第三十七話:トーメントトーナメント
意識を取り戻して一番に感じたのは、湿気の籠ったようなカビ臭い空気だ。どうも手足には枷が嵌められ磔にされているのか、身動きがとれない。背に伝わるひんやりとした石材の冷たさが、此処が建物の中であることを教えてくれる。
周囲からは見知らぬ生物の息遣いや視線のような気配が特に感じられないのを確認してから、ゆっくりと薄目を開ける。
「ぐ……」
「や~、ようやく目が覚めたのかい? いや~手ひどくやられたようだね~ゾンヲリ君」
天使ヨムがその言葉と共に目の前に姿を現すと、顔を興味深げに覗き込んで来る。何とも他人事と言った風に白々しい口調だった。
こうして枷をハメられた状態でほったらかしにされている時点で、ヨムは単に私をおちょくりたいだけなのだろうが。
「……そのようだな。私の傷の手当は、ヨム、お前がやった……というわけではなさそうだな」
包帯と添え木のようなモノで折れた手足が固定され、傷も止血されていることから、何故か私は応急処置を受けている。当然ながら、目の前の天使がこのような殊勝な真似をするとは考えにくい。
「そうだね、キミをさらったであろう女吸血鬼がしていったものだよ」
味方、とは言えないが、こうして現状を把握する上ではヨムの存在はありがたかった。
「それで、何故その女吸血鬼が今この場に居ない?」
「どうもね~グラーキスという吸血鬼に呼ばれて出て行ったみたいだよ? ああ、今は周囲にはボク達以外誰も居ないから安心してくれてもいいんだよ? ゾンヲリ君」
「そうか」
手枷は、引き千切れそうにない。無理に抜け出すならば手足の方を折ってしまう方が手っ取り早い。だが、血の臭いを垂れ流しながら逃げた所ですぐに吸血鬼に追いつかれるだろう。
それに土地勘もない。あてもなく彷徨った所で方向が分からないのではより状況を悪くする可能性もある。なにより、敵に泳がされてネクリア様に辿り着かれる方が問題か。
「それで、ゾンヲリ君はこれからどうするつもりだい?」
ヨムは意味ありげに両手を隠すように後ろに組み、妙な笑みを浮かべて顔を近づけてくる。
「お前には、この様でどうにか出来るように見えるのか?」
肉体は女吸血鬼と戦った時のままで、限界以上に酷使した結果全身の骨という骨は砕け神経や筋繊維はズタズタだ。こんな拘束など無くとももはや腕をふりあげる事すらもかなわないし、立って歩こうと思えば前に崩れ落ちるだろう。
それでも無理やり動こうと思えば張って動けなくもないが、気合で無理矢理動かせば相応に消耗するというのが現実だ。
「ん~~~ゾンヲリ君のことだし出来るんじゃないのかい? や~そう睨まないでくれよ。ボクだってそこまで無慈悲じゃないよ? 何といってもボクはキミにとってと~っても都合のいい超絶可憐な美少女天使だからね。 じゃ~ん☆、ほらほら、これを見て見なよ~ゾンヲリ君。なんだと思う~?」
そうしてヨムが後ろに隠していた鍵を見せてくる。恐らくは、私に取り付けられている枷の鍵だろう。恐らく、ヨムがこっそりと持ってきてくれたのだろう。
そして、無表情なくせにどこか見ていて腹の立つ笑みを浮かべている。
「どう見ても鍵だろう。そんなものを私に見せてどうしたいのだ? お前は」
「キミがど~~~してもってボクに頼んでくれるなら、もしかしたらボクがこの鍵をキミの目の前に投げ捨てちゃうかもしれないよ~?」
この場合のどうしてもとは、"お願いを聞く"代わりにという代償を求めてくるのがこの天使の手口だろう。
「不要だ。敵にお前という存在が居る事を知られる方が遥かに問題だ、元の場所に戻しておけ」
ヨムのうさん臭い笑みが一瞬固まった。
「冷静に考えてみなよゾンヲリ君、ここはキミが意地を張るような場面じゃないと思うんだよね」
「冷静に考えた上で、私は今の私に出来うる最善を尽くすつもりだ。その上でお前の助けを借りるつもりはない」
「理由は教えてもらえるかい?」
「まず、逃走や潜伏が困難だ。そして、今のこの身体のままでは戦闘するのも困難だろう。よって、枷を外して逃げた所で敵を警戒させるだけだ。そして、もう一つ。ここが敵の本拠地であるならば、"宵闇の霧"を発生させている儀式場がどこかにあるはずだ。儀式を破壊し、常夜の闇が無くなれば吸血鬼は"昼の間は追って来れなくなる"だろう」
