双銃
ふわりと森の匂いが鼻をくすぐる。その香りに引き寄せられるように、シュウは目を覚ました。今度は木の小屋である。天井に穴はない。
ゆっくり起き上がると、ふぁさ、とかけられていた上着が落ちた。黒いロングコート。赤いラインが入っているのが生える。それが自分のものだということをシュウは覚えていた。
体を見ると、ぼろぼろではあるが包帯が巻かれていた。やはり痛んだ右肩、左腕、左脇腹、右太腿が重傷だったようだ。きつく包帯が巻かれていて上手く動かせない。が、痛みも倦怠感も和らいでいた。
「目を覚ましたのですね」
「サヤさん」
「サヤでかまいません。私にとってはちゃんと『生き物』である人間のシュウさまの方が尊敬すべき存在です」
さらりと「さま付け」で呼ばれていることにシュウはむず痒さを覚える。
けれど、そうか、と灰眸種の成り立ちを思い出す。人間のように見えても、今、目の前にいる彼女は一度死んだはずの命だ。死んだはずなのに、魂で死んだ生き物に取り憑いて、生き物であるかのような体でいる。劣等感を抱いている様子はないが、別な存在だということは意識しているのだろう。
「スープをお持ちしました。食べられそうですか?」
「うん、ありがとう。……そういえば、ここは?」
「絶唱姫の森です」
サヤがどうぞ、と盆を差し出す。琥珀色をしてスープが、水面にシュウの顔を映していた。
「ぜっしょうき?」
「吸血鬼の歌姫です。私にとって、吸血鬼は憎むべき存在ですが、絶唱姫だけは違います。彼女は血を吸いません」
「吸血鬼なのに?」
シュウの疑問は当然のものだった。サヤは少し複雑そうな表情をする。
「吸血鬼の中には、元は人間だった者もいます。吸血鬼は人間と同じ体の仕組みをしているので、普通に繁殖機能はありますが、それとは別に吸血鬼を増やす方法として、人間に血を与えるというものがあります。絶唱姫はそうして吸血鬼になった元人間です」
なるほど、元人間の吸血鬼と考えると、サヤの心境も複雑なものとなるだろう。灰眸種と吸血鬼は敵対関係にあると言っていた。人間は尊敬すべき存在、というのは先程聞いたばかりだ。
絶唱姫が望んで吸血鬼になったのかどうかはわからないが、人間という敬う存在だったものが敵対種族になってしまったのはなんとも言えない気持ちになる。
「元人間だと血を吸わなくても生きられるの?」
「いいえ。絶唱姫は絶唱姫だから特殊な個体なんです。彼女はこの世界ができる前から存在します」
「世界ができる前?」
そういえば、サヤはここを「吸血鬼世界」と呼んでいた気がする。
サヤは起き上がったシュウの傍らに腰掛け、語り出す。
「幼子がいたら語り聞かせるような、おとぎ話のような物語ですが、この世界には本当にあったこと……
この世界は『吸血鬼世界メア』またの名を『隔離世界メア』と言います。メアとはこの世界を作った人間の名前。作った、というよりは、この世界は元の世界から隔離された世界なのです。
元々の世界においても、吸血鬼が蔓延ることにより、人間は存亡の危機を抱えていました。生き残るために、人間は吸血鬼と戦っていた。多くの灰眸種の魂が吸血鬼と戦っていた人間のものです。肉親の仇、友の仇、恋人の仇。大切な人を殺された憎しみが人々を結託させました。
けれど、吸血鬼は簡単に増えることができ、絶やすのは難しい。その側面から、人間たちの先頭に立っていたメアは吸血鬼を人間の世界から隔離することで、後の世の人間の安寧を守ったとされます。
世界を隔離するために世界中の呪の力をかき集め、この世界に集結させました。ですから、おそらく外の世界に呪という力はないでしょう。
ただ、呪の力を隔離世界に集約したことで、死ぬに死ねなかった魂が活性化し、呪の力を操って動物の死骸を媒介として復活し、吸血鬼たちと戦っています。それがこの世界です」
確かに、寝物語のように壮大で途方のない話だ。世界を隔離する。動物の死骸に取り憑いてまで復讐を望む。記憶のないシュウにはとても想像ができない。
「シュウさまはおそらく外の世界の人間なのでしょう。世界の創造主メアは吸血鬼を閉じ込めるためにこの世界を築きました。死者の魂はどうしようもありませんが、生きている人間は外で暮らせるように、できる限り逃がしたとされています。その証拠に、この世界に存在するのは吸血鬼と灰眸種ばかり。人間はごくわずかしか存在しません」
