第十二話:大人の階段を登った奴隷の子
ベルゼブルの使いによって輸送されてきた腐乱死体を地下の儀式場へと運び入れている最中の出来事だ。
「なぁゾンヲリ、死体運びはもういいから、鍾乳洞の様子を見て来て欲しいんだ。何か嫌な予感がするからさ」
大魔公会議でのベルゼブルの証言によれば、今から5日後には国境にある黒雲平野で帝国軍との戦端が開かれる事になる。周辺の大陸地図によれば、万以上の大規模な軍勢を進軍させるにはその場所を通るしかない。
だが、南西にある山脈に形成された鍾乳洞も人間の支配地域と繋がっている。魔族国の主戦力の大半が黒雲平野に向かっている以上、防衛戦力の手薄な本国に奇襲を仕掛けられるような事態は警戒しておくに越したことはない。
私は二つ返事で了承し、三人の冒険者と出会ったあの鍾乳洞へと向かった。
「……これは」
鍾乳洞の中は以前とは様変わりしていた。その中でも印象的だったのは「うーっうーっ」という煩過ぎる同僚達の呻き声が一切聞こえない事だろう。同僚達全てが、既に物言わぬ躯と還り果てていたのだから。
すぐに地面に耳を当て、周囲の物音を探る。
が、動く者の気配はない。周囲を見渡し、何処にも生命が存在しない事を確認した後に倒れている元同僚達の状態を確かめる。
「メイスによる頭部の欠損、それにクロスボウの矢か……こっちは大楯で圧し潰されているな」
戦闘跡を見れば、この場所を通ったのは冒険者の類ではない事は分かる。異なる大きさの金属具足の足跡だけを数えても、優に小隊規模を超えていた。敵軍は既にこの場所を通り抜けたか、鍾乳洞の奥で駐屯している本隊と合流している可能性があった。
いずれにせよ、軍靴の音はすぐそこに来ている。少女の嫌な予感は恐らく的中することになるだろう。
「ネクリア様に報告しなければ……」
魔族国西地区へと急行し、少女の御屋敷を目指してゾンビロードを駆け抜けていく。
「あら、従者君じゃない」
聞き覚えのある艶やかな声に呼び止められる。声の方角に視線を向けると、香草が入った手籠を下げたイルミナが見えた。男であればその美貌を前にすれば平伏すしかない程の相変わらずの妖艶さに、思わず目を奪われそうになる。
「これはイルミナ様、お久しぶりです」
「あら、目を見て話さないと失礼になるわよ?」
イルミナに目線を合わせると、クスっと妖しく笑いかけてくる。その瞬間、頭がグラっと揺れる眩暈のような感覚を覚えた。
「うっ、これは、手厳しいですね……」
力ある淫魔とは相対するだけで魅了されかねない。意識を奪われぬよう、気をしっかりと保つよう心掛ける。
「ふ~ん、今度はちゃんと抵抗しちゃうんだ」
「ネクリア様に怒られてしまいますので」
イルミナは柔らかな物腰で近づいてくると、微かに香る蠱惑的な匂いが鼻孔をくすぐってくる。
「義姉さんは元気にしてる?」
大魔公会議で少女がどのような仕打ちを受けるのかを知っていて、それを案じての質問なのだろう。
「最後に見かけた時は、仕事前にピザを頬張っておいででしたよ。今はご多忙で疲れておられるかもしれませんが」
「そう、それなら良かったわ」
イルミナは安堵した様子を見せた後、こちらの目をじっと見つめてくる。
「ねぇ、やっぱり義姉さんの相手をしていると大変でしょう?」
この汚らわしい腐ったゾンビである今の私を必要とし、強く嫌悪せずに接してくれる者はこの国では少女しかいないのだ。私が尽くす事で小さな笑顔を向けてくれるのも、あの可愛らしい少女しかいない。
「いえ、ネクリア様のおかげで私は今を生きる意味を見いだせているのです。大変と思った事は一度たりともありませんよ。どうしてそのような質問をされたのでしょうか」
「いえ、ね。義姉さんってば実は貴方が来るちょっと前に人間の奴隷を飼っていてね。こんな話があるの――」
〇
時は遡り、イルミナと奴隷の男の子との出会いから始まる。
「あら、ボク、新しい従者の子?」
「どちら様でしょうか?」
「私はイルミナ、この屋敷の主の義妹かしら」
奴隷の子は人目見てイルミナに釘付けになってしまった!
