第四話:森から漂う血の臭い
エルフの森を目指して獣人国ビースキンを発ってからおよそ一日が過ぎた。森に入るのに馬車を用意するわけにもいかない。
最低限の武器と携帯食料以外はほぼ手ぶらの状態で魔獣を狩っては食糧にし、食っては全速力で夜通しで走る、食っては全速力で走るという行き当たりばったりな旅になってしまったものの、特に何事もなく順調そのものだった。
その在りようを天使ヨムからは言わせると「生き急がなくても」などと嫌味が飛んでくる有様だが、まぁ気にすることでもない。
「お~い、ブルメア遅れてるぞ~」
「ぜぇ……ぜぇ……うぅ~ネクリアは走ってないからって~ずるいよ~」
ブルメアは息も絶え絶えで、今にも倒れそうなくらいよろよろと走っている。
普段のブルメアなら丸一日夜も含めて走り続けた所で疲れたりはしないだろうが、今回はコバルトクレイモアなどというブルメアに不釣り合いな武器を所持した状態で走り続けている。
単純な重量だけなら今のブルメアにとっては大した問題ではないが、大剣という重量のある武器を所持した状態で走ることで重心がぐらぐらと揺れてしまい、バランスをとるためにも無意識に体力や力を多く使ってしまうようになる。
「私はこのデカイ剣を持ってるんからな! 言い訳するなよな~」
もっとも、そのデカイ剣とネクリア様の重量を支えてるのは主に私ではあるのだが。流石にこれに加えてダインソラウスくらい重いブルメアまで背中に乗せて走るとなると夜狼の背骨がボキっと潰れて肉ごとミンチになってしまうだろう。
「や~……ボクも疲れてきたから休憩にしないかい? ずっと飛び続けるのも案外疲れるんだよ~?」
天使も一日飛び続ければ疲労するわけか。これは対天使において有益な情報かもしれないな。つまり、いざとなった時には――。
「なんてね、三日間くらい走り続けたらボクから振り切れる……なんて思ってそうな顔してないかい? ゾンヲリ君。言っておくけどそれは徒労というものだよ。ボクはキミの場所ならどこにいても"大体分かる"からね。転移で一瞬さ。言った証拠に試してあげようかい?」
なんだこの理不尽は。
天使は私の位置を"何らかの方法"で知る手段があるのか? ただのブラフならば実際に試せばいいだけだが、あえて私の思考を先読みして潰してくるくらいなのだから勿論ブラフではなく実際にやれるのだろう。
恐らく風精フリュネルのように、私との何らかの"繋がり"を探知する術があるのだろうな。それをどうにかしない限り、ヨムや天使の目に一度捕捉されてしまっては逃れる事は出来ないとみるべきか。
「……バウッ」
「こわっ、ストーカーじみてないか」
もっとも、ヨムの言う事をあえて否定しなくてはならない程急いでるわけでもないし、今すぐ対天使問題を解決しなくてはいけないわけでもない。一先ず留意だけはしておくか。
「ウォウ、ウウッ……(ネクリア様、遠くに大森林が見えますし、近場に水場もあるようです。本格的に森に侵入するのは早朝の方が望ましいですし、今夜はこの辺りで野宿しましょう)」
得体の知れない迷いの森で野宿するのはなるべく避けたい。ブルメアにも強行軍の疲労が溜まっている。
撤退するにしても、エルフの集落を探すにしてもなるべく一日に使える時間は多い方が望ましいし、魔獣が活発に活動する夜の時間はなるべく避けたい。
安全が確保できるのも恐らく今のタイミングが最後になる。故のキャンプだ。
「しっかし、見渡す限り森しかないな~」
高所から遠くから見ても分かる。地平線の果てまで森、森、森だ。見える範囲だけでも一日で踏破はまず無理だろう。しかも、樹海の奥深くにまでなると木の一本一本の樹齢は千年はあろうかというくらいに太くて高いのだ。
ここまでの大自然となると圧巻だな。エルフが未だ独立を保ててるのもこの天然の森の迷宮のおかげ、というわけだ。
