第三話 追憶
宿の従業員の娘が、約束通り盥にお湯を入れて運んで来てくれた。
私は銅貨を三枚彼女に手渡すと、彼女は礼を言って下がっていった。
盥にタオルを入れて、彼の身を拭っていく。
彼は裸になることに抵抗はないようだった。垢と汚れがボロボロと落ちていく。私は一度、盥を戻し、再度湯をもらった。そうしたことを何度か繰り返しているうちに、ようやく彼の身体からも嫌な臭いが消えた。髪も汚くほつれていたものを、洗って櫛を入れていくと、以前の美しい輝きを少し取り戻していった。黄金の綺麗な髪の色。
私はそれを見て、沈み込んでいた、遠い記憶を思い出した。
「エヴェリーナ」
王宮の花園で、幼い少年の頃の王太子殿下が、私の名を呼ぶ。
お小さい頃、殿下は天使のように愛らしく美しかった。
私はいつも眩しい思いで彼を見ていた。
優秀な王太子殿下に、ふさわしくなければと自身を厳しく律する日々だった。
でも、小さい頃はまだ、彼も優しく私に笑いかけてくれていたのだ。
「エヴェリーナ、おいで、バラの花がとても綺麗だよ」
白いバラの花園に立つ、薄いブルーシルクの服に白いタイツを着た彼の方がとても綺麗だった。黄金の巻き毛の王子様。彼は私の憧れの人だった。天使のような彼を、幼い頃の私は崇拝していた。その歩いた跡すら拝みかねんばかりの私の様子を見て、弟のリンデイルは少し馬鹿にしていた。
「姉さまは、馬鹿ですね」
リンデイルの手には白バラがある。
そのバラの棘をむしる。
はらりと落ちる一枚の花弁。
私と同じ真っ赤な髪をした少年。双子の愛しい弟。
「馬鹿だから、仕方がなかったかも知れませんね」
そう、私は馬鹿だったから、仕方がなかった。
救いようのない愚か者だった。
王太子が好きだった。あの綺麗な黄金色の巻き毛の王太子の傍らでずっと生きていきたかった。彼の婚約者に選ばれた時は、嬉しさの余り心の臓が止まり、死んでしまうのではないかと思うほど、その喜びで胸がいっぱいになった。
本当に嬉しかった。
その手を取ってずっと一緒に歩いていけると思っていた。
その手を払われた時に、すがってしまうほど私は愚かだった。
プライドもなく、私は泣き叫んだ。
どうして、どうしてなのと叫ぶ私に、愚か者を見るような冷たい蒼い瞳。
エヴェリーナ、貴女では駄目だったんだ
私の傍らに立つのにふさわしいのは、貴女ではなかったんだよ、エヴェリーナ
そう言って、王太子は別の少女の手を取る。
マリアという名の、柔らかな春の日差しのような微笑みを浮かべる美しい少女だった。
聖なる乙女の力を持ち、王太子の妃にふさわしいと皆が口々に告げた。それはまるで私を切り捨てるかのような冷たい言葉だった。
だから、君との婚約を破棄する
そう告げられた時、私の胸は張り裂けたのだ。
一瞬、苦い記憶を思い出してしまって、彼の髪を櫛けずるその手が止まった。
それから深くため息をついて、もう一度櫛を動かしていく。
過去は過去だ。
もう取り戻すこともできない過去。
だけどきっと、今の私の姿を見て、双子の弟のリンデイルは笑うだろう。
「姉さまは、馬鹿ですね」
そう、私は馬鹿なのだ。




