第三十九話:闇を羽ばたく漆黒の翼
心がざわつく。肉体に宿る本能が全力で警告を発している。今すぐにこの場から逃げろと。
「ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブッ」
そして、逃げる一瞬の間も与えられぬまま、焼け付くような刺激が全身を覆い尽す。それに驚き、思わず集中とバランスを崩して落下しそうになる。
……朝か。
「ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブッ」
この肉体は光に対して鋭敏過ぎていた。その上とても憶病でもある。種に刻み込まれた被食者としての生存本能が、太陽の光と闘争を忌諱し、漆黒の闇の中という安息を求めている。
だが、本能と快楽の赴くままに行動する者を戦士とは呼べない。私は、理性と自制をもって本能に抗い、この場に留まり続ける事を望んだ。
「ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブッ」
見下ろせど地形の区別はつかない。その上を這いずり喰らうためだけに存在する物体を、判別する意味も理由もないのだから。それなりの時間をこの身体で過ごしていると、動く物以外に気を配る必要がない事が分かってくる。
風の流れと生体反応が乱れた。そろそろベッドの上で眠っている少女が起きる頃かもしれない。そう思った頃だった。
「ああああああっ! 鬱陶しい!」
突如、竜の発するが如く消魂しい咆哮が周囲に轟き、肉体の緊張感が限界に達する。気配の方向に触覚を伸ばせば、先触れとして荒れ狂う暴風を受け、肉体が吹き飛ばされそうになる。
だが、真に恐ろしいのはその暴風を作り出している大元だ。
「ッ! ブブブブブブブッ」
背羽の高速振動回数を秒間48回から72回程に増やして急飛翔する。高度を上げる事により、暴力の象徴ともいえる大地を揺るがす巨腕を回避する事に辛うじて成功する。
「ブブッ……ブッ…ブブブッブブブブブブブブッ」
風圧の余波で崩れたバランスを持ち直すため、左背羽の振動回数を24回に減らし、勢いに任せて肉体を宙返りさせ、空中に浮かぶ姿勢を安定させる。
生体反応からまだ若干の敵意を感じる。少女を前にして、空中に浮かんだままの姿勢で会話するのは無礼が極まっていたのかもしれない。
両背羽の振動回数を0に減らし、触覚と足を畳み、地面を目掛けて垂直降下を始める。このまま勢いに任せて頭部を打ち付けてしまってもそれ程問題ではないのだが、地面に打ち付けられる直前で姿勢を水平に戻す。
墜落の衝撃が駆け抜けていったが、痛みを感じる事はなく、身体が動かなくなる事もない。それがこの肉体の強みでもある。
「クッ【ソウルコネクト】」
少女との繋がりを感じたので、何時もしている目覚めの挨拶のために背羽を畳み、触覚を地面に垂らし、巨大な少女の前に平伏してみせる。
しかし、少女は怒りを鎮める様子を見せてくれなかった。
「おはようございます。ネクリア様。ところで、どうしてそんなにお怒りになられているのでしょうか」
「ゾンヲリ、お前な…… 朝っぱらからブンブンブンと耳障りな音を立てて部屋中を飛び回ってるゴキブリが視界に入ったら握り潰したくもなるだろっ」
少女の意見は最もだった。鋭敏過ぎる感覚のせいで麻痺してしまっていたが、この『黒翼』の発する不協和音はヒトを非常に不愉快にしてしまう。
「申し訳ございませんネクリア様。この身体ですと時の流れに対して鈍感になってしまうものでして……」
「まぁいいよ。で? 何で態々そんな事してたんだよ」
「夜間、何もする事がありませんでしたので、そのうち役に立つと思い、この肉体で飛行訓練をしておりました」
私は元がヒトであるために獣や虫を操作する経験が足りていない。特に、背羽や尻尾や触覚といったヒトにとって縁のない部位の操作を苦手としている。
そして、眠る事のない私にとって、魔獣の現れない夜は長く、時間を持て余していた。自身の弱点を放っておく理由もないため、飛翔と空中戦闘機動の訓練に明け暮れていたのだ。
鍛えられた戦士であっても、秒の間に16度の大剣を振るうのに難儀する。最初は24回羽ばたく事すら上手くはいかなかった。
