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第二十三話:我が名はカール・アウグスト・ティングハルト

※ぬこ視点です。


 我はCAT、名はカール・アウグスト・ティングハルト。我に糧を捧げる奴隷の一匹が、我を一度だけそう呼んだ。


 穴掘りが好きな獣人という種族から成り代わり、人間という種族が地上を跋扈するようになってから早数年。だからといって、我の生活は大きく変わるわけでもない。


 人間共の作った建物の屋根から屋根を伝って渡る。腹がぐうと鳴っている。今、我は猛烈に飢えているのだ。


 狩りの時間だ。


「にゃあっ」


 黒獅子の咆哮をあげる。この一声で多くの者共が一斉に恐れおののき、逃げ惑う。


 実に滑稽である。


 空を自由に飛ぶ鴉共でさえも、我には敵わない。今、鉱山都市という石と枯れ木の巣において、我に逆らう者は誰一人として存在しない我こそが、真なる王者であり、絶対者である。


 優雅に、美しく、気品を損なわぬよう、屋敷の屋根に小さく空いた穴の中に身を潜り込ませる。狩りはいつもこの中で行われる。


「にゃ~ごっ」


 穴倉の中は闇が支配する世界、そこは我の為の領域である。


 人間屋敷の屋根裏はいい。雨風を凌げるし、温かい。そして、糧が大量にいる。丸々と太ったムシケラや鼠共。まだ見ぬ本日の獲物を前にして思わず舌なめずりをしたくなる。


 前足で踏みしめると雨水でカビて腐った古い木板が軋んだ。


「……」


 無様に触覚を伸ばしている地を這うムシケラを見つけた。既に死んでる蜘蛛もいるが、やはり生餌の方が旨い。今日の獲物はアレにする。


 抜き足、差し足、忍び足。気配を消しながらゆっくりと近寄る。あのムシケラは間抜けだが、逃げ足だけは案外馬鹿にならない。


 一撃で仕留める。


「にゃっ」


 必殺の間合いに入り、姿勢を屈めた所で獲物に気づかれた。カサカサと脱兎のように一目散に逃げだしたのだ。 ゴキブリ如きが、月明りで闇を見据える我が瞳から逃れる術はない。

 

「フニャーッ!」


 後ろ脚に力を込め、狙いを定める。ゴキブリは間抜けだ。真っ直ぐ前にしか逃げる事を知らない。行き先さえ予測すれば簡単に仕留められる。

 

 跳ぶ。


 我ながら惚れ惚れする程の見事な跳躍だと感心するがどこもおかしくはないな。

 

「にゃあ!?」


 我が跳んだ瞬間、ゴキブリは進路を真横に変えた。まるで我が跳ぶのを最初から見計らっていたかのように。


 右前足を叩きつけて弱らせるはずだったのだが、空ぶった挙句に勢いよく木板に打ち付けてしまった。僅かな痛みと、全身の毛が逆立つ程の苛立ちが募る。


 哀れなムシケラの分際で、カサカサと耳障りな音を立てている。


「フシューッ!」


 逃げ惑うムシケラとの距離を詰め、最適な間合いに詰め寄る。


 今度は外す気はない。ゴキブリの進行方向は前、向きを横に変えた瞬間を狙い撃つ。しかし、待てどもゴキブリは直進し続ける。


 あまり時間はかけて壁を這われでもすると面倒になる。跳ぶのはやめだ、潰す。


「カサカサカサ」


 逃げ惑うゴキブリの行き先に右前足を振り下ろし、木板を力強く叩く。しかし、潰した手ごたえを感じられない。寸での所で進路を変えて避けている。

 

 そう、また避けられた。ムシケラ如きにだ。


「ふにゃああああ!」


 苛立ちに任せて左爪で薙ぎ払う。ゴキブリは「ブブブブッ」と背羽を羽ばたかせながら、ぴょんと跳んで避けた。確信する。このゴキブリは我の攻撃を先読みして避けている。


 先ほどの薙ぎ払いで舞い散ったおがくずと埃が目に入った。目をこすった後も「ブブブブッ」と背羽を広げて羽ばたく余裕を見せる。飛んで逃げようともせずにだ。


 このムシケラは生態系の王者である我をコケにしているのだ。ゴキブリが、万死に値する。

 

「ふにゃあああああ!」

 

