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第四十三話:◆極めて健全な休憩◆


 岩山の山腹に差し掛かると、辺りには新緑の樹木が立ち並んでいた。涼やかに流れる清水の音に耳を澄まし、澄んだ空気を思う存分に体内に取り入れることで、強行軍によって火照った身体の熱を徐々に冷めていく。


 周囲に敵対する可能性のある魔獣が居ない事を確認し、泉の辺に倒れた古木の上に腰を下ろす。


「ここでしばし休憩をとる事にする」

(ぜぇ……はぁ……ぜぇ……はぁ……、なんとか……走りきって……見せたわよ)


 ブルメアと言えば、先ほどからずっと満身創痍の有様である。


「実際に走ったのは私なのだが……。だが、よく耐えたな」


 幾度となく胃の内からこみ上げる酸っぱい物を飲み下し、足裏の血豆を潰し、ふくらはぎがはちきれんばかりに張っている。朦朧(もうろう)とする意識を無理矢理振るい立たせ、気合だけでここまで走って来たのだ。


 私にとってはどうという程ではないのだが、普通のヒトであればとっくに泣き言を喚き散らしてもおかしくない程の苦痛を十二分に味わっていたはず。


(私だってやればできるんだからっ)

「ならば帰りは自分で走ってみるか?」


(それは、ちょっと……。ゾンヲリはいつもこんな無茶苦茶な事をしていて辛くないの? 私もう喉がカラカラで倒れそうなくらいなんだけど……)


「泣き言を言う暇があるなら身体を動かす方が有意義だぞ」

(むぅ……。ゾンヲリはイジワルだね。ネクリアにはやたらと優しいくせに)


 少女と戦士を志す者で対応を変えるのは別に不思議な事ではない。それにあえて話に乗る必要もない。ブルメアの野次を無視して腰を上げ、泉の水を両手ですくって飲み下す。


「ん……」

(んん、おいひっ)


 生命の水が全身に染み渡り、渇きを潤していく。この感覚を味わう事が出来るのは生きている者だけの特権だ。ゾンビの肉体では腐った汚水の味しか味わえないのだから。


「……それより、貴女は今の内にしっかりと身体を休めておくといい」

(うん、わかった)

 

 ブルメアに肉体の制御権を返す。ブルメアがこの高地の空気を自分の肌で感じてもらった方が後々の為になるだろう。


 ブルメアは古木の上で呑気に羽を休めていると、ふと、一筋の風がブルメアの翠玉色の髪を撫でていく。


「ふぁ、風が気持ちいい」


 そう口にしたブルメアは、どこか遠い昔を懐かしむように目を細めていた。


「こうやって森の唄を聞いていられる時間がもう一度やって来るだなんて、思ってもいなかったなぁ」


(物見遊山ではないのだがな……)

「分かってる。でも、もう少しだけ、こうやっていさせて)

(どの道予定の時間までは好きにするといい)

「うん」


 風の森で悠久の時間を過ごすと言われるエルフにとって、風とは常に身の回りにあるものなのかもしれない。だが、鉱山都市の地下独房で長い時間を過ごすうちに、当たり前は当たり前でなくなってしまっていた。


「ふぅ……。そういえば、今まで色々とドタバタしててゾンヲリにはちゃんとお礼言った事なかったよね。私を市長から助けてくれてありがとう」


(私はネクリア様の命令に従って行動しただけにすぎない。それは実際に貴女達を助けるように指示したネクリア様に向けて贈るべき言葉だ)


「ネクリアの言う通り素直じゃないんだね」


 どうもこの手合いは苦手だ。早々に話題を変えるに限る。


(そういう貴女こそ、何故このような面倒事に首を突っ込んだのだ?)


 所詮、例の孤児院の者達はブルメアにとって赤の他人でしかない。そんな中、報酬もない命がけの行軍に出ているのだ。まさに狂気の沙汰と言っても過言ではない。


「だって、優しくしてもらったんだもん」


 少女曰く、エルフは本来はとても呑気でおっとりしているのだそうだが、一食一晩の恩だけでこう言ってのけるブルメアも例に漏れずといった所なのかもしれない。


(実に呆れた話だ。その為にこれだけ辛い思いしてまで走ろうとするのだからな)

「それ言ったらゾンヲリだって人の事言えないじゃない」


(違いない。だが、やはり解せないな。エルフである貴女はそのうちベルクトの計らいで風の森に住む部族の元に送還される手筈だったはず。黙っていればそのうち自由な生活が得られる身分だったのだろう?)


「あのね、ゾンヲリ。私はきっと、もう森に帰れないの……ううん、帰っても仕方ないの。だから、私はあの孤児院で頑張るしかないんだ」

 

 声を落したブルメアの尖った耳は重力に負けて垂れ下がっていた。


(何故だ?)


