裏切りの石英
「戦わない」
シュウの質問にカイは即答だった。サヤがいたらブチギレそうだが、何故だかその一言に重みを感じる。
「吸血鬼滅ぼすのにも懐疑的だしな、オレ。三千世界のことだ。吸血鬼がいなくなっても、三千年後に別な脅威が生まれたりするんだろ。だとしたら人間は戦い続けなきゃならん。それが変わらんのなら、吸血鬼はいてもいなくても変わらないと思う」
そう言われると、その可能性もある。
吸血鬼が人類への脅威として世界から意図してもたらされたものだとしたら、吸血鬼がいなくなった世界には代替品が与えられるかもしれない。そうしたら、人間は新たな脅威に立ち向かわなければならない。
カイは少し考えるように、半眼になり、顎に手を当てた。
「そうして吸血鬼の次に生まれた人間の脅威が吸血鬼より恐ろしいものだったらどうする? 強いものだったらどうする? そんな危機が待ち受けているなら、吸血鬼と競り合っていた方がましだ」
良くも悪くも転機は三千年ごとにしか訪れない。新たな転機を迎えるまでの三千年を生きる人々は苦しみ、悲しみに晒されることだろう。
人間の生きられる年数は長くてせいぜい百年だ。転機まで三十分の一も生きられないかもしれない。そんな途方のない時間を待ち続けるのに、どれだけ気力のいることか。人間は弱く脆い。だからすぐに狂う。
「吸血鬼を隔離したこの世界で罰を受けているのはメアだけだが、外の世界は違うかもしれない。新たな脅威と人間は戦うことになっているかもしれない。そんなとき、呪の存在を伝えられる人間が一人もいなかったら、人間はどうやって戦うんだ? セナはアホだが、伝える人間としては最適だった。教えるの上手いしな。それを逃がすと見せかけて取り込むなんて、まったく、メアは馬鹿なことをしたよ」
「でも、そんなメアの隔離世界の呪に君も加担したんだよね? この世界にいるっていうことは」
セナ以外の騎士団は全員、メアの途方のない呪の構築に協力し、その多くが灰眸種になったとセナから聞いた。それはなんだかんだ言いながら、カイもメアに協力したということになる。
すると、カイは不服そうに目を細めた。「まあな」とどこかおざなりに答えると、前髪を掻き上げる。
隠れていた左目が露になる。目を跨いで頬にかけて大きな紋様が描かれており、目の中には細かな絵? いや、文字? らしきものが刻まれていて、目の前のシュウの姿を映さない。
「それは……」
「三大呪、禍ツ眸。オレが師匠から受け継いだ忌みものだ。世界を隔離するなんて出鱈目なことをするためには出鱈目な力が必要だ。それが三大呪なら文句のつけようがない」
三大呪。世界最強の呪の一つだ。セナの話だと、禍ツ眸は人から人へ宿主を変えていく呪。
師匠から受け継いだというのも興味深いが、それより。
「カイも無理矢理加担させられたってことですか?」
「その辺はちょっと複雑な事情だ。長々話せない。……ほら、そこに覗き用の隙間があるから、中を見てみろ」
禍ツ眸を前髪の奥に隠し、カイがシュウの背中を押す。壁を探ると、確かに、屋敷の中が見える隙間があった。誰かいる。
その人物は思わず息を飲んでしまうほどに眉目秀麗だった。黒く艶やかな髪を結い上げ、長い睫毛の下からは月と同じくらい煌々と紅い目が覗く。鼻筋がすっと通っていて、形の良い唇は薄紅色に色づいており、形容しがたい色っぽさを纏っていた。
黒いシンプルなデザインのドレスを着ていて、シンプル故に、スタイルの良さが際立つ。普通に出会ったのなら、まず見惚れてしまうであろう絶世の美女。
だが、シュウはきゅっと唇を引き結び、緊張した。何故なら、その美女の口元にはちらりと鋭い犬歯が覗いていたから。
吸血鬼だ。
どんなに美しい生き物だとしても、人の生き血を啜り、時には屍肉を食らう天敵なのだ。
