第二十六話:アンジェの過去③ ―聖行―
三度の祈りの後に、司祭様の膝の上で、司祭様の腕に抱かれながらイリスの聖典の読み方を学ぶ。そんな日々も半年も過ぎ去れば違和感を覚えなくなりつつあった。
「天にまします我らが神イリスよ。願わくば御名を崇めさせ給え。その御心の赴くままに我らに福音を授け給え。我らが罪犯した者を赦すが如く、我らを赦し給え。我らを試みにあわせることなく、悪より我らを救い給え。我らの誉れと栄えとは、限りなく主のものばかりなり」
礼拝の時間に何度も何度も繰り返してきた神への讃美と祈りの言葉。最初は形だけで、ただ口で文章を読み上げているだけだった。だけど、何度も何度も繰り返しているうちに、そのうち心が「本当なのかな?」って思い始めるようになってくるんだ。
だから……。
「アンジェ、これも"愛"なのですよ」
こうして私に触れる事を"愛"と説く司祭様の言葉も、何度も何度も聞いていると「本当なのかな?」って思い始めるようになってくるんだ。 でも、司祭様の行動と聖典に記されている規範に違いがあるような気がした。だから、思い切ってこう尋ねてみた。
「はい……司祭様。ですが、その……聖典の教えには姦淫するなかれ……と」
「アンジェ、我らの主は"汝の隣人を愛せよ"と申しております。父が子にするように、私がアンジェを抱き愛でる事は姦淫の罪には当たりません」
「そう、なのでしょうか……?」
「姦淫とは、夫婦や愛する者同士でみさおを守らないこと、女性器に対し男性器を挿入し性交に耽る事を意味します。つまり、ただこうして肌同士で触れ合うだけで罪だと言うならば、人は皆地獄に堕ちてしまいます。神はそれ程厳しく狭量ではあられませんよ。アンジェ」
司祭様の手がまた伸びてくる。
「あっ……、はい。わ、分かりました」
時折、夜に司祭様の自室から苦しそうに喘ぐ女性の声が聞こえてくる事があって、一度だけこっそりと中を覗いたことがあったのですが……。そこで行われていた行為も"愛"だったのでしょうか。
確かに、司祭様の言っていた姦淫は行われていません。ですが、私にはそれがより冒涜的で恐ろしい行為のように思えてならなかったのです。
「ふむ……ではそうですね。アンジェも聖典を読み解けるようになってきた頃ですし、一度主に会い、直接言葉を交わしてみませんか? もしかすれば、奇跡も授けてもらえるかもしれません」
「えっ……イリス様に会う事ができるのですか?」
「ええ、ですがイリス様に会うには多少厳しい聖行を乗り越えなくてはなりません。無論、アンジェであれば大丈夫だと信じていますよ」
「司祭様、どうか私にやらせてください」
神様と直接話す事が出来るなら、何が間違いで、何が正しいのかも教えてもらえるかもしれない。ちょっとやそっとの苦しい事なら我慢すれば大丈夫。
そんな軽い気持ちで、私は聖行に志願することにしたんだ。
「分かりました。では、明日の三度目の祈りを終えた頃に私の部屋を訪ねなさい。聖行室へと案内します」
そして、当日の夜。
教会に秘密の地下があったことを始めて知った。じめじめしてて、カンテラの明かりがなければ踏み外してしまいそうになるくらい暗い階段廊下を下った先にあったのは、牢獄のように狭い部屋だった。
部屋の中央には机が一つだけ置かれていて、椅子には拘束具のようなものが付いていた。室内に光が差し込むような隙間はなく、光源は持ち込んだカンテラを除けばロウソク立てが一つあるだけ。
「し……司祭様……これは……」
思わず奴隷商人の馬車を想起してしまい後ろに後ずさると、背中に手を添えられる。見上げると相変わらず司祭様はいつも通り優しそうに微笑みかけてくれた。だけど、逆にそれが恐ろしくて……引きつっていた表情を隠すことができなかった。
「アンジェ、始めに創世記の復習をしましょうか」
「……ぇ?」
「神はこの世界をどのようにして作られましたか?」
「はい……1日目に虚空であった世界に大空と大地を、2日目には大いなる生命の泉を、3日目に地上を照らす太陽と星々の明かりを、4日目に植物と家畜と獣を、5日目に私達人間を作られ、6日目にはお休みになられてます」
「ええ、その通りです。ですのでアンジェも神の偉業に触れるために、聖行室の中で5日間かけてこの6冊の聖典を読み解いてもらいます」
