幼馴染み
セナの言葉に目を見開くサヤ。それからかあっと顔を染め上げ──
「そんな破廉恥な!」
と悲鳴のような声で叫び、セナを思い切り殴った。
「あ」
少女が殴ったとは思えないくらい、景気よくセナの体が吹き飛ぶ。天井に叩きつけられ、家具を振動させ、どんな状態でセナが落ちてくるのか、と恐々としていると、降り立つ振動は思ったようなものではなかった。
音を立てず、しなやかに降り立ったのは赤毛の猫だ。少し毛がもさもさとしている。なぁーん、と鳴くと、その青い目をぱち、ぱち、と二回瞬かせた。
はっ、とサヤが正気に戻る。
「せ、セナさま! お怪我はございませんか?」
「なぁーん♪」
大丈夫だと言うように、猫はくるっと一回転してみせる。その一回転の間に、猫はセナの姿になった。
「サヤもウブよねえ。まあ、サヤには人間の記憶がないから仕方ないか」
「え……サヤも記憶喪失、なんですか?」
シュウが驚くと、セナが不思議そうにサヤを見る。
「あら、話してなかったの?」
「必要ありません」
サヤの目付きが鋭くなり、その中には黒い炎が宿る。その瞳の奥で揺れる憎悪の凄まじさに、シュウは思わず息を飲んだ。
サヤは少女とは思えないほど低い怨嗟の声を放つ。
「私には吸血鬼への憎しみさえあれば充分です……」
その静かな声にシュウは何と言ったらいいか、わからなくなる。セナを見ると、悲しげで寂しげな赤灰の目の眦を下げていた。
シュウは幾度かの逡巡の後、問いかける。
「サヤに記憶がないって、どういうことですか? 灰眸種は元人間なんですよね?」
「灰眸種は呪よ。そのほとんどが、吸血鬼の恨みを捨てきれない魂から生まれる」
「セナさんも、吸血鬼を恨んでいるんですか?」
「いいえ、あたしは例外。騎士団にいた頃から、あたしは例外的存在だったわ。だってあたしは騎士団に志願したんじゃないもの。あんのクソアマ……こほん、メアに勧誘されたの」
仕方ないわよねー、とセナは体を解すように肩を回す。
「呪を物に宿して、殺戮の兵器として運用するのにいっぱいいっぱいな中で救護役は貴重だっただろうし。あたしは魔法としての呪を扱えるから、炎を出して足止めしたり、霧を出して視界を奪ったり、他の連中にはできない様々な呪の運用ができた。優秀なのも困りものよ」
「え……じゃあ今は?」
「見守るためよ」
セナの目は慈しみに満ちていた。子どもを見守る母親のような優しい目。
──ジ、ジジッ──
脳内にノイズが走る。何かが引っかかっていた。
母親? 何故? 自分は自分が何者かなんて知らないのに「ははおや」がわかるの?
「とまあ、それは半分ね」
シュウの思考をセナの声が遮った。何の話をしていたんだっけ、と思い出して、疑問を口にする。
「もう半分は?」
「あの女のせいよ。くっそ生意気でいけ好かない創造主メアの呪に巻き込まれたの。……あたしの愛猫がね」
灰眸種は死んだ生き物に死んだ人間の魂が取り憑いたものだ。サヤはカラス、キロは黒猫だった。灰眸種である以上、セナもそこばかりは例外ではない。
先程セナが変化したのは赤猫。つまり。
「その猫はあたしの大事な相棒。名前はエルっていうの。想像がついているでしょうけれど、あたしはエルに取り憑いて生きている」
先程の赤猫がセナの愛猫というわけだ。
「エルはあたしの使い魔でね。エルを中継地点として置くことで、より精密な遠距離魔法の発動ができるの。エルは呪に耐性のある猫だったから、大事に育ててた。ただ、あたしが呪を使い続けた影響で、エルはただの猫ではなく、呪そのものとなりつつあった。……メアがどうやって世界を隔離したかはご存知?」
世界を隔離する。言葉が壮大な分、想像はしづらい。
シュウが首を横に振ると、セナは深く吸った息を一気に吐き出してしまうように告げた。