「だって私、首輪付きになっちゃったもの」


 ブルメアはベルトを外して服をめくりあげ、腹部に刻まれた奴隷の烙印を見せる。それは、人間の所有物になってしまった事の証明であり、二度と消す事の出来ない過去となってしまったものだ。


「私達エルフって血の繋がりと子供をとっても大切にするんだ。長い時間をずっと一緒に過ごしていくから。だから……こんな汚れた身体のまま森に帰っても。私に居場所なんてきっとないの」


 ブルメアは両腕で己の身体を抱きしめる。そして、手には力が籠っていた。


 私の記憶にあるエルフとは、長命な種族であり、繁殖力が低く、容姿端麗である。事実、ブルメアは私の目から見ても相当な美女だ。故に、一度好事家に捕まってしまえば、鉱山都市の地下の一件のような悲劇が平然と起こりうる。


「それに私って純粋なエルフじゃないから……」


 純潔でも純血でもないエルフ。それが風の森でどのような立場を意味するのか邪推するのは容易い。これから未来永劫、ブルメアにずっと付きまとってくる問題だ。


(分かった。そこまでで良い。聞いてすまなかった)


「ほらやっぱり……ゾンヲリだってイヤだよね。こんな汚くて弱っちい身体」


 ブルメアが目を落した先に見えるのは不貞の証。先ほどまでは呑気だった表情はすっかりと影を差しており、己の肉体に対する嫌悪感を隠そうともしない。


(……いい加減やめておけ。貴女の身体は"まだ"汚いわけでもない。それに"まだ"十分にやり直せる)


「何でそんな事言うの? はっきり言ってよ。元奴隷なんて男に媚び諂う娼婦がお似合いだって。ゾンヲリだって元々は私と同じ奴隷だったんでしょ? だったら"その先がない"事くらい分かるでしょ)


 少女に語って聞かせた奴隷時代の話だが。力無き者が奴隷の身分に落ちて取り得る手段と言えば、支配者に滅私奉公の精神で媚びる他にない。あるいは……。


(ならば、復讐者にでも成り果てたいのか?)


 ブルメアは黙ってうなずいた。それで、大して関わってもいない私にいとも容易く肉体を受け渡す理由にも合点がいった。


「ゾンヲリに私の身体をあげる。それで……」


 この話を聞くのも二度目になる。私は報酬として恵まれた哀れな女の肉体を手にし、ブルメアは目的を果たして自暴自棄のまま当てもなく生き続ける事になるだろう。


 こんな話を少女にすれば魂ごと握り潰されるのがオチだろう。


(あの程度の下らない男一人殺すためだけに支払うには重すぎる代償だ。全くもって話にならないな)


 鉱山都市の市長を殺すのは驚く程に簡単だ。その気になればゴキブリでも殺せる。そんなモノのために、一生の全て投げ捨てるなどと、実に傲慢で馬鹿げた選択だと言える。


 第一、今さらこのような戦闘に向かない肉体を貰っても困る。まだ死んだ狼の身体の方が少女の役に立つというもの。


「どうして? 私にはこれしか道なんてないのに」

(貴女の手はまだ綺麗なままだ。それに、先ほどまでしていた呑気な顔の方がよく似合う)


 最初に泉の水面に映し出された時の表情と、今浮かべているであろう表情。少なくとも、前者の表情が私と同じように失われてしまうのは惜しい。復讐を果たすだけならば手段を選ばなければ容易も極まっている。


 しかし、その過程で生まれるのがサフィのような存在だ。ヒト一人を殺害すれば、その十倍ものヒトに憎悪される。罰には死を以て償えとはよく言われるが、死んだところで償えるモノなど何もないのだから。な。


「あっ……」


 ブルメアは呆けたように息を漏らしていた。


(さて、それよりも……)


 この場は泉の付近だ。そして、水とは動植物にとってかけがえのない大切な資源。つまり、このような岩山の中にしては比較的住みやすい環境というのは、あらゆる方面から需要があるのだ。


 生い茂る木々に実る果実や泉の水を求めてやってきた"餌"を喰らうには絶好の"狩場"だと言える。


「グルルルゥァアッ」


 茂みの中から突如現れ、息をつく暇をすらも与えずに飛びかかって来たのは雌獅子。危機感を掻き立てられる黄色と黒のまだら模様。一切の無駄を削ぎ落としたしなやかな四肢。獲物の肉を切り裂くために発達した前爪。


 生粋の狩人(ハンター)と呼ぶのに相応しき彼の者の名は『山豼(ビースキルズパンサー)』。

 

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