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第三十八話:餌


 大森林の奥地にある湖畔の古代遺跡、そこはエルフ達から禁足地と定められていた。


 誰かが曰く、そこには人を食らう鬼が住んでいる、と。しかし、実際に鬼を見かけたエルフは誰も居ない。なのに何故鬼が住んでいるのが分かるのか、と若いエルフが聞くと、年老いたエルフはこう言った。


 その場所に一度踏み入った者達は二度と返って来ない、異界の鬼に食われてしまうのだ、と。


 そのうち年月は過ぎ去り、若いエルフが年老いるようになった頃には、その場所のことはエルフ達からも忘れ去られていったのだ。再び、闇の瘴気が空を覆い尽くし、終わらぬ夜と共に鬼が現れるようになるまでは。


 〇


 風化した石の回廊(かいろう)を歩く女吸血鬼ミラカの足取りは重かった。


「はぁ……憂鬱だ」


 目的地の部屋から漂ってくる汗や体液がすえたような何とも言えない臭いが、敏感なミラカの鼻腔を刺激する。耳障りな嬌声がより大きく響くようになる程に、そこで繰り広げられているであろう宴の様相が想像できて気が滅入るのである。


 やがてミラカの憂鬱の正体が見えてくる。視界を遮る扉のような気の利いた仕切りなどなく、無造作に置き捨てにされている女吸血鬼達。ぐったりしている彼女達の目には意思の光は灯っておらず、恍惚とした表情を浮かべている者がいれば、譫言のように何かをブツブツと呟き続けている。


 そして、個室の最奥には、両手に二人の女の肢体を抱きながら、女の首筋に噛みついていう吸血鬼が居た。男はミラカの存在に気づくと、女の首筋から口を離した。


「遅いぞミラカ、ようやく来たか」


「あ、ああ。悪い、少し遅れた」


 ミラカはバツが悪そうに謝罪する一方で。男は両手に抱いている女達の感触を楽しみ続けていた。


「なぁ、グラーキス。また何人か壊れそうになってるぞ。折角集めた処女の奴隷なんだし、もう少し大事にしないとまた……」


 ミラカは地べたにぐったりと寝そべっている女達の方に視線を落とした。皆、首筋には噛み傷がついており、鮮血を垂らしている。


「ミラカ、貴様は何時からこの私に対し何かを指図出来るような立場になったというのだ?」


「わ、悪い……」


「それで、新しい処女の娘はどうした? 私から案内役に寵姫を一人借りておいて、まさか今回も誰も見つけられなかったとは言うまいな?」


「ご、ごめん、見つけられなかった。もう近くの集落には……」


「言い訳は要らん」


 グラーキスは手に抱いていた女を地べたに投げ捨てて立ち上がり、委縮しているミラカの元へとゆっくりと近づいていく。


「なぁミラカ、私は渇いているぞ。この程度の血ではまるで足りん」


 ミラカの顎を指で持ち上げると、舌舐めづりをしながら耳元で(ささや)いた。


「ま、待ってくれグラーキス。今はミラカも結構渇いてるんだ。だから、今それするのはダメだ……せめて誰かの血を吸わせ……うぐぅっ!」


「黙れ」


 ミラカはグラーキスを押しのけようとした瞬間、腹部に拳がめり込み身体がくの字に折れ曲がった。崩れおち、地べたにうずくまった瞬間、腹部をさらに蹴り上げられた。


「カハッ、ぁぁ……」


「貴様の血も力も身体も全て私のモノだ。所有物をどう使おうが私の自由であろうが。なぁ、そうであろう? お前達」


 そして、グラーキスは仰向けに倒れたミラカを踏みつけにする。


「はい……グラーキス様の仰る通りです……私達の全てはグラーキス様の為にあります……」


 地べたに投げ捨てられていた女達は、生気の無い声を揃えて同じ言葉を繰り成すと、一斉に跪いて頭を垂れた。


「何とも忌々しい。半分だけの半端者とはいえ、あの御方の血によって吸血鬼化しているからか、未だに貴様を虜化(りょか)しきれていないというのがな……」


「グラー……キス……」


「私は"あの御方直系の後継者"として、全ての面であの御方を超えなくてはならないのだ。故に、あの御方が百の愛玩奴隷を作ったのなら私は二百の愛玩奴隷を作り、あの御方が作った王国よりも巨大な吸血鬼の帝国をこの世界に築き上げ、いずれあらゆる種族を私の足元にひれ伏させてやるのだ」


――"あっちの世界"じゃ"アイツ"の後継者候補序列10番目以下で肩身が狭いからってミラカを騙してこっちの世界に逃げて来たんじゃないか……そう言う所が、アイツと同じでみみっちいんだよ……グラーキス……


 グラーキスが語る吸血鬼の吸血鬼による吸血鬼の為の吸血鬼社会、そのありとあらゆる基準点は"あの御方"にあった。生まれながらの吸血鬼は誰もがあの御方の築き上げた世界について疑問を抱かない。


 何故ならば、吸血鬼にとってのあの御方とは神にも等しい存在で、その神が作った社会におかしい点などあり得ない。暴力と美貌においては比肩する者はおらず、異性と吸血鬼であれば例外はなく皆あの御方にただ見つめられただけでも心を失い虜化されてしまう。