シュウは特に注意しなければならない。この世界で生きている人間は吸血鬼にとって貴重な食糧だから。
そこへ、一人、白いシャツの少年が近づき、かしずく。その姿に目を見開いた。
「ユウ……!?」
後ろ姿なので断言できないが、あの銀髪はユウにちがいなかった。何せシルエットがシュウと同じなのだ。
吸血鬼に与しているとは聞いたが、主従関係のようなものなのだろうか、と推察していると、吸血鬼が口を開く。
「顔を上げて」
誘惑するような甘い声。戸惑いと嫌悪感がシュウの背を這う。あの美女がその色香を使ってユウを惑わしているのかもしれない、と思ったら、なんだか胸がざわざわとしたのだ。
ユウがゆっくりと顔を上げ、吸血鬼を仰ぎ見る。それに満足げに微笑んで、吸血鬼は白く細い指をユウの頬に滑らせた。
「今日も変わらず美しいわね。私の小鳥」
「ユア様も、麗しいかんばせでございます」
ユウの声が自分の声と同じであるため、シュウは複雑な気持ちになる。ユアと呼ばれた吸血鬼は、確かに美しい。けれど吸血鬼であることにちがいない。人を害して生きる者を快く思えるはずもなかった。
だが、ふと気づく。──何故、自分は吸血鬼を敵だと思うのだろう。
殺されかけたら殺すけれども、敵と認識する明確な理由はない。吸血鬼とて生きるために血が必要なわけで……
と思っていたら。
「お前は私の、私だけの小鳥なのだから、そうよそよそしくするな。悲しくなる」
「ユアさ」
言葉ごと飲み込むように、ユアはユウと唇を重ねていた。ねっとりとした接吻は深く、長く続いて、シュウは自分が嫌な汗をかいているのわ知覚した。
長い口付けの後、名残惜しそうに顔を離すと、ユアがほんのり火照った顔でユウを見つめる。それから、シャツの襟をはだけさせた。
シュウはシュウで叫び出しそうになるのをこらえていたが、カイがそれを補助する形で、猿轡の代わりに太い木の枝をシュウに噛ませた。土臭いが、いくらか気が紛れる。
「では、今日もいただこうかの」
「……おおせの、ままに……」
ユウの掠れた声を聞いて、ユアはユウの首筋に顔を埋めた。ユウの体がびくり、と硬直する。
シュウはカイに羽交い締めにされながらそれを見ていた。ユウのシャツがはだけて、ほとんど半裸になる。
その肌にはいくつもの噛み痕があった。人間のものではない。ユアも首筋に吸い付いている。ユウは、吸血鬼に自らの血を捧げているのだ。
羽交い締めされていなければ、シュウは銀の茨の蔦を撃っていた。自分と同じ容姿の者が、吸血鬼に貪られる姿は見ていられない、というのもあるが。
ユアに血液を吸われて、ユウの体から強張りが抜けていく。快楽を感じたからではない。血が失われていくことで、体に力が入らなくなっているのだ。
ユアはその背に手を回し、感極まったように爪を立てる。びくん、とユウの肩が跳ねた。シュウは頭がどうにかなりそうだった。
カイがシュウを羽交い締めしたまま言う。
「ユウはああやって、自分の血を捧げて、吸血鬼のご機嫌を取ってる。他の灰眸種からは裏切り者扱いされているが、ヤツにしかできない方法だ。何せ、ユウの体は人間だからな」
灰眸種は動物の死体を媒介に呪で自分の体を構築する。ユウはその媒介に、人間の死体を選んだ人物だ。
「その気になれば、呪の力で血を再び巡らせ、普通の人間と変わらないものであれる。ユウは呪の力が強いし、そんなの朝飯前だろう。そして吸血鬼は、人間の生き血を好むんだ」
「ぁ……」
そこまで言われて察した。
これは、吸血鬼による蹂躙だ。ユウが従っているように見せているからそう見えないだけで、尊厳を踏みにじられているのと変わらない。
ユアは加減なしにユウの血を啜る。ユウはその傍ら、薄れそうな意識の中、呪を使って血を巡らせ続けているのだ。
カイが問う。
「これが灰眸種がアイツを裏切り者と呼ぶ、真実だよ」




