理解されなくても
銀の茨の蔦という呪が器をなくしたことで、世界の均衡が崩れた。幸か不幸か、それがメアの隔離世界設立を助けたわけだ。
「メアはそこまで考えていなかったと思うが、まあ、世界は生き残るためにそう廻ったんだろう。あのときは最高戦力のうち一人がいなくなって、戦線も崩壊しかけてた。『黒翔』が一人で保ってたもんだからな」
黒翔。サヤの刀と同じ名前だ。
「サヤが?」
「いいや、あの女じゃない。黒翔は元々、男に憑いてた。だが、そいつは隔離世界の礎になって体が消えた。おそらく魂も消滅したんだろう。だから刀だけが残った」
「サヤはそれをたまたま拾ったっていうこと?」
「黒翔は銀の茨の蔦ほどイカれちゃいないからな。代々呪を人のために使っていた黒曜族っていうのがいたんだ。黒翔は物と人に取り憑く殺戮の呪。黒曜族の管理下に入ったのは銀の茨の蔦が器を得てからだいぶ後のことだが、黒翔自身に魂があり、その意志でもって持ち主を決めていたらしい黒いものを好むから黒翔なんだ」
案外名前の由来は安直なようだ。
「と、オレも何か飲むかな。この家はユウが色々融通を利かせてくれてるから、他の廃墟よりまともなもんがある。オマエは何か飲むか? 紅茶あるぞ」
シュウは静かに首を横に振る。水すらまだ飲めそうにないから。
そ、と素っ気なく扉の外へ消えるカイ。なんだか生活にこなれている感じがした。他の灰眸種と違い、普段から人の姿を保っているから、人としての生活を続けてきたのだろう。
不思議に思う。サヤやカイやユウが死体に取り憑いているだけの生き物ですらないものだなんて。彼らの心は脈動しているのに。まあ、カイはだいぶ達観しているようだが。
シュウはコップの水面に映る自分の顔を見る。だいぶ、彼らの語る五十嵐終のことを受け入れられたような気がする。自分の前世が人造人間というのはわりとショックだけれど、今のシュウが人間であることを覆す理由にはならない。
少し水を飲んだ。冷たい液体が喉を通って、食道から胃の中へと流れていくのがわかる。ただの水だけれど、美味しく感じた。
それが人間である証拠だと噛みしめる。サヤから与えられたしょっぱいスープを思い出す。サヤは普段は食べないし飲まない、というようなことを言っていた。隔離されて、時間の概念が曖昧になった世界で、生きてすらいない灰眸種という存在は食事を必要としない。吸血鬼は血を飲むことで栄養を得ている。水を飲んで、美味しいと思うのは人間だけなのだ。
となると、うきうきで紅茶を淹れに行ったカイは灰眸種にしては人間臭い。人としての生活が抜けていないからだろうけれど。カイなら美味しいスープを作れたりするのだろうか。
ぐるぐると頭の中で考えていると、いい匂いがしてくる。紅茶の芳しい香りだ。
「お、水少し飲めたな。進歩進歩」
カップを持ってきたカイは空いている手でシュウの頭を撫でた。この世界に来て、人に撫でられたのは初めてだ。セクハラはされたが。
「そんな、水を飲んだくらいで」
「いんや、すごいことだよ。オマエは生きようとしている」
「え?」
シュウが驚くと、カイは目を伏せた。
「この世界で灰眸種として動いてるのは、吸血鬼に激しい痛みを抱いている元騎士団のヤツらばかりだ。アイツらは死して尚、吸血鬼に復讐を果たそうとしている。隔離世界の案も賛成した。己の身を捧げて、それでも尚、尽きぬ恨みが身を焦がすから、吸血鬼と対峙する。見てらんねーよ」
カイは左目を押さえる。
そうか、とシュウは思い至った。カイの左目は禍ツ眸。千里眼を求める人の心から生まれた呪。カイの望む望まないに拘わらず、見たくないものまで見せてきたのだろう。
自分と同年代に見えるのに、どこか遠い存在のような気がするのは、精神性が違うからだ。シュウの何十倍も生きた上で、必要なことも、必要でないことも、取捨選択させてもらえずに知ることとなる。それがどんなに苦しいことか、シュウには想像もつかない。
命を燃やして敵を討つ。その字面は格好の良いものかもしれない。だが、それを見届ける立場の者は、残される者は? 生きていてほしいと願っているかもしれないのに、命を捨てる人間を、カイはどれくらい見過ごしてきたのだろう。