もっとも、それを抜きにしても休憩しなくてはならない理由もあるわけだが。
「ウォゥ……(魔霧が見えますね。しかもかなり濃いようです)」
獣人達の報告通り、エルフの森は魔霧に包まれていた。
「うむ、木の上まで広がってるな。あれじゃ日の光も入らんだろうな」
つまり、樹海の中は実質"夜"と変わらないくらい森の中は暗いことが予想できる。夜目が利いても視覚はあまり頼りにならないだろう。
それでも、気休め程度には光があった方がいい。
「や~あの規模の魔霧は中々見れないねぇ。これはもしかするかもしれないねぇ~」
「うぅ……教会とかで感じた嫌~な感じする~。またオバケとか出てこないよね……?」
ブルメアは不安そうに自分の身体を抱きかかえていた。オバケや死体そのものである私については何も言う事はないのだろうか、というのは思うだけ野暮なのだろうな。
「まっ、そんな事より水浴びだ水浴び。さっさと水場に行くぞ~」
「う~、ずっと走ってたから汗でベタベタ~」
「バゥ(では私は周辺を見回っておきます)」
「何言ってるんだゾンヲリ~ 近くにいないと私の護衛にならないだろ~」
ネクリア様はニヤニヤと小悪魔じみた笑みを浮かべてからかってくる。
「ウゥ……バゥウゥッ(ネクリア様、こんなこともあろうかと、徒手空拳でもその辺の魔獣程度なら容易く殺せるくらいにはブルメアを鍛えておきました。それに、今の状態では彼女は私たちの中ではもれなく最強の護衛です。なので安心してください)」
「あれが……? 護衛……? 最強……? えぇ……?」
ネクリア様はぽけ~っとしているブルメアを指差して信じられないといった顔をしている。確かに歴戦の戦士めいた佇まいとは程遠いだけに、ネクリア様がそう思いたくなる気持ちは分かる。
だが、それでも、少なくとも夜狼状態の私よりは素手でも強い。つまり、この中では最強の戦闘能力を持った護衛なのだ。
「バウ(はい)」
「どうしたの~? 二人とも~」
「なぁ、やっぱりさぁ、私の中にお前を入れて水浴びした方がよくないか?」
「バゥ……ウゥ……(ネクリア様……ネクリア様は裸を見られるのはどうでもよくても、他の者達はえっちなことはいけないと思いますので、ぷらいばしーでしたか、を尊重するべきかと)」
「なんでお前がそれを言うんだよ! おかしいだろ! まぁでも、お前の言う事も一理あるな。サキュバスの私はともかく、他の女共はすっぽんぽんだと色々煩そうだしなっ」
「や~別にボクはゾンヲリ君に裸を見せてあげても構わないけれどね? むしろ見せてあげたいくらいだね! でも、キミはそんな貧相な身体を見せてどうしたいんだい?」
ヨムが唐突に話に割って入ってくる。
「アアッ!? なんだぁこの痴女天使! というかお前なぁ! 天使のくせに恥じらいはないのかよ恥じらいは!」
「それを低俗な品性しか持たないキミが言うのかい? ネクリアちゃん」
……ああ、胃の辺りに出来た矢傷がキリキリと痛みだしてくる。いや、元々痛いのだが、精神的な意味でだ。仲間同士の不和というのはどうも見ていてキツイ。そして、何を言ってもどうしようもないという無力感に苛まれるのだ。
「私は……嫌じゃないよ……? もうゾンヲリには何度も裸もおしっこも見られてるし」
「ハァッ!?」
……ブルメアとは身体を共有していた事がある以上、共有中にそういう場面は何度か遭遇してきたわけでもあるのだが。
例えば巨大ゴキブリの子どもに群がられて失禁した話だとか、身体にべっとりついたゴキブリ汁を洗い流すために水浴びをした話だとか。
一々気にしていてはキリなどないのだろう。しかしだなぁ……。いや、何もいうまい。人間性とはそうやってかなぐり捨てるものなのだ。捨てさせた私が思うのも色々な意味でアレだが、そう思うことにした。
