、仲間も傷つける力となります」
「じゃあ、絶唱姫の呪って? 歌を歌って……ってなんだかずいぶんぼんやりしているけど」
「それは絶唱姫が元々、呪を操る歌を扱う特殊な一族の出だからです。詳しいことはわかりませんが、絶唱姫の元の一族は呪を操るための呪文のようなものを詠唱して呪を扱っていました。唱えていただけのものが次第に歌となり、一族特有の呪の使い方として馴染んでいったのでしょう。
呪は通常、刀や拳銃のように形を持ったものに纏わせて使うものです。呪自体は実体を持っていないので、実体のない状態の呪を操る絶唱姫の力は特別で、すごいんです」
なるほど。目に見えないものを触って動かす要領なわけだ。更には人間や灰眸種に害がないように出力を調整しているのだから、サヤが器用と称したのもわかる。
「会いに行ったとして……話せるの? ずっと歌っているんでしょう?」
それに、声が出ないとサヤは言った。それでは会話が成立しないのではないだろうか。
「私がシュウさまに示せる手掛かりが絶唱姫くらいしかないもので……何もしないよりはましかと、ご案内しております」
「それもそうだね」
もし、ぼんやり聞いていた歌や先程の声が絶唱姫のものだとしたら、サヤの案内も正しいことになる。あの声の正体が絶唱姫だとしたら、シュウには声を届ける手段があるということだ。
手掛かりが少ないと嘆くよりも、少ない手掛かりから何かを見つけていく方が生産性があっていい。
話しながら森を歩いていくと、拓けた場所が見えてきた。
「もうすぐ湖です。絶唱姫はこの湖で歌っているはずです」
拓けた視界の先は、湖が月光を反射して、一瞬目が眩んだ。慣れると、赤い月が映る大きな水面の中心に、髪の長い少女が立っていた。
ふわりと広がる髪は、赤くない月の光を紡いだような銀灰色。光の反射の関係か、時折緑の光を返す。
シュウも銀灰色の髪をしているが、緑の光は返さない。赤い月の下なのに、不思議な色だ。
ふと、何かがふつりと途切れた気がした。なんだろう、と疑問に思うより先に少女の声がした。
『シュウ、よかった。また会えたね』




