第八話:亜空間転移の秘密
「それで結局、この黒焦げになってる触手生物の群れは一体なんなんだ? 明らかに【精霊魔法】と思わしき力で焼き払われてるようだが」
黒焦げになっている幼体の数は50体を超え、成体が5体。
成体一体までならばブルメアが矢を全て使い切れば"一時的"に戦闘不能にまで追い込むことは可能かもしれないが……絶命に至らしめるのは困難だろう。
何故なら、エクソサンソンは特定の器官さえ破壊すれば殺せるといった"弱点部位を持たない"し、切断してもミミズのように分裂再生してしまうのだから、矢による刺突攻撃ではあまり有効打にならない。
だからと言って斬撃武器で近接攻撃を仕掛けようとなれば触れただけで麻痺毒に侵してくる触手、猛毒の体液や返り血、空間と五感そのものを制圧してくる臭い息がとにかく厄介極まる。
それでこの規模の群れが相手になれば、鉱山都市に常駐している軍の練度ならば下手をすれば一個中隊を壊滅させかねない脅威となるだろう。
それを始末するとなるとどうしても【精霊魔法】は必要になる。尤も、奴らは口元からダラダラ唾液を垂れ流すくらいには水分の塊でもあるので、実は対処方の候補としてあげられがちな"火属性魔法の通りが悪い"。
、それを黒焦げにできる程の魔法ともなれば……。
「ああ、それかい? このボクが下等生物に捕らわれた"キミのため"に片付けてあげたんだよ。どうだい? 少しくらいはボクに感謝の気持ちを捧げてくれてもいいんじゃないかな? ゾンヲリ君」
ヨムが以前使用して見せた【連鎖する稲妻】か。確かに、あれなら水分の塊であるエクソサンソンを内部から焼き焦がすのだって造作もないだろう。
だが、キミのため、などとよくもまぁいけしゃあしゃあと恩着せがましい台詞を言えるものだ。ああ、まったく、ある種の畏敬の念すらもこの天使には抱きたくなる。
そもそも、逃げてしまえば事足りた。ヨムが油断してエクソサンソンに捕まりさえしなければ戦う意味もなかった相手だったのだから。
「ヨム、お前……以前私に付きまとう代わりに"迷惑はかけない"と言ってなかったか?」
「や~……そこに関しては謝るよ」
一見平謝りをして見せているヨムだが、どこまでが本気かは分かったものではない。ここまでこの天使と付き合って思い知ったことではあるが、ヨムの致命的なまでの慢心癖は筋金入りといってもいい。
たとえ言葉で何度言って聞かせても、たとえ何度失敗して痛みを味わっても、恐らく同じ油断を繰り返し続けるだろう。何故かそんな予感がしてならないのだ。
「次に私達の足を引っ張るような真似をするなら容赦なく見捨てる。そのつもりでいろ」
「そう言って~。ゾンヲリ君、キミなら次もボクを助けてくれるんじゃないのかい? ……や~冗談だよ。睨むなよ」
「でもゾンヲリってば怖い顔して次はないぞって脅すけど、いっつも助けてくれるよね!」
「おい、ブルメア」「あ、ごめん」
ぐっ……。どこかで何かしらの痛い目に遭わなければいつまでも甘えが抜けないというのなら、いっそ本気で見捨ててみせるか……? クソッ、こんな考えが浮かんでる時点でダメだ。
「こうして一切身動きできなくされて、全身を触手でまさぐられながら口の中にもねじ込まれて、ものすごく臭い液を注ぎ込まれるというのも中々興味深い経験ではあったさ。なんせボクにもまだ嫌悪で涙を流せるって感情が残っていたことを思い知れたのだからね。でもね、下等な触手ごときのお嫁さんにされかけてしまうのは、いくらボクでも流石にもう懲りたよ」
ヨムは【精霊魔法】で作り出した水の柱の中に入っては衣服や羽についた汚液を洗い流していく。
そして、水の柱の中から出てきてかと思えば、ニヤニヤと笑みを浮かべながらわざわざ私の正面に回り込んでくる。水に濡れた天使装束からほんのり透けて見える下着を見せつけるようにしながら。
(クソッ……痴女天使め。ここぞとばかりにだらしない身体を私に見せびらかしやがって……嫌味か? あ? ほんとっクッソ腹立つな……)
ネクリア様の心の声が嫉妬に塗れていた。
「……」
「おや、ゾンヲリ君にはちょっと刺激が強かったかな?」
実のところ、私の中でのヨムのコレの扱いがネクリア様の突然の発作と同じになりつつあるとでも言うべきか。