「すごく……綺麗ですね」
「あら、嬉しい事言ってくれるじゃない。それで義姉さんの元に案内してくださる?」
「はい……」
奴隷の子とイルミナの出会いはこうして始まり、別に嫌う事も無かったのでイルミナは奴隷の子と話すようになった。だが、会話の内容の大半は奴隷の子の愚痴になるのであった。
「イルミナ様、ご主人様ったら酷いんですよ。子供っぽく怒って我儘言ってあたり散らすし、ピザしか食べないし、たまに出かけると思えば凄いオルゴーモン臭をさせて帰ってくるし、死体掃除も汚れた服の洗濯も全部ボクにやらせるし」
「ふ~ん、大変だったわね。ねぇボク、それなら今度休みもらえたら私のとこに一度遊びにこない?」
その時のイルミナはご褒美に飴でも与えれば、不満はなくなるだろうと思っていた。それに、奴隷の子はとても可愛いかったのだ!
「え?(わくわく) ハイ! いくます!」
奴隷の子は誘われるがままに大人の階段を登ってしまった! だが、浮気はあっさりとバレてご主人様にガッツリ怒られる事になる。しかし、奴隷の子は一度味わってしまった快楽を忘れる事ができなかったのだ!
「イルミナ様……今晩もよろしいでしょうか? ボクぅ……我慢できなくって……」
「あらあら、でもご主人様の事は大丈夫なの?」
「いいんですよ"あんなの"。ボクに優しくしてくれるのはイルミナ様だけなんです」
「……そう、なら今晩もいらっしゃいな。忘れられない夜にしてあげるわ」
そして後日、ネクリアさん十三歳の元に届けられたのは出し殻になった奴隷の子だった。
「この年中発情期の淫乱雌豚が! 私の前に二度と顔を見せるな!」
「待って義姉さん。でもこの子、義姉さんの事馬鹿にしていたからつい……」
「うるさい! うるさい! うるさい!」
何だかんだで奴隷の子を気に入っていたネクリアちゃんは奴隷の子を寝取られた事で烈火の如く怒った。こうして、喧嘩別れし、イルミナがネクリアちゃんの汚屋敷に行くのは特別な用事がない限りは出禁にされたのである。
〇
「――というわけなのよ。見た目は可愛い子だったから出来心でついヤっちゃってね」
イルミナが私と面と向かって話をしている最中、時折無意識で鼻に指を当ててしまっているのが見えた。距離をとったり顔をしかめる程露骨ではないのは、イルミナなりの気づかいなのだと思われた。
だから、気づかれぬように自然な様子で少しずつ距離をとる事にした。
「……正直、どう反応していいのか分からない話ですね」
サキュバスの貞操観念について私から言える事は何もない。テンプテーションをまともに受ければ普通の人間の男には拒否権などないのだから。
絶世の美女に優しくされたら誰だってコロっといきそうになるものだ。私には奴隷の子の取った行動を責める事はできない。それもまた、私が取り得る一つの可能性と結末なのだから。
「でも、私はあれで良かったと思うわよ。義姉さんったら、ああ見えてすごーく繊細なの。本心知ったら凄く傷つくもの」
ほぼ孤立無援の少女の境遇を思えば、唯一の味方に裏切られるのは辛いだろうなと思う。
「ふふ、それで、君は本当のところ、義姉さんの事、どう思ってるのかしら?」
「なにっ?」
イルミナは妖艶に微笑みかけると周囲に甘い妖香が漂い始める。脳髄が焼け焦げ、思考が徐々にぼやけていく。……これは……テンプテーションか。このままでは……目の前の女が欲し……。
「……ぐっ……おおおおっ!」
残された僅かな脳汁を振り絞り、腰の脇に差したダガーを引き抜き、それを己の腹部へと突き刺す。
そして、抉る。抉る。抉る。刺すような痛みは魔性に魅入られた思考を明瞭にしていく。快楽には快楽で上書きしてしまえばいい。痛み、それこそが至上の快楽。
「ハァ……ハァ……ふうっ……」
意識を完全に取り戻した時、イルミナは驚いた表情をしていたのが目に入った。
「ちょっと、大丈夫? 何でいきなり自刃なんてしたのよ?」
