第九十六話:ブービートラップ
日喰谷の崖際に立ち、広大に広がる湿地林を見下せば、暗色を塗りたくるだけ塗りたくって黒一色に染まってしまった絵画のように、意味も興味も見出すには退屈すぎる景色が広がっている。まだ、夜空に浮かぶ星々でも数えている方が風情がありそうに思える中、崖下の湿地林にひたすら関心を示しているのは翠髪の耳長娘だ。
「ええっと、ひぃ、ふぅ、みぃ……」
翠髪の娘が白い指でツンツンと指示しながら一生懸命数えていたのは、小さな火の玉である。その火の玉は列を築き、黒い絵画の上に朱色の川を形成していた。
「……とぉ、百……ふぅ、これで1700人かな……向かってる地点は湿地林の三の二っと」
エルフの娘は、星明かりを頼りに羽ペンで羊皮紙に観測した内容を書き記し、それを折りたたんでは矢筒から取り出した一本の矢に括り付ける。
「フリュネル~」
「な~に、ブルメアのご主人様」
ブルメアが精霊の名を呼ぶと、小さな風精の子フリュネルが具現化し、首をかしげていた。
「ゾンヲリにね、湿地林の三の二地点辺りに1700人くらいの人間の兵士達が集まりそうなのと、谷の出口の敵陣地の警備が大分薄くなってるみたいって教えてあげて」
「は~い」
精霊の子フリュネルは了承すると、その場から即座に消えてしまう。このようにしてブルメアが得た情報はフリュネルを介し、ゾンビウォーリアーへと即座に伝えられる。既に居場所が筒抜けであることを知らない兵士達は、その後暗闇の中から突如襲来してくる狂戦士と相対するのである。
「偵察はすっごく大事、ってゾンヲリは言うけど……う~ん、なんだかな……」
一昨日からずっと朝から晩まで延々と同じ景色を見ている状態であり、ブルメアの緊張感もいい加減に切れ始めていた。せっかく結構頑張って練習してきた弓にしろ、獣人砦を指揮しているベルクトの元に矢文を送り付ける形で使っているだけである。
つまるところ、ブルメアがやっていることは非常に退屈で地味なのだ。
「ゾンヲリってば、昨日黒死病で吐血? したり大火傷負っても戦ってるのに、私がこんな楽してて本当に良いのかな……今日来てる兵士の数だって昨日に比べるとすっごく所じゃないくらいに多いし……」
と、形だけでも心配して見せるブルメアではあるが、実の所内心はほっとしていた。
中間報告で崖を降りて本陣に戻ってみれば【石の雨】で築きあげられた凄惨な死体の山を目の当たりにするし、捕虜を繫いでおくための宿舎を通りがかれば獣人達の怒声が響き、それに怯える人間の少女の悲鳴も聞いていたりする。それが前線に立ってしまった者達の辿る道である。
「きっと、こういうところをゾンヲリに見透かされちゃってるのかな、私」
前線に立つ為には覚悟がいる。それこそ、己の命をかなぐり捨ててでも人殺しを徹底的に行う程の強い意志が求められる。漠然と獣人国を助けたいと思いつつ戦場に立ってみたものの、いざその空気に触れてみれば全く身動きが取れなくなってしまっていた。
結局のところ、ブルメアには戦うに足る程の理由も覚悟もなかった。いざとなったらあの戦士が助けてくれるだろう、という打算に縋りながら安心を得てしまっているのだから。そういう小狡さに対し、軽い自己嫌悪にブルメアは浸っていた。
「とにかく、今私がやらなきゃいけなきゃいけない仕事は頑張なきゃ」
ブルメアは両手に握りこぶしを作り、決意を新たにしながら崖上に設立したキャンプまで戻っていった。
〇
「えっとね、えっとね、三の二って場所に1700人の兵隊さん達が集まろうとしてるんだって!」
「そうか、よくやったぞフリュネル。ではブルメアにこう伝えてやってくれ、時が来たと」
「は~い」
風精の子フリュネルが銀鎧の前から姿を消すと、亡霊部隊員の一人であるミグルが駆け寄ってくる。
「隊長、それでは……」
「ああ、次が決戦になる。今宵でケリをつけるとしよう」
「ですが隊長、我々にニンゲン1700も倒せるのでしょうか、既に隊長も負傷されてますし。クロスボウに使える矢の数もとても十分とは……」
単純な戦力比はおよそ30倍差、兵の質も量も圧倒的に劣り、地の利を得てもなお、覆せざるだけの大差があった。
「ミグル、我々は影の部隊だ。そして我々の本懐は、竜王ベルクト率いる本隊が鉱山都市を落とすまでの間の陽動と時間稼ぎでしかない。敵はありもしない大軍を恐れ自ら湿地林の底無し沼にはまってくれたのだ。これ以上の好機はこの先やって来る事はないだろう」
湿地林の中間まで来てしまえば、大軍が悪路の中を引き返すには丸一日という時間を要する。この一日という時間は、竜王ベルクトが日喰谷を突破し、敵主力をかわしながら鉱山都市まで一気に進撃を仕掛けるには十分すぎる時間である。