ある種の"慣れ"なのか、ここまで露骨にやられると逆に興奮しなくなってくるものだ。例えるなら、雌のゴリラは常に裸だが、裸の雌ゴリラ相手に性的興奮を覚えるかと言えば否だろう。
あくまで裸であることに恥じらいがあって隠そうとする意思があるからこそ、ちらりと見える下着に興奮を覚えるのであって、最初から見せるつもりで脱いでて恥じらいの欠片もなければ逆に性的興奮を感じなくなるのだ。
「思わず絶句していただけだ。それと、それ以上近寄るな。臭いぞ」
主に背中の羽のあたりからそこはかとなく漂うエクソサンソンの悪臭。雑に水洗いしても衣服に染み付いた血は簡単に洗い流せないように、羽に染み付いた臭いや汚液は水をぶっかけた程度じゃ流せない。
それに、背中の羽は人体の構造上一人では中々手入れのできない部位だ。
「……ボクにもまだ、流せる涙があるんだね」
「それはもう聞いたぞ」
「ゾンヲリ! そ~いうのは"思ってても"言っちゃダメだよ。ヨムも女の子なんだよ……?」
「ふぐぅ!」
「ブルメア……それは正論だが。貴女がそれを言ってトドメを刺してどうする」
ブルメアが未だにヨムから"一定の間合い"をとってる時点で分かりきってる話だが、それでも実際に言葉に出されてしまうことで受ける痛みもあるのだろうな……。
「ボクは臭くない……ボクは臭くナイヨ……」
しかし、少しだが、以前よりもヨムの表情が豊かになったように見える。初めて会った時はあまりにも能面そのもので感情や考えが全く読めなかったが、今は表情筋が死んでる程度には表情が動いているのが分かる。
天使も人並みには泣いたり笑ったりするのだろうな。とすれば、少し悪いこと言ってしまったか。……いや、駄目だ。コレに気を許してはいけない。
立場上私達と天使は水と油のようなものなのだから。
(ふん、情けない奴だな。臭い液塗れなんて私なら十数年前には通った道だぞっ。エクソサンソンの唾液は錬金術にもよく使うからなっ)
などと、しょんぼりと落ち込んでいるヨムを見て勝ち誇ったように不幸自慢をし始めるネクリア様。流石は魔族国内では年中腐った死体に囲まれた生活をしてきたのもあって"1週間死んだまま放置されたオルゴーモンの臭い"がする、などと言われてきた過去があるだけに。
実にいたたまれない。
そして、ネクリア様は、たゆまぬ努力でその臭いを相殺する香水を錬金術で作り続けてきたことを私は知っている。それを作った本人には還元されなかったが、一般淫魔達が使っている香水の多くはネクリア様が作ったものだとか……。
そして、口では強がっているが、臭いと言われるとやっぱりネクリア様もへこむのだ。私だって臭いで避けられたらへこむ。そう考えれば、臭いと直球でヨムに言ったのは流石にあんまりだったな……。
「臭いと言ってしまった事について謝罪する。すまなかった。ヨム」
「……そうやって距離をとりながら謝罪されてもね、誠実さをまるで感じないよ。ゾンヲリ君」
謝罪した手前引き下がるわけにもいくまい。近づいて手を差し伸べるとヨムは両手で握手してくるわけだが……。
「……」
……猛烈に臭い、臭いが、生の臭い息の余波や粘菌溜りと化したエクソサンソンの唾液の臭いを間近で嗅いだ時と比べれば遥かにフローラルだ。むしろ程よくイイ感じの臭さがするといってもいい、が。
思わずしかめっ面になりそうなので可能な限り息は止めておくことにした。
「うんうん、ボクはキミのそういう気遣いしてくれるところが好きだよ」
ヨムがしたり顔でニヤニヤしているところが微妙に腹立たしい。しかも、いつまでもがっしり握手したまま離さないのは何なんだ。
ああ、わかってやっているんだな。
「なぁ、そろそろ手を離してくれないか?」
秒数にしておよそ180秒程黙って息を止め続けて時間を無駄にした後の話だ。
「や~どうして手を離さなきゃいけないんだい? ボクとしてはキミとの貴重な肌と肌同士の触れ合いの時間をもっと大切にしたいと思っているところなんだけどね?」
「グッ……あまりつけあがるな」
手を振り払って茶番を打ち切ろうとするが。
「や~も~つれないねぇ」
そう言いながら背後霊のようにピッタリと背中についてくる。
