逃走
第二章開始です
「――今日の連絡事項は以上です。日直、挨拶」
「起立、気をつけ、礼」
「「さようなら」」
ホームルームが終わり、日直の指示でクラスメイトが挨拶をする。藍那もその中に混じり挨拶し、帰宅するための準備をする。
(痛たたた……)
机の中のものを片付けたり、エナメルバッグを持上げる動作一つ一つに痛みが走る。
明らかに昨日のサッカーによる筋肉痛。体が疲れきっていた。
「大嶋さん、呼んでいるよ」
隣の席の人に声をかけられた。見ると教室の出入口を指差している。
そこにいたのは一人の短髪の女子生徒。身長は藍那と同じくらい。リュックを背負い、腕を組んで藍那のほうを向いている。
制服のリボンの色から藍那の同級生だと分かった。
だけど藍那の知らない人。この東山高校に入学して一ヶ月と少し。同じクラスの人は名前と顔が一致し始めた頃で、他のクラスの人のことはほとんど知らない。
藍那は首をかしげつつも出入口に待つ女子生徒のほうへ向かう。
「あなたが大嶋さん?」
「う、うん」
女子生徒の前に立つと尋ねられたため、藍那はうなずく。
「な、何か用です、か?」
「……昨日、関西の双子とサッカーした?」
(関西の双子……)
岸本姉妹のことだろう。姉の理紗の関西弁は今でも頭の中に残っている。
「うん」
「……はぁ」
女子生徒は大きく息を吐いた。
「昨日はごめんなさい」
「えっ?」
「あの双子、迷惑だったでしょ?」
「そ、そんなことなかったです」
藍那は迷惑だとは全く思っていなかった。むしろ一緒に楽しむことができて良かったと思っている。
彼女はなぜ女子生徒が謝ったのか分からなかった。
「えっと……岸本さんたちの知り合い?」
「従姉妹なのよ……ああ」
女子生徒は思い出したように手を叩く。
「私は吉野由依。同じ一年生」
「わ、わたしは大嶋藍那です」
「今さらだけどタメ口でもいい?」
「いいですよ」
「大嶋さんも、タメ口で構わないわよ」
「う、うん」
女子生徒――吉野由依はうなずく藍那に笑みを浮かべる。
しかしすぐに真顔になった。
「それで昨日の夜なんだけど、理紗から電話がかかってきて……」
ブー、ブー、と何かが振動している音。藍那はポケットの上からスマートフォンを触るが、彼女ではなかった。
由依が息を吐いてポケット中に手を入れ、スマートフォンを取り出す。
「ねぇ、理紗。何回電話かけてくるの?」
どうやら電話は藍那も知っている理紗からのようだ。時折藍那の耳に届く通話先の声は関西弁だった。
「え、一緒にサッカーをするまでかける? ふざけないで。マネージャーだった私がサッカーができるわけないでしょ」
怒気を含めた由依の言葉。昨日から何度も同じやり取りをしていて、由依は苛立っていた。
(もしかして昨日理紗ちゃんが言っていたのって……)
藍那の目の前にいる彼女のことだろう。中学校では確かサッカー部のマネージャーをしていたと言っていたはず。
電話のやり取りを聞いていると、彼女自身はサッカーをしたいわけではなさそうだと藍那は感じた。
無理強いはいけないと思う。
(あ、メッセージ)
藍那のスマートフォンが振動する。取り出して確認すると、みさきから届いていた。
内容は「あたし、みさきさん。今東山高校の正門前にいるの」
(メリーさん?)
