第六十三話:迷わない子羊
淫魔少女ネクリアが藁布団の中にくるまっている中、シスターは膝を折り、一心不乱に十字架を握って祈り続けていた。
「やぁ、こんばんは」
その言葉が何処からともなく虚空から響くと、突如シスターアンジェの眼前がほんの一瞬だけ光った。そして、光が失われるとそこに居たのは天使だった。
何故かへそと下着と太ももが丸出しのままの恰好だったのもあってか、シスターアンジェは少しばかり困惑しながらも、最大限の敬意を込めた礼拝の姿勢をとってみせる。
「あ……あぁ……。もしかして……天使……様……なのでしょうか?」
シスターアンジェは嗚咽を交え、感極まったように天使に問いかけていた。
「うん、そうだね。ボクは天使さ。そういうキミはシスターアンジェであってるかい?」
「はい、シスターアンジェです。あ、ああっ、天使様をお迎えする準備もできておらぬ不心得者で申し訳ございません! どうか御許し下さい」
「ああ、別に気にしなくていいし気楽にしてくれて構わないよ。事前に通達もせずにいきなり現れたボクが悪いんだしね」
「慈悲を……感謝致します。天使様……」
「うんうん、これだよね……この反応こそが普通だよねぇ。やっぱりボクがおかしかったわけじゃなかったんだよねぇ」
天使は少し前の事を思い浮かべた後、シスターアンジェを見ると納得して頷いたような素振りをする。
「どうか、なさいましたか? 天使様」
「や~……ちょっと前に出会った人達と会話してあまりの認識の違いにショックを受けていたところでさ、というのはさておいて、時間も押してるから本題に入ろうか」
「本題、ですか?」
「単刀直入に言ってあげるとね。司祭は"彼"に裁かれて死んだよ。あ、ちなみに天にも召されていないよ。司祭は"神イリス"への信仰を裏切った"異端者"だったからね」
「そう……なのですね」
シスターアンジェは静かに目を伏せた。どこか諦めたように、それでいてどこか納得したように。それからしばらく時間が経った。
天使はシスターアンジェを見下ろしながら無表情に微笑みかけている。
「私を、裁かないのですか?」
シスターアンジェは天使を見上げて言った。
「や~……キミはとっくに裁かれているというのに、どうして"また"裁かれると思ったんだい? キミは"彼"に対し何か後ろめたいと思う事でもしたのかな? 良ければボクが聞いてあげようじゃないか」
「……私の信仰は、正しいのでしょうか? 間違っているのでしょうか? 分からないのです。でも、薄々と分かるのです。天使様が私の前に降り立ったことに意味があるとすれば……それは……と思って……」
「なるほど、では、言ってあげようか。シスターアンジェ、キミの信仰は何も間違ってはいないよ。だからキミの信仰と祈りは、全てキミの信じる神の為に正しく捧げられている。ボクがキミを辿れたのも、キミの敬虔な"祈り"があってこそだからね」
既にイリスとの関係が切れているにも関わらず天使がシスターアンジェの居場所を知る事が出来た理由。それは、祈りを通じて"彼"に流れ込んでいる力を辿ったからである。
天使は、わざと語らなかった。誰に対して向けられた信仰なのかを。自分は誰の天使なのかを。ただ、"祈りが届いた"という事実のみを告げたのだ。
「あの御方は……本当に神様……だったのですね」
「その認識でも"間違いではない"よ。"彼"は神の持つべき"資格"を一応持ち合わせているからね。これでキミの抱いている僅かな疑問は取り除かれたかい?」
天使はわざと曖昧な答えを返した。"神様"の名を語らず、神の持つ資格の中身も語らず。厳密な定義をあえて"言及しない"という方法で、シスターアンジェを納得させた。
「はい、ありがとうございます。天使様……!」
もはや、シスターアンジェは神を微塵も疑えなくなっていた。抗えなくなっていた。正しき信仰を捧げている。神が常に見てくれている。肯定してくれている。そして、天使の降臨という"奇跡"を目の当たりにした。
これらが全て、正しき神への信仰への確信に至らしめたのだ。敬虔な聖職者にとって、これ以上にない幸福と名誉を得てしまった。
「うんうん、存分に感謝してくれたまえ。そして、これからも正しく子羊であり続けたまえよ。シスターアンジェ」
「はいっ……! あ、あの……」
「どうかしたかい?」
「その……天使様は、どうして下着姿……なのですか?」
天使の上半身は装束を着ているのに、何故か下半身が下着丸出しという奇妙な恰好のままだった。
「ああ、これかい? 彼から"どうしても"ってせがまれちゃってね~。まぁ、ボクも別に嫌じゃなかったからね。うん」