「ところでヨム、お前は確か臭いも姿も完全に消せたはずだよな?」
「うん、消せるよ~? でもどうしてそんなことを聞くんだい」
「なら今すぐに消えてもらえないか?」
「急にひどいこと言うね!」
「お前の臭いを私が我慢する分にはどうでもいい話だ。だが、はっきり言ってこのまま臭いのするお前を連れてエルフの集落に向かったら戦争になりかねん。そうでなくとも何かしら厄介な存在を呼び寄せるだろう。それを許すわけにはいかない」
これは個人の気遣いどうこうの問題ではない。こんな悪臭を漂わせた状態のままエルフに会ってみろ。間違いなく外交問題になる。
「まぁ正論だね。ボクもキミの邪魔をしたいわけじゃないし、キミに嫌われたいわけでもないからその頼みは聞いてあげるよ。と言っても厳密には亜空間転移してるだけなんだよね。これはキミ達が認知しそこに立って存在しているであろう位相空間とは"別の位相空間"にボクという存在を転移させてるだけで、"臭いや姿そのものを消しているわけではない"んだよね。ゾンヲリ君、このへんの話についてこれてるかい?」
「無理だな。小難しいことを私に説明しても無意味だ。何が出来て何が出来ないのかの要点だけを伝えてくれ」
位相空間がどうとか、亜空間がどうとか説明されても全くわからん。
「理屈を抜きにしてこの力にも色々と制約があってね。あまり長時間消えたままではいられないのさ。何故ならボクが亜空間転移した先には魔素エネルギーが"一切存在しない"からね。その場所に立つだけで非常に消耗してしまうし、一度魔力を切らして再転移できなくなったら"補給する手段もない"から永久に誰も居ない亜空間に閉じ込められてしまうわけなんだよね。だからボクがずっと姿を隠していられるのは"万全の状態で長くても一刻が限度"だから、常に、というのは難しいんだ」
「それを私に言って良かったのか?」
ヨムは天使の権能とその力の限界を赤裸々に話してしまった。
「構わないさ。こう言えばゾンヲリ君、キミはボクに消えろだなんて無体な事言わないだろう?」
「……はぁ、そうだな。しかし、別の位相とやらに転移しているのに私と会話できるのはどういう理屈なんだ?」
「それかい? 実は波の性質を持つ"音と光"は亜空間上にも届くんだよね。何もない亜空間の中からでも世界を映し出している光の像は観測できるし、周囲に"空気を生成"し続けていれば多少音を聞くこともできるんだよね。と言ってもこのあたりの理屈はゾンヲリ君にはわからないかな?」
「いや、少しだけは分かった。だから気づけたのか」
一切の光の無い本当の闇の中では夜目があったとしても"何も見えない"。あくまで夜目は常人には見えないくらいか細い光を何百何千倍に増幅して何とか見ているだけに過ぎないものだ。
だから、"光も魔素も何もない"亜空間の中からこちらを一方的に視認し観測するというのは不可能だ。観測できているというのは、すなわち"光が通ってる"ことを意味する。
そして、視線とは即ち瞳に反射した"光の線"だ。ならば、夜目のように微弱な光すらも認識できる感覚の持ち主ならば、亜空間から見られていても、見られていることは認識できる。
ただ、こちら側からでは"現実の光の像"が重なってしまい、亜空間にいるヨムが光の強度の違いで見えなくなるというわけか。ならば、【イルミスト】のような視覚の認識阻害魔術と原理は大して変わらない。魔力を通じて実体を検知できないのは厄介だが、光を乱反射して視線をごまかしているわけではない分【フェーズシフト】の方が素直で見破りやすいと言えるだろう。
……尤も、その辺りまでごまかして使われたら厄介極まりないが。
「しかし……だとすればなんでナイフを避けたんだ? 亜空間内には物理的攻撃は届かないんだろう?」
「や~だって、ゾンヲリ君ってば真っ先にボク目掛けて投げてくるんだよ? 眼前にナイフが迫ってくるように見えるし、ふつ~に驚くじゃないか」
……やはり、この天使は若干ポンコツじゃないか。
臭いデバフのせいでエルフとの外交問題に発展するらしい。
やっぱり臭いって言われたら皆へこむのさ……ごま塩程度に覚えておいて欲しいのさ
腐った死体に面していても顔に出さないイルミナさんくらいの気遣いはいるよね……ってお話