 故に、吸血鬼達はあの御方を指して魅惑の君と畏れ敬った。ただ唯一ミラカだけは、あの御方を"アイツ"と呼び胸の内で蔑んでいた。


「ミラカ、貴様は最近は自由にやっていたようだな? 今一度貴様の立場が何であるのかを分からせてやろう」


 グラーキスがミラカの胸倉を掴み起こすと、後ろから羽交い絞めにする。


「あ、やめっ、あっ! あーーーっ!」


 そして、ミラカの首筋にグラーキスはずぶりと牙を立てる。その瞬間、ミラカの全身がビクりと震える。血液と共に何かが少しずつ吸われていくと同時に、ミラカの中に脳髄を焼き焦がすような暴力的な快楽が送り込まれていく。


「やら、これやらぁ……いやぁぁぁ……馬鹿になっちゃうからやだぁぁっ」


 吸血鬼にとっての吸血とは、自身の眷属を増やすという生殖欲を満たすのと同時に渇きと食欲を満たす行為だ。怖気すらも感じる程にただただひたすらに気持ちが良く、ミラカの思考は快楽一色で埋め尽くされていく。


 頭の中が溶かされていく、何もかもがどうでもよくなっていく。


――ぁ……ぁぁ……気持ちぃぃ……。ああ、ダメだ……。やっぱり、ミラカは……これに逆らえない。


 普段ならば嫌悪すら抱くであろう肢体を弄ぶグラーキスの指の感触を、ミラカは成すがままに受け入れていた。口元からだらしなく涎を垂らして淫靡な快楽に耽る。


 吸血鬼によって吸血されてしまった"餌"の末路がそこにあった。


「どうだ? 今一度貴様の立場を理解したか?」


 グラーキスはむしゃぶりついていた首筋から牙を抜くと、ミラカの耳元で囁いた。


「はぁい……理解しました……だから、もう、やめ……ああっ」


「お前の身も心も、血の一滴も残らず全て私のモノだ」


 ミラカは吸血の停止を哀願するも、再びグラーキスはミラカの首筋に牙を立て、じゅるじゅると音を立てて血を啜る。


「ぁぁっ……ぁーーーっ……ぁぁ……」


 やがてミラカが意識を手放し完全に脱力しきってしまうと、グラーキスは興味を失ったようにミラカをその場に置き捨てる。


「ふん、これだけ吸い尽くしてやってもまだ堕ちぬか、つまり未だにこの小娘が私と同等の"格"を保っているというのだから腹立たしい限りだ」


 グラーキスは再び愛玩奴隷達と血と肉の宴に興じようともするも、あれ程渇いていた吸血衝動と渇きが、今はすっかりと鳴りを潜めていた。


「どれだけ集めた女共から吸おうとも決して満たされなかったが、曲がりなりにも貴族吸血鬼ということか……」


 無防備に肢体を曝け出しているミラカを見下ろしていると、グラーキスは再び手を伸ばしそうになっている事に気づいた。吸血衝動とは別の欲望、目の前の女を支配してやりたいという暗い感情、肉欲。


 それを振り払った。


「……力は十分に手に入った。夜を呼ぶ儀式を進めるとしよう」


 女の肉に溺れてしまうなどと吸血鬼らしくなかった。


 あくまで肉に溺れて虜となるのはミラカの方からでなくてはならない。そうでなければ、魅惑されてしまったのは己の方であることを認めてしまい、吸血鬼の誇りに傷がつくからだ。


 故に、グラーキスはミラカを視界に入れないように努めてその場を立ち去っていった。


「う……うぅ……」


 ミラカが意識を取り戻した時に全身にだるさを感じていたが、何とか身体を起こし汗や体液でべとべとになり着崩れてしまっている着衣を元に戻していく。


「そうか……ミラカは……また……」


 吸血された後、己の中から何かが抜け落ちていく喪失感に襲われる。


――いっそミラカも、そこで転がってる愛玩奴隷達と同じように全部グラーキスに支配されて狂ってしまえたら楽なのに……


「ぅ……ぐす……うぇぇ……ぐす……」


 なまじ虜化を免れ正気を保ててしまうからこそミラカは辛かった。


 与えられる快楽に溺れて屈してしまったこと、圧倒的な暴力に逆らえずに恭順を選んでしまった自身への嫌悪、元は吸血鬼ではなくヒトであったからこそ吸血鬼のルールによって自身の乙女としての身体と尊厳が蹂躙されてしまうことへの不条理に対し、ミラカは泣くことしかできなかったのだから。


「ぁ……渇く……」


 体内の血液が欠乏していた。長期間の吸血を我慢し続けていたこともあるが、グラーキスに吸血されたことでその衝動は一層強くなっていた。


 血液を吸わせろ、と。自分ではない自分が頭の中から語り掛けてくる。そして気が付けば、転がっている愛玩奴隷の首筋に舌を這わせようとしている。


「う……うぅ……違う……これじゃミラカも節操無しと変わんないじゃないか……」


 寸での所でミラカは思いとどまった。


 ミラカは吸血する時はあくまで無理やりではなく相手との合意を取ってからだと決めていた。無理矢理力づくで吸血されることの辛さはミラカも分かっていたし、何よりも嫌だったからだ。


「……はぁ……はぁ……とにかく、血が、吸いたいな……」


 ミラカはよろよろと石壁の回廊に手をつきながら歩きだした。残しておいた自分用の"非常食"が置いてある場所へと向かって。

グラーキス君もミラカちゃんも面倒臭い性癖を抱えているなぁ! でも吸血鬼だもんね……仕方ないね……

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