「よ……よろしいのですか? その……姦淫は……その……淫らなことはいけないことだと……」
「や~"彼"なら別にそんな小さな事を一々気にしないと思うよ? ま~、どうしてもイリスの教義に従いたいのならほら、司祭みたいに上手くやるか、夫婦の契りでも交わしちゃえばいいだけだしね? 一夫多妻制も多夫一妻制も別に禁じられていないわけだし、世間体と感情的な問題さえ抜きにすれば、今のキミにとっては些事でしかないと思うよ」
「は、はわわ……そう……だったのですね……」
「そうそう、シスターアンジェは細かいことで一々気に病んでも仕方ないよ? これからはもっと自分が信じる通りに楽しく自由にやればいいさ。例え、ちょっとくらいハメを外しても"彼"なら許してくれるさ」
シスターアンジェと神イリスとの繋がりは既に完全に切れた事で奇跡を利用する権利は失ってしまっている。イリスの教義を徹底的に守らなくてはいけない理由も既に無い。
信仰と教義を守り続けるのも、守らないのも、自由である。そして、どちらを選んだとしてもシスターアンジェは彼によって許されている。彼がそう宣言したのだから。
「おい、お前! シスターになんてことを教えてるんだ! ……あっ」
突如淫魔少女ネクリアがガバっと起き上がった。
「あ、ようやく御寝坊さんもお目覚めかい? 随分ぐっすりしていたね」
そして、目の前に浮いてる存在を見て、目をパチパチと開けたり閉じたりした後、自分の頬をつねっていた。
「ぎょ、ぎょええええええ! 天使ぃいいいいいい!?」
淫魔少女は慌てて藁布団から転げ落ちるようにしてテントから逃げ出そうとする。そして、死霊秘術書の写本を開いてわちゃわちゃとページをめくり出す。
「わわわわ、我招く、深淵より災禍の――」
「や~……少し落ち着きなよ。【サイレンスホールド】」
「ん~~~~!ん~~~~~~! ん!!!!!!!!」
「あれ? 効いちゃった。妙だね」
淫魔少女の足がピタっと止まった。口をもごもごと動かしても声が出ず、涙混じりに頭を左右にブンブンと振っている。【サイレンスホールド】は対象の身動きを"停止状態"にし、言の葉をも縛って"沈黙状態"に縛り上げる奇跡。
「一応確認するけど、多分キミがゾンヲリ君のご主人様で合ってるよね? もしそうだったら頭を縦に振ってくれると嬉しいな。もしも全くの無関係の悪魔だったらごめんよ? その場合、ボクは天使のお仕事という名目でキミをこれで滅することにするから」
天使は青白く燃え上がる【聖絶の光槍】をその場に出現させてみせる。
「ん~~~~~!~~~~~~!」
淫魔少女は必死にブンブンと頭を縦に振ると、【聖絶の光槍】は白い羽と化して霧散していった。
「や~別にボクはキミをとって食うつもりはないよ。ゾンヲリ君も一応……無事……かな? どうせキミにこの場で一から説明しても拗れるだけだから手短に要件だけ伝えておくよ~? 教会で彼が待ってるから、シスターと一緒に今からなるはやで来てね。じゃ、また後でね~」
そう言い残すとパンツ丸出し天使はその場に一枚の白い羽を残して消えていった。その様子を見ていたシスターアンジェはぽかーんと呆けている。
「なぁ、シスター、結局何だったんだ……? あの痴女」
しばらくして【サイレンスホールド】が切れた後に、淫魔少女はそう呟くようにしてシスターに聞いたのだ。
「天使様ですよ」
「いや、それは言わんでも分かるわ!」
「"あの御方"に仕えておられるのですよ。きっと」
「あ~……ま~~~た女を増やしたのか……アイツ。なんでこう、どいつもこいつも……しかもよりにもよって天使だと……? どうなってるんだ……?」
淫魔少女はあ~でもないこ~でもないとブツクサ言いながらもシスターと共に教会に出発する準備を始めたのであった。
某宗教の四文字の絶対神はそのあまりの神聖ゆえに"名前を言ってはならない"。とされているが、あまりにも信者達が名前を言わなかったばかりに名前を完全に忘れられたらしいな? ふりかけ程度に覚えておいて欲しいのさ……。
なお、サクーシャの持説では、神の名を呼ばせず、形ある偶像を崇拝させずに信仰させた理由は、神という存在を不定形にして包み隠し、偶像崇拝が基本の土着宗教の信仰を背乗りしようと考えた(こういう形で信仰するならジェノサイドしないよ? と脅しかける)のではないかと思っていたりするらしい。
例の宗教自体、色んな土着宗教の神話をごった煮にしているしね……。
そんな感じでゾンヲリさんがイリスからアンジェさんの"信仰"を乗っ取ったらしい。