「お前のその無駄過ぎる勤勉さに呆れて物も言えないよ」
「それ程でもありません」
「全然褒めてないからなっ。大体、ゴキブリの肉体を上手く使えた所で一体なんになるんだよ!」
「……返す言葉もございません」
以前、安宿で少女に私が宿ったまま睡眠をとろうとした事があったが、結局私が肉体の制御権を奪ってしまうため、満足に少女の肉体を休ませる事が出来ないという問題が生じた。
少女に十分な睡眠と休息をとってもらうには、私はゾンビとして少女の外で活動する必要があったのだ。
しかし、獣人国の中でゾンビとして一人で徘徊するわけにはいかないし、手頃な死体が常にそこいらにあるわけでもない。だとすれば、街中で私が取り得る姿は、何時でも何処にでも居る存在のゴキブリが適任だった。
故に、少女に頼み込んでゴキブリの肉体に入れてもらったのだ。
「なぁゾンヲリ、正直に言うとその肉体のままで過ごし続けるのはあまりオススメしないぞ」
「それはどうしてでしょうか?」
「前も言ったろ? 邪悪な身体は魂を歪めるって。それはつまり、精神は少しずつ肉体に影響されていってしまうんだよ。逆に、肉体も精神に少しずつ馴染んでいってしまうんだ。もし、お前が身も心も完全にゾンビゴキブリになってしまったら私だって流石に嫌だぞ……」
肉体と精神は相互に影響し合っている。それは、今まで私に肉体を貸し与えてくれていた少女に対しても同じ事が言える事なのではないだろうか。
「では、私がネクリア様の肉体を借りている事は良くない事なのでは……」
「……確かに、邪霊の中には、生に対する飢えと渇望から生者に寄生して精神を歪め、そのうち完全に同化して乗っ取っちゃうような奴もいるけどさ。お前からはそんな悪意感じないし、まぁいいかなって思ってるよ」
「ネクリア様……」
「そんな事より、なぁゾンヲリィ……」
ふと、少女が何かイケナイ事を思いついたのか、露骨にイヤラシイ顔を作った。
「あ、あの。ネクリア様?」
「なんなら、お前にメスとしての悦びを教えてやろうか? 私は慣れちゃってるけど淫魔の身体はとっても敏感だからすごーく気持ちよくなれるぞ? ニヒヒッ」
巨大な少女は、小さいながらも巨大な掌をワキワキと動かしてみせる。
「い、いえ。それには及びません……大丈夫です」
淫魔はそういう種族であるが故に、そういった行為に順応した肉体になっていると言える。しかし、何事も"慣れ"は"飽き"をもたらしてしまう。私にとっての"痛み"がそうであるように、ネーアとして百戦錬磨の経験を積んだ少女にとっての"快楽"とは……。
私にとっては未知で得たいの知れない恐ろしいモノだ。
「おい」
「も、申し訳ございません」
「まぁ、いつまでも無駄話し続けてもアレだし、さっさとその身体を捨てて私の中に戻れよ」
「はい」
天空より鉄拳が振り下ろされ、私と一夜を共にした肉体は挽肉になった。そして、朝の身支度を整えた少女は高級宿を後にして、ビースキンの市街へと出たのだ。
「さて、勇んで外に出てみたけどさ。今日はどうしよっか。ゾンヲリ」
機嫌を直した少女は何気なくそう言ってのけるが、現在の生活費に使えるコバルは0。つまり無一文だ。そして、ビースキン内で金を稼ぐ手段は、最初にここにやって来た時から何一つ変わっていない。身体を売るか、魔獣狩りか、薬草を摘むか、木の実などの食糧を魔獣の住む区域から調達しなければ、夜に難民キャンプの世話になるのがオチだろう。
(ネクリア様、一先ずは鍛冶屋に打ち直してもらった武器を回収しに行きましょうか)
「あ~、そういえばそんなモノあったっけな~」
なお、リアルゴキブリの羽ばたく回数は秒間30回程度らしい。クロゴキブリが空中でホバリングする事はできてもチャバネゴキブリは飛ぶ事はあんまりないのだそうだ。
そんな中、空戦機動でもあるインメルマンターンをキメた後に地面に垂直落下を始めるエースゴキブリがいる。
後に空を飛んだりするかもしれない伏線になったりする。もし、ゴキブリが3mくらいの大きさになってサイズ比の出力を維持出来たらどうなるか。
亜音速で必殺の突進と滑空を繰り出す事が出来る。