「ごくわずかって、どのくらい?」
そうですね、とサヤは少し考える。羽織型のワンピースを留めているのだろうリボンがサヤの代わりに首を傾げた。
「おそらく三千年の時を私は生きていますが、その中で出会った人間は十数人です」
「さ、三千年!?」
人間では考えられない悠久の時にシュウは驚く。記憶はないが、知識はある程度残っていた。人間は平穏に生きた場合でも、生きられてせいぜい百年が関の山である。三千年となると、単純計算で三十倍だ。
シュウは自分が何歳なのかは思い出せないが、自分より背が低くて幼そうな容姿のサヤが自分の数百倍生きていると考えると、底知れないものを感じた。
「でも、どれくらい時が過ぎたかなんて、この世界では知りようがないのですが」
「え、三千年って断言してたけど」
「この世界は隔離される前、外の世界と合わせて『三千世界』と呼ばれていました。何故だかわかりますか?」
三千世界。それは途方もなく広い世界……という意味だった気がするが、サヤの口振りからするに、それだけではあるまい。
共通するのは「三千」という数字。
「三千年ごとに、何かある?」
「そうです。世界は三千年を節目とし、大きく変化する。語り継がれてきた歴史や文献などからその法則に気づいた人々が『三千世界』と呼ぶようになったそうです。実際、大まかにわかっているだけでも、一万五千年前に人々は呪の力を手にし、一万二千年前に吸血鬼が急増し、九千年前に人間同士の争いの中に吸血鬼が割って入ったことで、戦争は新たな局面に入った、というような話を人間の住んでいた家で読んだことがあります」
「家……そういえばここは……」
サヤは冷静に告げる。
「人間は吸血鬼にとって恰好の餌です。数の少ない人間が一つ所に留まれば、この世界に蔓延る吸血鬼に見つかって、たちまちに殺されてしまうでしょう。ですから、人間は何年かごとに住まいを捨てます。ここも、人間の住居だった一つ。先にいた廃屋も人間が住んでいたものです。今は人が住んでいないので、私たち灰眸種はたまにその廃屋を拠点とし、吸血鬼狩りをします」
灰眸種が人間側の存在であるのは、灰眸種自身の持つ吸血鬼への憎悪もあるが、人間と持ちつ持たれつであるこの関係のこともあるのだろう。
それにしても……本当に三千年を節目に色々なことが変わっていった世界のようだ。それだけ三千年というのが世界に根づいた節目なのだろう。
「この世界は赤い月が煌々と光る夜に閉ざされています。隔離され、或いは切り取られた世界なのでしょう。限られた世界をどのくらい歩いたかはわかりませんが、あなたはこの世界の人間ではないと確信しています。この世界の人間は吸血鬼に立ち向かうための呪を操れません。けれど、あなたは違う」
呪。それは吸血鬼と戦うためには欠かせない力らしい。人間が隔離世界で生きていくうちに呪を扱う力を失ったか、灰眸種の存在が世界に漂う呪の力を占領してしまったかのどちらかだろう、とサヤは語る。
シュウは、息を飲んだ。先程の廃屋のことはそれほど前のことではないのだろう。何よりサヤと初めて話した場所だから、記憶には明瞭に残っている。
シュウは先程の廃屋でサヤの背後から襲いかかった吸血鬼を殺した。シュウは吸血鬼と戦うことができるのだ。
「吸血鬼は不老ですし、病気では死にません。けれど、殺せば死にます。ただ、私が寸前に目の前で殺してみせたからといって、あなたがすぐにそうできるか、と考えたら、答えは否です。普通は」
ごくり、と生唾を飲み込む音と共に、かちゃり、と固い何かがシュウの手に触れた。
それは拳銃だ。シュウはその拳銃が何なのか、全く知らない。けれど、奇妙なことに、不気味なほどに、その拳銃はシュウの手に馴染む。
拳銃は二つ。右手用と左手用だ。白銀の輝きを放つそれらは、赤い月の下に現れて、妖しく光っていた。
サヤが決定的な一言を放つ。
「見つけたとき、あなたはその拳銃を持って血塗れで倒れていました。あなた自身の血も服についていましたが、出血量が見た目通りだったなら、あなたは死んでいたはず。つまりあなたは吸血鬼と戦って、命からがら逃げてきた、と考えられます」
サヤの冷たい手が、シュウに触れる。
「この双銃はあなたの呪。だとしたら、あなたがもたらされたのは、世界が三千年を迎える節目だからだと……私はそう考えました」