第二話 奴隷市場で売られていた死にかけの若い男(下)
泊まっていた宿の部屋にその死にかけの男を担いで連れて行く時、宿の愛想の良いおかみさんも、その時は眉を寄せてしかめっつらしていた。
「なんだい、それは」
「ごめん。後でシーツ代と掃除代は払うから、今は許して頂戴」
そう言うと、おかみさんは仕方がないようにため息をついた。
宿の従業員の娘に、お湯を盥で運んでくれるように頼む。
そして階段を軋ませながら歩いて、自分の泊まっている部屋の扉を開けた。
同室で泊っているマンセルとクランプは、まだ外出したままだ。二人とも食いしん坊だから、きっと食べ歩きに夢中になってまだ帰ってこないだろうとは思ったけど、このまま夕方まで帰らないといいと思った。でないと、運び込んだこの死にかけの男の匂いがきつい。
何日も風呂に入れられていないのだろう。そして血と汗と小便のような匂いが混じっている。
私は彼をそっと寝台の上に横たえると、窓を開けた。
死にかけの男は、苦し気に息をついている。
早く治してやらないと、死んでしまうだろう。
そう思う一方で、心のどこかで(このまま死なせてしまえばいい)と囁く声があった。
この男がお前に何をしたのか、覚えているのか。
この男は、お前を裏切り、お前の全てを奪った。お前を破滅させた男だ。
許す慈悲など、持たぬ方がいい。
私はその言葉から耳を塞いだ。
一目見て、わかった。
彼は随分と高い代償を払ったことを。
手も足もろくに食べ物を与えられなかったのだろう。枯れ枝のように細かった。
背中には鞭を打たれた傷が何条も走っている。足にも逃げ出さぬように腱を切られた跡があった。
そして何よりも驚いたのは、彼のあの、蒼い宝石のような瞳が、抉られていたことだった。
ぐるぐると目の周りは包帯で巻かれている。その包帯も汚れきっていた。ろくに世話をされていなかったのだろう。
だが、やはりかつては美貌の王子であったと分かる。鼻から唇にかけての様子は、以前の彼の面影があった。だから私は彼を見て、すぐに彼だと気が付いたのだ。
私は彼を自身の膝の上に頭を置いて横たわらせ、口を開かせる。
彼は私のなすがままだった。
その唇に、マジックバッグから取り出した上級ポーションを、少しずつ注ぎ込んだ。
身体的欠損こそ治癒することはないが、内臓の傷や身体の傷は治る。
実際、彼の表面上の傷はだいぶ消えていく。背中の深い鞭の痕や、足の腱を切られた傷は残る。抉られた目を、癒すには特級ポーションが必要だろう。さすがにそれは、私も持っていなかった。
とりあえず、二本のポーションを飲ませると、彼は息をつくのも楽になったようだった。
「水、飲める?」
そう聞くと、彼は弱々しくうなずいていた。
私は彼の唇に、そっとコップの水を傾け、ゆっくりと飲ませて言った。
「体を拭いてもいい?」
そう聞くと、彼はうなずいた。それから、少し震えて涙を零し始めていた。
どうしたのかと聞くと、彼はそんな優しく言われたのは初めてだと言っていた。
いつも、乱暴に当たられるばかりで、優しくされたことなどない奴隷の身分だった。
仮にも、王太子だった男である。
いや、こうまで身を堕としてしまったから、見つからなかったのかも知れない。
母国では、彼は憎しみの対象だった。