第五話 汚泥の中で輝く石
その夜、彼は一度も目を覚ますことなく眠り続けた。
ふかふかな肌触りの清潔な布団。それにくるまって眠る幸福に彼は深い眠りに落ちたのだろう。
寝台に横になってからも、私は傍らの新入りの奴隷を眺めていた。
良いものを食べて睡眠をとれば、少しずつ肉もついて健康を取り戻していくかも知れない。
瞼を閉じれば未だに、かつての彼の姿が思い出せる。
美しい貴公子の彼の姿。
今の姿とは大違いのその姿。
私が恋した、私が愛した冷たい心の王子様。
彼に婚約を破棄された後、無実の罪を着せられた私は、急ぎ祖国を去らなければならなかった。
あれから八年経った。
私が去った後、祖国は内乱状態になり、王家は滅んだと聞いた。
多くの人々が亡くなり、その混乱を収めるために周辺の国々が乗り出し、国を荒らしていた魔族を討伐した。
そして私の祖国は今では隣の国の一部となっている。
今はもう、無くなってしまった祖国。その国の王太子だった人。
八年の間、彼が苦労してきたことはわかっている。
魔族を国に導き入れた、“亡国の王太子”。そう呼ばれていた。
彼が私の手を払い、そしてその手を握ったあの聖なる乙女は、魔族であり、心優しき少女の皮を被った獣だった。
教会を焼き払い、彼女に反対する数多の人々を投獄し、惨殺し、そしてその血を啜った美しい少女。
おかしいと思った時には、もはや取り返しもつかないくらい、食い込まれていた。
そして、貴方も騙されたのだ。
それは易々と。
私の代わりと手を取った、その柔らかな彼女の腕は、カタカタと骨の鳴る白く冷たいものだった。
生きた人のものではなかった。
その彼女の唇を吸い、その彼女の身体を抱きしめ、彼は愛を囁いたのだろうか。
数多の人々の血を飲みこんだその唇を。
翌朝、私は自分の屋敷がある街に戻ろうと、宿に預けていた馬車を引き出してもらった。
新入りの奴隷は、体格の良いクランプに抱えてもらい、馬車に乗せられた。
馬を御するのはマンセルの役目だった。
食料と水の入った樽を積み込む。
目の見えない彼は、馬車の隅でじっと座っていた。
その彼を見て、マンセルは露骨にため息をついている。
「新入り、名前なんだっけ」
「朝、自己紹介したでしょう。セスよ」
私がそう言うと、マンセルは「ケッ」と唾を吐くような真似をしたので、私は彼の尻を蹴飛ばした。
「早く馬車を出して頂戴」
「了解。エイヴ。ああ、でも確認したかったんだけど」
マンセルは振り返りもせずに、私に聞いた。
「ソレ、あんたの情人にするの? 顔はいいけど、役立たずなんじゃね。俺達の方が絶対にいいと思うぜ」
そんなことを言ったので、私はなおも彼の尻に蹴りを連続で入れて悲鳴を上げさせた。
目の見えないセスは、私達のやりとりを少し呆然と聞いている様子があった。
宿を出て、野営をしたその夜、セスは眠る私のそばにそっと近寄る気配があった。
どうしたのかと問いかける私に、彼は弱々しく「ご主人様、もしも私をご所望なら……」と言った。
私は顔を覆った。
八年
八年の間、あの美しく気高い王子だった人は、汚泥をすすって生きてきたのだと知った。
生きるためには仕方のないことだとわかっている。
だけど、そんなことを知りたくなかった。
「私は、いらないから」
その冷ややかな言葉に彼はビクリと身を震わせ、顔を背ける。
なけなしのそのプライドにヒビが入る音がした。彼が誇れるものは、彼が売れるものは、もはやそれしかない状態だったのだろう。
そんなこと知りたくなかった。
「……明日は早いから、もう寝なさい」
そう言うと、彼はのろのろと与えられた毛布にその身をくるんだ。