そして、鉱山都市が落ちれば征伐軍の統制は完全に瓦解する。金を支払ってくれる者が居なくなれば、軍を維持するための金が失われ、戦う理由そのものが消滅するためである。正義感だけを振りかざして大軍と戦える狂人の数には限りがある。
「鉱山都市……、しかし、あの竜王に落とせるのでしょうか?」
「落として貰わねば敗北するだけだ。余計な事など何一つ考える必要もない。ただ、戦を楽しめばいい」
ミグルにはフルフェイス越しの銀鎧の表情を覗き見る事は出来なかった。元々死んで当たり前の部隊であるし、戦いに果てるのも覚悟の上であるとはいえ、戦いを楽しいなどと思った事は一度としてない。
訓練の過程で迫りくる魔獣の脳天を短刀で割って裂いて返り血を浴びるのも、ただただその場を生き残るために必死にやってきた。だからこそミグルには理解できるのだ。目の前の銀鎧は異常者の類であると。
「俺には、隊長が楽しそうな理由が全く理解できないですよ」
「理解する必要はない。しなくて済むのならそれが一番なのだからな、それより各地点に仕掛けるよう指示した罠の用意はどうだ?」
「一先ず、野営を偽装するためにあげた狼煙の周辺には、スティック、油壺、スパイク式落とし穴といったブービートラップを手あたり次第に仕掛けてはおきましたが、それで撃破できるのは精々100人も満たないと思いますが」
見通しの悪い夜の闇の中で足元への注意は疎かになりがちである。
靴の高さ程にへし折った竹や石の槍を地面や木々の合間に植え付けて草などを被せて隠し、先端には黒死病患者の糞尿も塗り付けておく。これを、金属製の具足で足元を固めていない者がうっかりと力強く踏んでしまえば、歩くことすらままならない傷を負うだけではなく死の病までも患うという、原始的ながらも悍ましき罠の名前がスティックである。
「問題ない。仕掛けた罠の肝は敵に恐怖と疑心を植え付ける事にある。見える物全てが敵だと理解した時、それでもなお冷静な思考を保てる者はそう多くはない。それに、足元を恐れてわざわざ進軍を遅らせてくれるのなら好都合だろう」
「では、ワザと遺留品を残し、細工を仕掛けたのも……」
「罠にかけるには目立つ釣り餌も必要になる。罠に慣れて来た者がとりがちな行動も教えたな?」
「下に注意を巡らせば、上や左右への注意が疎かになる。でしたね。また、スティックの迂回路にはスパイクを仕掛け、木々の間にはツタを使ったワイヤートラップも仕掛けてあります。その点に関しましてはぬかりはありません」
目の前で罠を踏んだ者を見て、同じ罠を好き好んで踏もうとする者はいない。その心理を逆手にとり、湿地林には二重にも三重にも罠が張り巡らされていた。もし、全ての罠を踏まずに進みたいのであれば、慎重に慎重を重ねて進軍する事を強いられる。
「よろしい。では私が正面から敵本隊を引き付けよう。お前達はその間に敵後方に回り込んで連絡線を徹底的に断て、敵伝令の明確な位置情報に関しては、逐次指定の地点に向かってブルメアの矢文を回収して割り出せばいい」
冷静に考え直せば、銀鎧は馬鹿げた事を言っているのだとミグルは感じていた。
一人で1700人を相手するなどと狂人による妄言の類である。しかし、実際一人で100人近くを切り伏せ、全身火達磨になっても何事もなかったかのように振舞うこの男が言うのだから、きっと何とかなるという根拠のない安心感がミグルにはあった。むしろ、1700人全て切り倒してしまうのではないかという奇妙な期待感すらも抱いていたのだ。
「了解しました。隊長のご健闘を祈ります」
「ではいくぞ、明けぬ夜もあるのだと、奴らに教えてやれ」
地味だけどこの戦いのMVPは間違いなくブルメアさん。UAVによって位置情報がリアルタイムでモロバレというのはそれだけ恐ろしい話なのだ。YABUMI万能説を提唱する今日のこの頃。
・後方の連絡線を断つ理由について
基本的に情報伝達は口頭で行われます。つまり、伝令が本体に到達しない限りはベルクト隊が侵攻を開始している事実を認知する事が出来ない。そして、伝令の護衛は本隊程強固ではないため、獣人達でもクロスボウがあれば十分勝利できる。という策らしい。
無論、こんな作戦がなせるのもブルメアさんUAVで位置情報が露呈してあるからこそなので、戦場において情報によるアドバンテージを得るというのは非常に重要だったりするらしい。よって、近年発達した電信というのはそれだけ革新的な技術であったりなかったりする。