慌てて駆け寄ろうとするイルミナを手で制止する。
「私はゾンビですからこの程度平気です。それよりイルミナ様も人が悪い御方だ。初めからこうやって私を試すつもりでしたか」
二度目の浮気は許されない。それは、一度だけ猶予を与えてくれた少女の恩情を無下にすることに他ならない。そして、二度も同じ攻撃を貰う程、間抜けでいるつもりもない。
「ごめんなさい。ちょっと本心を聞きたかっただけなの」
「いえ、気になさらないでください」
イルミナは単にネクリア様が心配していただけなのだろう。互いに、不器用な姉妹だと思った。
「ねぇ貴方、一つだけ覚えておいてね。サキュバスにとってテンプテーションを拒否される事って結構傷つく事なのよ」
イルミナは優しそうに笑いかけてくれるが、何処か悲しそうな表情を見せた。男を支配する必殺の求愛がテンプテーション。それは淫魔が最も信頼する最強の攻撃手段であり、プライドでもある。
それが否定されると言う事は、種族としての自信を失う事に他ならないのだろう。
「……イルミナ様には失礼をしました。ですがネクリア様に怒られてしまいますので、どうかお許しを」
「ふふっ……ちょっとだけ義姉さんに妬けちゃう」
「何故でしょうか?」
「私達サキュバスってこんなのじゃない?」
そう言ってふくよかで形の良い胸を寄せるようなポーズをとって見せる。端的に言って目に毒だ。精神が本能で焼かれるような衝動が沸き立つ。
「こうやって誘惑した雄を何でも望むままにしてくれる人形に変えられるの。お金も、食事も、恋愛だって思いのまま」
イルミナはポーズを解き、寂しそうな表情をする。
「でもね、誘惑で手に入れたお人形で遊んでてもつまらないんだもの。だから、別の子のペッドを誘惑して愛を確かめてみたりするの。結局、つまらないなって再実感させられちゃうのだけれどもね」
普通の恋愛に飽きてしまったイルミナが求めたのは略奪愛。どちらの誘惑がより強力なのかを競う火遊びなのかもしれない。もっとも、淫魔の誘惑に屈した男は目先の誘惑に抗う事など出来ない。
「……ふらふらと、蝙蝠のように寝返り続けるのでしょうね」
イルミナは小さく頷くと、自身の豊満な胸に手を当ててみせる。
「義姉さんったら魅了は一切使ってないんでしょ?」
イルミナから良い香りがふわっと漂ってくるが、すぐに霧散していった。
今イルミナが放ったような色と香りからなる強力な催眠を少女は使っていない。"ネーア"の仕事をしていた時でさえもだ。
「そうですね。使われている様子を見た事は一度もありません」
「実際は使えないというのが正しいのよ。テンプテーションは淫魔の持つ催淫性の香りを増幅させているだけ。ゾンビの臭いが移った義姉さんじゃ逆効果になっちゃうだけだもの」
少女は死霊術師というあり方のために、淫魔として生きるあり方を犠牲にしていた。ゾンビなどという汚物に触れさえしなければ、少なくとも少女は小さくて愛くるしい女の子として他者を魅了していく生き方も出来た。
大魔公会館で同族からすらも侮蔑と屈辱に満ちた扱いを受ける事もなかったはずだった。
「……ネクリア様」
「でもね。実はお義父様がお亡くなりになった後、義姉さんに求婚の申し出があったのよ」
「それは、一体どなたでしょうか?」
「ベルゼブル」
「ッ!?」
驚きを隠す事が出来なかった。あれ程までに互いに険悪な雰囲気を醸し出しているだから。
「まぁ、保護を名目として18番目の妻にするつもりだったらしいわ。大方お義父様や義姉さんの魔術知識や西地区の利権が目的で近づいたのでしょうけれどね。だから義姉さんの方から三行半を叩きつけちゃったのよ」
「それは、ネクリア様らしいですね」
「そう、普通の淫魔だったらベルゼブルに口答えなんて到底出来ないもの。義姉さんったら本当に凄いんだから……」
イルミナの言葉から伺えたのは、少女の事を心から尊敬しているという事だった。顔を合わせると多少の悪態をついて素直になれない辺り、イルミナは少し少女に似ているのかもしれない。