「なんだこのメンツ、ドスケベ痴女天使やエロフしかいないのか!? 貞操観念どうなってるんだよっ! 貞操観念は!」
年中えっちと下の事ばかり言ってる淫魔のネクリア様にそれを言われたらおしまいではないのだろうか。と思うのは野暮なのだろうな、きっと。
あ~もう、どうにでもなってしまえ~。
小休憩する度にコレをやられてはたまらん。私は知らない。見ない。聞かない。それで全てが丸く治まるのだ。
「バゥ……ウゥゥ……ウォウ!(あ~……ネクリア様、では食糧調達ついでに見回りに行ってきます。ではお三方で水浴びの方を)」
「あ、おい! ゾンヲリ! 痴女天使は、もういねぇしっ!」
どうも最近、逃げてばかりな気がするな。何はともあれ、ネクリア様の護衛はブルメアに任せて先行偵察だけはしておきたいのは本音だ。
で、何故か近くにヨムが居るわけだが。
「……」
「や~天使であるボクは別にどんな時でも常に清潔だからね。水浴びなんてボクにとっては裸を見せるという行為にしかならないし、彼女達にボクの裸を見せた所で浅ましい嫉妬の感情くらいしかもらえそうもないからね。それに、ボクは彼女達の事は別にどうとも思ってないんだ、例えるなら路傍の石コロを眺めるのと同じさ。と、キミの抱いているであろう疑問に対する答えを言ってみたよ。なんてね」
「ウォウ」
そう思うなら、路傍の石コロを見つめるような気持ちで黙っているか。波風を立てないように発言には気をつけてもらいたいものだがな。
「や~でもね、その方が可愛いと思わないかい? と、今の状態のゾンヲリ君とは会話が楽しめないのは不便だね」
「ウゥ……」
最近、一人で居られる時間が夜を含めて全くなくなった気がする。主に天使に四六時中監視されているせいもあるのだが。気を落ち着かせて居られる時間が全く無い。
無論、それを理由に弱音など吐くつもりはないが、やはり監視観察され続けるというのは良い気分ではないな。これは職業病のようなモノでもあるのだが、あまり人には見せたくはない面もあるし、常在戦場の心得があるとはいえ、気を抜ける場面では抜くことも大切だ。
常に戦闘状態と同じ精神状態というは疲労の溜まり方が違うのだから。だからといって何もしなければ"死の苦痛"を忘れる事も出来ない。この身体で居る間、"安らぎ"が訪れることはないのだから。
だからこそ、ネクリア様は"適当な理由"をつけて私に身体を貸し、生の安らぎを与えようとするのだ。だが、分かる。それに慣れてしまい、溺れてしまうと私はダメになる。死に耐えられなくなってしまうだろう。
「……」
それから暫くの間、ヨムは何も言わなかった。ただ、傍にいるだけだ。ふと、ヨムの方を振り返ると、それまで外していた視線をこちらに向けてきた。
「や~どうもキミは見られる事が嫌いなみたいだからね。ネクリアちゃんに見習ってボクなりにキミに配慮してあげたつもりだよ? どうだい? ちょっといじらしいと思わないかい?」
一瞬目を合わせた途端これなので思わずため息が出そうになった。それを口にしたらおしまいだろうに、と言うのは野暮なのだろう。第一、配慮するつもりがあるなら"離れてくれ"と言いたい所だ。
もっとも、聞くつもりもない相手には何を言っても無駄でしかないのだから。何故を問うつもりもない。だが、何故だろうか、多少居心地の良さを感じてしまっているのだ。私は。
それがこの天使の狙いだというのなら、大した策士だ。私から拒絶の意思を奪うために、土足で人の弱みを踏みにじって甘い蜜を垂らしていくのだから。
実際、いじらしいし、可愛げもある。甘えさせようとするし、何よりも淫魔やエルフに引けをとらない絶世の美女だ。こんな女が居たら飛びつかない男などまずいないだろう。
だからこそ、信用ならない。