「そういう点では、サヤもユウも見てらんねーけど、オレは見ていることしかできねーからな。敵にも味方にもなれん」
「……カイはなんで騎士団に参加したんですか?」
不思議に思って訊ねると、何故かカイがきょとんとした。目をまんまるにして、それからくつくつと笑い出す。
肩を震わせて笑いながら、カイは呟きを落とした。
「なんでだっけなあ。なんでだったかなあ」
カイはカイで壊れているのだ。欠けているのだ。人間一人が背負うにはあまりにも壮大すぎるものを背負わされて。望んで背負ったのか、そうじゃないのかはシュウにはわからないけれど。
カイという人間は悲鳴を上げそびれて、笑っている。その全てが、この世界の歪さを物語っているような気がした。
「別に吸血鬼がいたっていなくたって、オレは世界に存在できたはずなのに。なんでかわからない。別に大切な人を奪われたとか、そういう高尚な意識があったわけじゃないんだ。世界に流されるままに生きてた」
「いいんじゃないか、それで」
新たな声にはっとシュウの体が強張る。自分とそっくりな誰かの声。それがした方を向くと、少し長い銀髪に、銀灰色の目を持つシュウと瓜二つの少年が立っていた。
シュウは、同じ空間にいるのに、彼の存在を受け入れがたく感じた。きっとさっき、吸血鬼に血を吸わせているところを見たせいだろう。サヤではないがこの人物は確かに「あちら側」の存在なのだ、と頭に深く刻み込まれてしまった。先入観が良くないのはわかっているけれど。
カイがユウに振り向く。
「早かったな」
「呪を回して回復するのにはもう慣れた。何年やってると思う?」
ユウの呆れ声に、カイはさあ、と剽軽に肩を竦める。
「この世界は時間の流れがないからな。何年もへったくれもないだろうよ」
「お前のそういうところ、好きじゃねえ」
「フッ、野郎に好かれて浮かれるようなバカじゃねーよ」
カイとユウはどういう関係なのだろうか。想像していたよりずっと気安い。少なくとも、シュウよりは距離感の近い話し方をするみたいだ。
サヤと対峙していたときのユウはそこそこ邪悪に見えたのだが。
「っと。連れ去っておいてから、何の説明もなくてすまないな、シュウ」
「いえ……」
自分と同じ顔の人物から自分の名前を呼ばれるのは、なんだか奇妙な心地がした。むず痒いような、ぼんやりと「違う」と感じるような、そんな感覚だ。
ユウがサヤのところからシュウを拐った理由には察しがつく。ユウが吸血鬼に血を吸わせているところを見ても、サヤは吸血鬼に媚びているとしか受け取らないだろう。短い付き合いだが、サヤの頭がそこそこ固いことは察していた。
貞操観念もかちこちだしな、と少し苦いことを思い出す。
「というか、セナもやってんな。マーキングされてる」
「そ。だからあんま長く話せねーぞ。セナが空気読んでるうちに話済ませ」
マーキング? と頭に疑問符を浮かべようとしたところで、はっと気づく。シュウは思わず口元を押さえた。
メアがどうこう言っていたが、あのときのキスはそういうことだったのか。
「シュウが現れたらメアより先にとか言ってたが、本当に実行するとはな。嫌がらせに抜かりがない。執念すら感じるな」
「愛猫を殺されたんだ。人間ってのは猫に弱いらしいぞ」
「あの、話って……?」
歓談が始まりそうだったので、水を射すのもどうかと思いつつ、シュウは聞き出すことを選んだ。あまりにも自分は何も知らないから。
ん、ああ、と生返事をして、ユウはシュウに向き直り、シュウの側で跪いた。
「俺はお前の味方にはなってやれない。誰の味方でもない。味方じゃないことと敵であることがイコールなら、俺は吸血鬼の敵であり、灰眸種の敵であり、メアの敵であり、ミクの敵だ」
ミクの名前が出て、とん、と胸を衝かれる。
「この世界は、俺が終わらせる。だからお前は戦わなくていい」
「でも、僕はミクに」
「ミクの敵だって言ったろ」
ユウの声は静かで、揺るぎなくて、
「俺は誰の味方でもない。世界を壊すのは、俺がやる」
全てを捨ててしまったような寂しい声をしていた。