吸血鬼は夜の間だけ本領を発揮する生き物だ。だからこそ、吸血鬼達は効果範囲内の太陽光を遮断する"宵闇の霧"などという回りくどい大規模魔法を発動し続けている。
これは吸血鬼の暴力を最大限に引き出す魔法であるのと同時に、吸血鬼を縛る枷なのだ。ならば簡単な話だ。こうして分からなかった敵の本拠地にあっさりと潜り込み、全部滅茶苦茶にしてやればいい。
「なるほど、それは妥当だね。でも、その様でどうやって実現するつもりだい?」
「そうだな、ヨム、一つお前に頼み事が出来た」
「なんだい?」
「もしも、これから"俺が俺で無くなる"ようならば、その時はお前の奇跡で俺を必ず消滅させろ。それが俺からお前に望む一度きりの奇跡だ」
ヨムの表情が凍りついた。恐らく、私の意図を理解したのだろう。
「それはキミらしくもない、とても安易な結論だと思うよ、うん、絶対にやめておいた方がいい。そんなことをするくらいなら天使になった方がマシだよ。第一、もっとマシなお願いは幾らでもあるんじゃないのかい? 例えばボクに吸血鬼を消してもらうとかね?」
「それを望まない理由も単純だ。お前がグラーキスに勝てる保証がない。そして、お前がグラーキスに負けることで起こりうる最悪の結果の方が遥かに問題になる」
ヨムの潜伏能力は敵にとっても厄介だろう、が。俺のように視線で気づける程度の潜伏がより鋭い感覚を持っている吸血鬼に気づけない道理もない。そして、ヨムは魔力や身体能力は一流であっても戦闘者として見れば三流以下だ。
その上で、あの女吸血鬼よりも強いであろうグラーキスと対峙してヨムが勝利できる可能性は高いとはとても言い切れない。
そして、ヨムがグラーキスに負けて吸血鬼化及び隷属化させられた場合、ヨムの天使として持っている強力な能力が全て敵に利用される。さらに、イリス率いる天界を刺激し、天使の増援を招き、結果としてネクリア様に害を及ぼす可能性が高くなる。
勝てたとしても、ヨムの「一度きりの奇跡」というカードを切ったことで起こりうる問題もある。例えば、"俺の頼みを聞いてヨムが俺のために奇跡を使用する"ことが天界のルールに明確に反するというのなら、当然ヨムに願った俺もまた、ヨムと共に天界からの粛清の対象となり得る可能性がある。
この問題を回避するには、ヨムに願った人物もまとめて消滅させなくてはならない。それが、俺を消せ、という願いになるのだ。
「それは、キミが敵の手に堕ちた場合も同じとは言えないかい?」
「そうだな、俺の持つ知識が敵に利用されることで、俺自身がネクリア様にとっての最悪の敵となりうる。だからこそ、俺が敵の手に堕ちたのならばお前が速やかに俺を消滅させればいい」
俺は吸血鬼の手駒と化したヨムを殺す術を持たないが、ヨムならば吸血鬼と化した俺を【ディスペル】の奇跡などで一瞬で殺せる。その違いは決定的だ。
「キミは……。あ~……何となくだけど、ネクリアちゃんがキミに対し怒りを覚える気持ちが理解できたような気がするよ。キミが居なくなったら彼女達はどうなるのかはしっかり考えた上で言ってるのかい?」
「無論だ、ネクリア様は元々俺など居なくとも強く生きることの出来るお方だ。ブルメアも誰の助けも借りずに生き抜ける程に強くなった。ならば、俺が"居なくなった程度"ではもはや問題にもならないだろう」
ネクリア様は持前の愛くるしさと社交性で何食わぬ顔で人間社会と溶け込むことが出来ている。その一方で俺は常に一目を避けねばならず、生者の肉体を借りねば恐怖と暴力でしか居場所も作れない。
ならば適材適所だ。血には血を、痛みには痛みを、恐怖と暴力には恐怖と暴力で、俺は俺のやるべきことは何も変わらない。
「キミが今進もうとしてる道の先にあるのは、苦痛と苦悩ばかりだよ。仮に大きな代償を払い、魂を傷つけ奇跡のような可能性の中から小さな勝利をつかみ取ったとして、そこでキミが得るモノはなんだい? 彼女達だってそれをキミに望んではいないだろう?」
「何もありはしない。勝ち続けた所で、より強大な敵が俺の前に現れるだけだろう」