そうやって信用を得て、最悪の形で裏切るのがハニートラップの常套手段だからだ。まぁ、そのくらいの気構えでヨムと接するくらいで丁度いい。だからこそ、余計に疲れるのだが。
「ゾンヲリ君、キミはいつも怯えてばかりだね。吸血鬼のように光を怖がって闇ばかりを見つめている。そうしていた方が気が楽かい? でも、お勧めはしないよ~?」
「ウゥ……」
そして、時折こうして確信を突いて痛い所を抉って来るのも、私がヨムを苦手としている理由だろう。
しかし実際、ヨムの言う通り。反論の余地などなかった。だからこそ……。
「ボクの言葉が痛いのかい? ゾンヲリ君。でもこれはキミの為に言ってあげてる事だからね」
自覚している欠点を他人から指摘されるというのは、あまりいい気分がしないものだ。それを分かった上でわざわざやるのが、このヨムという天使なのだから。
実にイイ性格をしている。
「まぁ、ボクはキミのどんな選択も尊重するよ。ボクの言葉を聞くも聞かないもね。ボクはただ、キミの傍で結末を見届けてあげるだけだからね」
本当に、嫌気がさしてくる程面倒臭い存在に憑りつかれたものだ。それと、頭をよしよしと撫でるのは止めてくれ。
「ウォウ!」
と、今は言葉を発する事が出来ないのがまた困ったものだ。傲慢な天使なら天使らしく見下ろすなら見下ろすで、不干渉を貫いていればいいものを……。
「あ、それよりゾンヲリ君、気付いているかい? 森の中は凄い事になってるね」
そんなものは言われなくても分かっている。夜狼の嗅覚ならば視界の果ての先から漂う"血の臭い"が分かるのだから。
視界は見える範囲しか分からない。アンデッド特有の生命感知はぼやけているし範囲が狭く木々などの多数の魔素を含んだ障害物にぴったりと張り付かれていては分かりにくい。殺気による感知はそれまで殺気を放っていないモノに対して接近を許しやすく、視線による感知ではやはり障害物で視線そのものが遮られていては不意の接近を許すだろう。聴覚はムシケラの鳴き声が煩い森では細かい音を拾い損ねることもある。
だが、嗅覚ならば見えない範囲も分かるし、迷いの森の中でもある程度は危険や生き物の気配や方向を大雑把に察知できる。だからこそ、多少の戦闘力を犠牲にしてでも索敵面に優れる夜狼の姿を選んだのだから。
本命は"迷いの森"の中から嗅覚でエルフを探すためだったのだが、どうも空気自体がかなり淀んでいる。木々の腐ったような臭いがあまりにも酷すぎてここからだと分かりにくいな。
森自体が中から腐ってるとでも言うべきだろうか。しかし……一番気になるのは、血の臭いから獣の臭いが遠ざかろうとしている事だろう。それも"大規模"でだ。
魔獣は血の臭いに対して特に敏感だ。
血の臭いを発するというのは即ち、傷ついて弱っているか、死んでるに等しい状態にある。当然、糧を得ようとするなら血の臭いに近づくことこそが近道だ。
だが、その自然の大原則を無視した動きを魔獣達がしている。つまり、危険を察知して血の臭いから逃げる程の何かが起こっているのだ。
こういった場合、大抵は"おたずね者"が暴れている。
「ウゥ……」
今回も、不測の事態と面倒事を避けるのは難しそうだな。
最近、普段は下ネタボケ担当のネクリアさん十三歳がツッコミ役に回ってばかりになってるのはどういうことなの……? と思う今日のこの頃である。
ブルメアさんが素手で夜狼の頭蓋骨を握りつぶせるようになったおかげでゾンヲリさんが偵察役をやっても良くなった。地味に脳筋なのは大荷物を背負って丸一日ずっと走りっぱなしであること。
コバルトクレイモア及びその他武具の重量がおよそ8キロくらいというのは簡単に言うけれど……2リットルの水入りペットボトル程度の重さでもマラソンの辛さは全然違うからね……仕方ないね。