「ねぇ、義姉さんが精霊魔法を使えないのも知ってる?」
「ええ」
「サキュバスってね、基本的に積み重ねた年齢と容姿の美しさや若さに比例して力が強くなるの」
イルミナは少女の"義妹"であり、ネクリア様のその見た目は若さを通り越して少女そのものだ。それは、潜在的な力量を相当持っている事を意味する。
「では、ネクリア様は魔力も人並み外れているというのですか?」
イルミナは頷いて私の問いに肯定すると、片方の掌を上向きに広げた。その次の瞬間には人間の頭部程の大きさの炎球を無詠唱で作り出してみせたのだ。
少なくとも、私が殺した魔女にはこのような芸当は出来ない。
「不思議に思わない? 私でもこの程度なら出来るのに、難しい新魔術の研究までしてるはずの義姉さんが全く使えない事」
魔力があり、才能があっても精霊魔法が使えなくなる現象は一つだけ覚えがあった。
「もしや、逆凪ですか」
「ええ、貴方って人間なのによく知ってるのね。死霊術と精霊魔法の合成術である邪精霊魔法の研究している最中に、事故で逆凪を引き起こしたのよ。その際に、義姉さんを庇ってお義兄様が代わりに亡くなられたの」
精霊魔法は大気に宿る四属性の精霊に働きかけて使用する魔法であり、精霊達による術者に対する反逆を逆凪と呼ぶ。その多くは身に余る魔法の行使、魔力の欠乏、不完全な詠唱などによって起こりえる。
そのため、魔術師に対する対策として、圧力をかけて詠唱中断や逆凪の暴発を図る戦術をとる事もある。以前魔女を切り殺した時のように大半は詠唱中断に留まるので、実際に逆凪に至るケースは極めて稀だ。
そして、逆凪を発生させて仮に生き残れたとしても、死に瀕する恐怖のトラウマから二度と精霊魔法が使えなくなる事も珍しい事ではない。以前、少女に精霊魔法について問うた時にはぐらかされてしまった。それはつまり、それ程少女にとっては繊細な問題なのだ。
「そのような事が……。ですが、どうしてネクリア様にとってデリケートな問題を私に教えて下さるのですか?」
「貴方には義姉さんの事をもっと知って貰った方が良いかなって思ったからかな」
「……ありがとうございます」
「それとね、今私が着けてるこのフレグランスだって元々は義姉さんが錬金術で発明したものなんだから――」
気を良くしたイルミナは熱が籠った少女自慢を続けていく。その最中のイルミナ表情は太陽花のように眩しく映った。それはとても少女と似ていて、何だかんだで姉妹なのだろうと感じさせるものだ。
このまま、魅力的な笑顔を見せてくれる絶世の美女の会話にいつまでも聞き惚れていたい欲求に支配されそうになるが、切り上げなくてはならない。
「申し訳ございません。イルミナ様。そろそろ」
「――あ、ごめんなさい。つい長話がすぎてしまったわね」
「いえ、大変ためになりました。これで今後より一層にネクリア様の為に働く事が出来ます」
「……貴方も惜しい子よね。そのデロデロのゾンビの身体じゃなければ本気で食べちゃいたくなってたもの」
この身体の本来の持ち主であるカイルと呼ばれた美青年が、もし生きていたのだとすればイルミナの情愛を得る事も可能だったのかもしれない。しかし、今の私は臭く、醜く、汚らわしいゾンビでしかない。
「私はゾンビで良かったと思います。そうでなければイルミナ様に人形にされて食べられてしまっていたでしょうし、こうしてイルミナ様の新しい一面を見る事も叶わなかったでしょうから」
「ふふ、言うわね。今後しっかり義姉さんの事、守ってあげてね」
「努力はしましょう。それとイルミナ様」
「何かしら?」
「近いうちに軍が魔族国に直接攻め込んで来るかもしれません。どうかお気をつけて」
「……そう。また、戦争が始まるのね……。教えてくれてありがとう。また機会があれば会いましょう」
「ええ、また機会があれば」
イルミナと別れ、私は少女の待つ御屋敷へと足を急がせた。