みさきが送ってきた内容は怪談をアレンジたものだった。なぜ送ってきたのか理解できず、藍那は首をかしげる。
東山高校とは藍那たちの学校。みさきは西寺学園だから別の高校だ。
内容が正しいとなると今みさきは正門前にいることになる。
電話をしている由依をよそに藍那は廊下に出る。確か廊下の窓から正門が見えたはず。
窓から外を覗く。チャイムが鳴り、しばらく経った正門付近には帰宅する学生が見えた。
その中に東山高校とは異なる制服の女子が二人いる。東山高校の紺色のブレザーの中に二人だけグレー色のブレザーを着ている女子生徒。
離れていても分かる。あれは西寺学園の制服。そしてその二人はみさきと理紗だ。
藍那は電話をしている由依の肩を叩き、みさきたちを指差す。由依は顔をしかめた。
「とにかく、何度電話してもサッカーはしないわよ。じゃあねっ」
由依は電話を切る。
「はぁ」
「え、えっと……サッカーに誘われているの?」
「昨日大嶋さんと一緒にサッカーをして、楽しかったから一緒にやろうって」
でも、と言葉を続ける。
「理紗は詳しいことは言わないから、大嶋さんにサッカーについて聞こうと思っていたのよ」
本当に楽しくできるなら一緒にサッカーをしてもいいんだけど、と由依は付け加える。
由依は理紗のサッカーに参加させるという、強制的な行動に反発しているようだった。
先程藍那が思っていたこととは少しズレがある。
再度藍那のスマートフォンが振動した。みさきからのメッセージ。
内容は「早く来てー。このままだと理紗が東山高校敷地内に入りかねないよー」
窓の外を見る。みさきが必死に理紗が入ろうとしているのを止めていた。
みさきは他校の敷地内に勝手に入ることが問題になることは理解しているらしい。
「あの理紗を止めるのも大変ね……あの子が大嶋さんに連絡してきた人?」
「うん。川内みさきっていうの」
「なんで来たのかしら?」
藍那の隣で状況を見ていた由依には理解できなかった。それは藍那も同様で、みさきが一緒に来ている理由を知らない。
二人とも美紗ではなく、みさきが来ていることが疑問だった。この答えを知っているのは当の本人たちしか分からないだろう。
「それで、どうするの?」
「……川内さんには申し訳ないけど、逃げよう」
「逃げるの?」
「ええ。私、今の理紗の近くには行きたくないわ」
由依は首を横に振る。近くに行ったところで色々面倒くさいことになりそうで、彼女は嫌なのだ。
「逃げたあとは?」
「どこか落ち着ける場所でサッカークラブについて教えて? 教えてもらったら理紗にも返事を返せると思うから」
「う、うん」
藍那はうなずく。彼女個人も由依の話をしたかった。
エナメルバッグを取りに行くために教室に入る。
バッグに入れようとしていた教科書は机の中に戻し、由依の元に戻る。
「どうするの?」
「下駄箱は正門から見えないから大丈夫だとして……裏門から出よう」
「開いているの?」
「今日のこの時間帯なら、陸上部が外周を走るために開けているわ」
「そうなんだ」
「とにかく急ぎましょ。理紗たちが勝手に昇降口まで来たら面倒なことになるわ」
由依は廊下を駆ける。藍那は確信を持って行動する彼女に、どこで情報を得たのかなど少し疑問になったが、悩んでいる暇はなかった。
考えるのは止め、由依を追いかける。
(は、はやい……)
廊下を歩いている他の生徒の合間を縫って走る由依に、藍那は感心した。藍那が肩から下げているエナメルバッグとは違い、彼女はリュックを背負っているから走りやすいのかもしれないが、それでも誰にもぶつからずに綺麗にジグザグに走っている。
また綺麗に走っていることに加え、藍那が筋肉痛でスピードを出せないこともあり、距離が開いていく。
由依は背後をチラリと確認し、藍那がついてきていないのを見るとスピードを落とした。
「大丈夫?」
「はぁ、はぁ……大丈夫です」
「そうは見えないけど……ああ、そっか」
理紗との電話で藍那がサッカーの初心者だと話していたことを思い出す。とりかごでボールを追いかけ回し、息も切れ切れになっていたと言っていた。
昨日の今日で疲れているのだと由依は感じ取った。
「大嶋さんが走ることができるペースに合わせるわ」
「ご、ごめんなさい」
「問題ないわよ」
歩くよりは少し早いスピードで廊下を走り、階段を下りる。下駄箱にたどり着くと靴を履き替え、外に出た。
外に出て正面の弧を描いている石畳の階段を進むと、正門にたどり着く。由依はその石畳には行かず左に曲がり、真っ直ぐ進んでいく。
一分ほどで正門とは異なる校門に着いた。陸上部らしき人物が何人かいて、準備運動をしている。
その中の一人が藍那たち二人に視線を向けた。
「お、吉野じゃん」
「こんにちは、部長」
声をかけてきた相手に由依が挨拶を返す。
「ここに来たってことは、陸上部の見学か?」
「以前にも言いましたが、陸上部には入りませんよ」
「それは残念。短距離なら大会上位を目指すことができると思うけどなぁ」
苦笑する陸上部部長。入部を強制しているわけではなく、その気になれば入ってほしいと考えているようだ。
「今日はいろいろ事情があって、こちらの門から帰ろうかな、と」
「事情って正門にいる西寺学園の二人のこと? さっき警備員と何か話しているって聞いたぞ……もしかして知り合い?」
「……そうです」
図星を突かれ、渋々うなずく由依。
「詳しくは聞かないでもらえます?」
「あー、分かった。じゃあ、早くここから出ていったほうがいいな。そろそろ顧問も来るだろうし」
本来、ここから出て帰ることは認められていないからな、と付け加える。
「ありがとうございます」
頭を下げ、二人は裏門から学校を出る。駆け足で道を進み、最寄りの電停に着く。
タイミングよく敷瀬駅へと向かう路面電車が到着し、二人は乗り込む。
「なんとか、逃げれたかな?」
「た、たぶん」
藍那は息を整えてスマートフォンを見る。みさきからメッセージが数件届いていた。
(あとで謝ろう)
そう心に決め、スマートフォンをポケットに片付けると由依のほうを見る。
「どこでお話しする?」
「駅前のファミレスはどう? 休憩も含めてドリンクバーを頼んで、話しましょ」
「わかった」
二人は行き場所を決め、路面電車内で一呼吸を置くこととした。