 潰す。潰す。潰す。


 内からこみ上げてくる衝動に任せ、幾度となく前足を叩きつけるが、打ち付ける痛みだけが返ってくる。ちょこまかと鬱陶しい事この上なく、実に腹ただしい。


 普段は穏やかな心を持つ我の怒りも有頂天となった。この怒りは留まる事を知らない。だが、ようやく後ろ足一本をもぎ取った。


 次で殺――ッ。


「ぎにゃああああっ!?」


 突如、激痛と共に身体が宙に浮いた。一瞬、何が起こったのかが分からなかった。気づけば脇腹を抉る鉄刃が、砕けた木板が身体の所々に刺さっていた。


 何も知らぬまま、我は、敗北を味わった。ゴミムシ相手に、我は、負けたのだ。


 〇


 部屋の天井には穴が空き、屋根裏には幾つもの短刀で串刺しとなった黒猫が縫い付けられていた。パラパラと零れ落ちる木片と埃が、市長の執務机を汚していく。


「ああ、いきなり何を!」


 禿ている市長はフード姿の女に詰め寄った。いきなり屋敷の天井を損壊させた行動の真意が掴めなかったためだ。


「市長、もう少し警戒なさったらいかが? 魔術師は使い魔を放って秘密裏に情報を探る者もいるのよ」


 動物や飼いならした魔獣を使い魔とし、伝書する事で遠隔地と情報を共有する手法は帝国でもとられている。また、呪法や奇跡、精霊魔法は発動の際に一定の『波』を発する。


 この『波』は、魔法を知り、経験を積んだ者であるならば感じ取る事が出来る。


 そして、微かな魔力の残滓を辿った先には凶兆を知らせる黒猫が居た。魔力を発してまで情報を欲する者、それは敵対者である事の証明だった。


「お、おお。そうでしたか」


 禿頭の市長は頭を下げる。その様子を見ていたフード女の顔が青ざめた。頭をあげた市長は訝しげに首をかしげる。


「どうかなされましたかな?」

「いえ、何でもないわ」


 フード女は明らかに嫌悪の混ざった視線で、市長の禿頭のてっぺんを睨んでいた。凶兆を報せるのは、何も黒猫だけではない。市長の禿頭はいつもよりもボリュームに溢れていたのだ。


 カサカサと蠢く者が、じっとフード女を見ている。


 そして……。


「ブブブブッ」

「ひっ」


 それは、漆黒の翼で羽ばたいた。襲撃の合図である。その瞬間、フード女は怯み、身構え、息を呑んだ。


 だが、市長の頭に乗っているソレは、飛ばずにカサカサと蠢くのみである。ほっと安堵したフード女のしなやかな指先には冷や汗が滲んでいた。


 フード女は市長の禿頭を前にして、目を釘付けにされていた。一瞬の隙でさえも見逃さない勢いで凝視している。そして、熱視線の先にいる黒光りする例のアレも、フード女をじっと見つめている。


 さながら恋人同士のように、お互いに見つめ合っているのだ。次第にフード女の精神は摩耗し、余裕も失われ始めてきた。


「どうやら少し顔色が悪いようですが」

「そ、そうね、少し疲れたから休ませてもらうわ」


 結局、フード女は市長の頭の上に居る存在に触れない事にした。足早に市長の執務室を去ったのだ。


 フード女が見えなくなった後、市長は舌打ちする。


「チッ帝国お抱えの雌狸が、一体誰のおかげで獣人奴隷が貰えると思って……まぁいい。それよりも……」


 市長はこれから先の事を夢想し、にやけ面を作り上げる。


「子供のサキュバスか、どう調教してやろうか……楽しみだ」


 執務を終えても、市長は頭の上に居る存在に気がつく事はなかった。例え、強烈な殺気を浴びせられたとしても、訓練されていない者には感じ取る事は出来ない。


 市長は席を立ち、奴隷用独房へ向かうために外に出る。


「おい、アレ」

「しっ見るな」


 道行く人々は皆、異様な程の存在感を放つ市長の禿頭に魅了されていた。市長の表情はご機嫌である。足取りも軽い。そのためか、やはり自然と人目を集めてしまうのだ。


「アレって、ゴキ……」

「よせ」


 善意のある人々は一度その事を教えようと思い至り、声をかけようと一旦は足を止めるが思いとどまる。


 市長の機嫌を損ねるのは確定的に明らかだからである。あまり良い噂を聞かない人間の恨みを買う者は何処にもいない。一体誰が、「頭にゴキブリが乗ってますよ」等と言えるだろうか。

 

 市長とゴキブリは、淫魔の少女の待つ独房に続く石階段を降りていった。

さて、ゴキブリを前にした時、人はどういった反応をとるだろうか。

ある者は潰すまで寝る事が出来ずに朝になるまで部屋中を探し回り、

ある者絶叫をあげて逃げ惑い、

またある者は何食わぬ顔で放置する。


思考するゴキブリ、それは一種の悪夢である。

彼の者が漆黒の翼を羽ばたかせる時、人々は畏れおののくのだ。

肉体的な強さなど何の意味も持たない。ゴキブリはそれを教えてくれる。


どうでもいい話ではあるが、ゴキブリとゾンヲリって響きが似ている。

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