闘技場にはトーナメントという試合形式がある。勝利した者同士で順次に戦い、"最後の勝利者"となるまでこれをひたすら繰り返し続けるというものだ。当然、勝利を重ねれば同じく勝利を重ねてきた者同士との戦いとなり、より強く、より賢く、より戦闘経験の豊富な強敵が際限なく現れる。
戦いはより苛烈になり、より大きな痛みを伴う。そして勝利した先にあるのは、苦痛と苦悩のみ。俺の勝利を祝福する者は誰もおらず、俺が敗北する瞬間を誰もが祈り、誰もが俺に憎しみや呪いを込めて野次や罵声を飛ばしている。
勝利し続けるというのはそういうものだ。そして、俺の前に立ちはだかる全ての敵を駆逐し尽くし最強と成り果てたところで、勝利するためにこれまで手にしてきた力を振う先など、もはやどこにも残っていない。
「ならどうしてそんなことをキミは続けるんだい?」
「俺は、今も昔もこのやり方しか知らない」
戦士として、ただひたすらに戦い続ける。
「虚しいとは思わないのかい」
「ああ、虚しいな。全て虚しい。だからと言って、俺は歩みを止めるつもりはない」
違うな、止まれないのだ。
止まってしまえば、俺に挑み、俺に踏み潰されていった敗北者達は一体何のために負けていったというのだ。
敗北者達にだって誰かの為に、己の為に、夢や希望、正義や愛や美徳といった形で勝利を求め戦いにかける譲れぬ信念があったはずだろう。なのに、そこで俺が自身の勝利を否定してしまえば、敗北者達が積み重ねてきた勝利ですらも虚しくなってしまう。
ならば、敗北者達の勝利を無意味で無価値にしないために、俺は前に進み、努力し、死力を尽くして勝利し続けなくてはならないのだ。その果てにあるのが苦痛と苦悩しかないのだとしても、俺ではない誰かによって俺の勝利が踏み躙られるその瞬間まで。
「ヨム、お前は以前、俺の苦しみ悶え続ける姿を見たいと言っていたな?」
「確かに言ったね」
「ならば、お前は傍観者なら傍観者らしく、俺がこれからやることを黙ってそこで見守っていればいい。それがお前の望みにもなるのだからな」
「キミはつくづく頑固で意地っ張りだよね。それにとても愚かだ。キミならもっといい方法なんて幾らでも思いつくじゃないか。キミの幸福を望んでいるヒトだって居るのにね。なのに、意固地になるあまり破滅的で虚しい努力をしようとばかりしている。うん、天使であるボクでもキミの愚かさは救いようがないね」
「お前が俺を救いたいだと? 冗談はその下着同然の恥ずかしい恰好だけにしてくれ」
「や~こう見えてもボクってば優しくて可憐な超絶美少女天使だからね~。キミのような愚かで救えない人間こそ救いたくなってしまうものなんだよね。なんてね……あ~もう、分かったよ~そんな睨まないでくれよ。ただ、気が変わったらいつでも言いなよ。ボクは何時だってキミの傍に居るのだからね」
そう言い残すと、ヨムは姿を消し、遺跡の独房に一人取り残される。次に俺の前に現れる敵は女吸血鬼かグラーキスか、あるいはそれ以外の誰かか、いずれにせよ、どうでもいい。やることは変わらない。
こうしてゾンビと成り果てたことで忘れかけてしまっていた事を思い出した。負ければ全て失い奪われる。ああ、そんな当たり前の法則さえも捻じ曲げてしまえていた今までがおかしかっただけだというのに。
既に死んでいる死体如きの分際で、次があるなどと平然と思い込んでしまう甘え。そんな下らない考えが頭によぎること自体が油断でしかない。
一度四肢が欠損すれば元に戻ることなど奇跡でも起こらねば起こりえない。深く傷つけば古傷として永久に残るのも当たり前だ。皆、そうして生きている。なのに、高々魂が傷つくことを恐れてどうするというのだ。
「勝利の為に、全霊を賭けるとしよう」
ヨムに俺の消滅を願った一番の理由、それは、俺が無意識に抱いている"負けてもいい"のだという甘えた考えを拭い去るためだ。
重篤なマゾを拗らせると自身に縛りを課すのは我々の業界では稀によくあることだが、世の中火事場の馬鹿力系の能力持ってる奴はHPが瀕死状態だと攻撃力が1.5倍くらい上がったり、乙ったら乙る度に不屈と気合と根性の精神で能力が1.2倍くらいずつ増えていくとかいう理屈をガン無視してるとしか思えない変な奴も居ますしね……
つまるところゾンヲリさんもそういうタイポである