そう言うと司祭様は、合計6冊の聖典を机の上に置いたのでした。四十二ある聖典の一冊である創世記を読み切るには丸一日かかります。それと同じくらいの厚さの書物が合計六冊。
一瞬、眩暈がした。
「無論ですが、神の安息日である6日目まで眠ることを禁じます。よろしいですね? アンジェ」
司祭様に背中を押されるままに、私は部屋の中央へと足を進めさせられてしまう。
「し、司祭様……もし、私が読み切ることができなかったら……」
「その場合は6冊の聖典を追加し、次の週の安息日までに休まず読んでもらいます。大丈夫ですよアンジェ。私は貴女ならこの試練を乗り越える事が出来ると信じておりますから」
そういうと、司祭様は私の服を脱がそうとしてきます
「え、え、え? 司祭様? 何を……」
「創世記では、神は自身を模した原初の人間の姿をどのように創造しましたか?」
「裸……です」
「そうです! ですから、アンジェも神に触れるために生まれたままの姿で聖行に臨んでもらわなくてはなりません」
「ひっ……」
声が出なくなっていた。ただ、成すがままに衣服を脱がされ、そのまま椅子に座らされると、足を拘束具で固定されてしまう。
「ま……って下さい。こんなの、し……じゃいます」
部屋の中は陽が当たらないから寒い。暫く掃除されてないのか虫も這ってる。暗いし、ロウソクの周りには羽虫が飛び回ってる。しかも汗などの排泄物の臭いだって籠もってる。
「安心しなさい。ロウソクの取り換えやアンジェの排泄と食事の世話は既に聖行を終えてきた修道女達に行わせますので、貴女はただひたすら聖典を読み耽るだけでいいのですから」
「や、ぁ……」
司祭様はそう言い残すと、部屋を出て外から鍵をかけ、私の衣服を持ち去ってしまいました。室内に残されたのは6冊の聖典とか細いロウソクの明かりが一つだけ。
「ひぐっ……」
どうして? どうしてこんな目に遭うの? 分からない。でも、とにかく読まなきゃ、そうしないとこの生活がず~~っと続いちゃう。そうなったら私は多分、耐えられない。
だからとにかく夢中で聖典を読んだ。6日間でこの部屋から出るために。なるべく何も考えないようにしながら。もう、徐々に短くなっていくロウソクを眺めるくらいでしか時間が分からなくなってしまったのだから。
「……誰か……助けて……神様……」
だけど、気が付いたら助けを求め出していた。だって、ロウソクが消えてしまったら、私は完全な闇の中に取り残されてしまう。そんな事を思い浮かべてしまったから。
でも、誰も助けにはきてくれなかった。
「……あれ……なんで?」
ロウソクの臭いをずっと嗅いでると、なんだか頭がぼ~~っとしてきて、身体が内側からじんじんと熱くなってきて、寒さだって気にならなくなってくる。それで、いつもならとっくに眠くなるはずなのに何故か全然眠くならないんだ。
それが何だかとても恐ろしかった。自分が変ってしまうような気がしたから。そう思ったら、もう止まらなくなっていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……。私が何か悪いことをしたのなら全部謝ります。だから助けて下さい。赦して下さい。お願いします。神様……司祭様……」
目の前の聖典を読むことも忘れて、ただひたすら懺悔と祈りを繰り返していた。
赦されたくて、不安で、怖くて、無性に温もりが欲しくて、頭の中がどんどんぐちゃぐちゃになって来る。これが夢なら早く醒めて下さい。醒めて、醒めて。何でもします。だからお願いします。醒めて下さい。眠らせて下さい。終わらせて下さい。お願いします。
「はぁ……この臭い、ロウソクの中に"魔女の軟膏"や覚醒興奮作用のある薬まで混じってるし分量もヤケクソだ。しかも裸のまま暗室に監禁して五日間も寝かさない? そりゃあ神様の幻覚と対面しちゃうわけだよ、全く……なんて酷い悪夢なんだか、しかもこれでまだ"序章"なんだからウンザリしてくるよ、ホント……これ以上はもはや見るに堪えないね」
「……かみ……さま?」
どこからともなく女の子の声が聞こえてきたら、前の扉が開かれて、世界が真っ白になっていったんだ。
(あかん)
ということでネクリアさん十三歳からドクターストップがかかりました。はい。