「メアが展開したのは封印の呪。それを広範囲に、吸血鬼を隔離するために目印の呪たちを目安にして展開した。目印とは吸血鬼と戦う騎士団の仲間たち。元々吸血鬼と刺し違えても本懐を遂げたいようなやつらよ。組織のトップであるメアに囮に使われようが、文句を言うやつなんていない。あたしを除いてね」
サヤも驚いた表情をしている。
メアの騎士団での影響力は凄まじいものだったはずだ。騎士団の執念と目的が一致したからといって、そう簡単に了承できるものだろうか。それに、そんなメアに対抗できるセナとは一体……
「あたしが騎士団に入らなければならなかったのは、あたしがセナ・エル・ブランシェっていう、大統領子女だったから。下っ端にばかり戦わせて、偉い人間が高みの見物だなんて、後ろ指を指されないためよ。馬鹿馬鹿しい」
忌々しげに吐き出されたのは、生前のセナの身分だった。
大統領とは国で一番偉い人間だ。国を統治する人間。後ろ指を指されないため、というのはなんとなくわかる。偉そうに椅子に座るだけで何もしない統治者を民は認めないだろう。
「あたしの父とメアの父は親友でね。メアとは幼い頃から交流があった。あいつは体格もよくて、運動神経抜群、怪力で自分と同じくらいの大きさの剣をぶん回すことができる。要するに、戦いの才能があるやつだった。メアが騎士団に参加したなら、あたしも参加しなきゃならなかった。メアにはたくさん煮え湯を飲まされてきたからね。メアはあたしの敵対心を利用した、とも言えるわ」
見えているものが違ったのよ、とセナは右目に手を当てる。
「統治者の娘であるあたしは、民の犠牲を最小にしたかった。だから、騎士団の仲間たちをむざむざ死なせるメアの手法を許せなかった。でもメアは聞く耳を持たなかったわ。あいつだって、最初はあたしと同じで、ただ騎士団の戦力となるためだけに入ったはずよ。でも」
セナはシュウを見て微笑む。
「あいつは吸血鬼を恨むようになった。シュウが吸血鬼に殺されたから。メアのせいで、ね」
シュウが息を飲む。サヤも唖然としていた。
「メアはシュウのことが好きだったのよ。そういう意味でね。だから執念を燃やした。吸血鬼を隔離するなんてぶっ飛んだことも実行した。あまりにも勝手すぎる。人の命をあんた個人の復讐のために使うなって怒鳴ったっけ。
メアの封印の呪は、騎士団の仲間の呪を目印とする上に、その呪の力を取り込むことで増強を謀るものだった」
「呪を……取り込む……?」
「そ。簡単に言うと、死ぬのよ。メアの呪に取り込まれたら、その人間は生身で吸血鬼に立ち向かうしかない。そんなの死ぬしかないわ。基礎能力では人間は遥かに吸血鬼に劣るんですもの。でも、他の騎士団の仲間たちは、それも承知の上だった」
「そんな」
命を使い捨てるような戦い方だ。隔離したとして、吸血鬼がいなくなるわけでもないのに。
もっと他に方法があるはずだ、とセナはメアの説得を試みるも、失敗。
「ただ、『お前は逃げていい』とメアはあたしに言った。『私が無理に誘った。お前はそもそも、争いが嫌いだろう。外で、残された人々の標となってくれ』なんてさ。
だから、あたしはエルを連れて、遠慮なく逃げた。仲間が死ぬのを見るのは、もう懲り懲りだったもの」
「でも、セナさんはここに……」
「ええ、とても腹の立つことにね。言ったでしょう? エルが巻き込まれたって」
その言葉と、セナが語ったメアの言葉。併せて反芻し、考える。そこで導き出された答えは……
「まさか」
「そのまさかよ。
メアは『お前は逃げていい』と言ったわ。そこにエルのことは含まれていなかったのよ。あたしに単身で逃げろって言ったの。
汚い手を使いやがって、あの女狐。あたしがあいつの呪に取り込まれるエルを見捨てられるわけない。そんなの、ずっと一緒だったあいつが一番わかってる!
……エルを置いて、外の世界になんて行けなかった。だからあたしはここにいるの」