第七十六話:ブルメアさん、崖登り始めました
一晩をかけて湿地林の中を駆け巡ったエルフと銀鎧の二人組の行き着いた場所とは、日喰谷の崖下だった。
「ねぇ、ゾンヲリ。本当にここを登るの? どう見ても岩壁にしか見えないんだけど……というより登れるの? これ……」
雲を穿てる程の高さにまで聳え立つ岩盤。その傾斜角度という一片の慈悲すらも与えてはくれない大自然の防壁を前にし、エルフの小娘に出来る事はと言えば、ただただ圧倒され、硬い岩肌をさすってはうな垂れるくらいである。
「私の足に付いて来れている"今の貴女"ならば、この位の岩壁を登る程度造作もないはずだが」
「えぇ……、絶対無理に決まってるよ。」
重機兵の如く大剣で木々を薙ぎ倒し湿地林を突き進むゾンビウォーリアーを追従する。ただそれだけでも"兵士"ではない者達にとっては尋常ではない程の苦痛と忍耐を強いる。だからこそ、ゾンビウォーリアーは死狼の足を獣人達に与えた。
にもかかわらず、ブルメアは息を切らしながらも己の足でゾンビウォーリアーに付いて行く事を止めなかったのだ。
「……そうか、なら無理にとは言わない。ここで引き返すといい。真っ直ぐ来た道を辿れば野営地に着く、そこでここまでに描いた地図をベルクト殿に渡して欲しい」
ただでさえも低く響くしわがれた声が、殊更に冷たく言い放たれる。
「なんかその言い方はちょっと卑怯。 大体、ゾンヲリってば本気で私に登れると思ってるの?」
「ああ、少なくとも"私なら"間違いなく出来る」
「ああ……うん。そうだね~、ゾンヲリならそうなのかもね~でも実際どうやって登ってみせるの?」
少しいじけたようにブルメアは悪態をついてみせた。
「なら、少しこの崖から"離れて"見ていろ。足場を作るついでに実演する」
「へっ?」
そう言い残すと、ゾンビウォーリアーはブルメアの視界から一瞬で消えた。否、跳躍した所までは目で追えた。ブルメアが少し遅れて岩壁を見上げると、重力落下に逆らいながら垂直に岩肌を駆けあがっていく鎧が見えた。
「なぁにあれぇ……」
絶句していたブルメアが言葉を発した頃には、既に銀の鎧は豆粒程の大きさにしか見えなくなり、その後雲の層に溶けて見えなくなってしまうのにそれ程の時間を必要とはしなかった。
「やっぱり……ゾンヲリって私とは違う生き物だよね。絶対」
それから、一人崖下に取り残されたブルメアは、先ほどの"忠告"も忘れてその場で溜息をついて立ち尽くしていると、異変が発生した。
「ぉぉぉおおおおおおおおおお!」
初めは微かだった獣のような咆哮と共に、ガリガリと何かを削り取るような激しい音がブルメアの頭上に鳴り響く。
「イタッ! なんか石ころが降ってきてる? ん、んん!?」
石の小雨と野太い奇声に気をとられ、ブルメアは再び崖上を見上げると、崖上を覆っていた雲が真っ二つに裂けていた。雲だけではない、岩壁すらも、陽光に照らされて鈍色に光る大剣で引き裂かれていたのだ。
その名も【地裂斬】。
獣人国の英雄である竜王グルーエルの強靭な肉体と、不朽の大剣ダインソラウスの剛性の二つもってしてようやく振るう事が許される、大地すらも叩き割る強撃を放つ必殺の戦技。
「うわわわわ、岩がいっぱい降って来る!」
引き裂かれ、砕かれた岩盤は、人間の頭骨程の岩の塊や、人間そのものを轢殺できる程の巨大な岩石となって周囲に降り注ぐ石の雨と化す。
そして、ブルメアのすぐ真横に重力落下によって加速した等身大程の岩石が着弾し、激しい轟音と共に土飛沫を巻き上げる。それを頭からまともに受ければただでは済まない程の破壊の余波を目の前にして、ブルメアは身を抱きかかえて戦慄する。
「ひぃっ! ここに居たら死んじゃう!」
ようやく身の危険を察知したブルメアは、必死に身をよじって落石を躱しながら湿地林の中へと駆け込み、その間意味も無く3度の死線を潜り抜けていった。
その後、岩盤に亀裂を加えた張本人が地上に着地し、何食わぬ顔で震えるブルメアの元へと歩み寄る。
「先ほど私が行ったのが【崖走り】だが。今の貴女ならば、私が引き裂いた亀裂を伝って崖を登る【三角跳び】から覚えた方が丁度よさそうだ」
「ねぇゾンヲリ、その前に私に何か言う事ないのかなぁ……」
「む、どういうことだ?」
「今、私岩に潰されかけたんだけど!」
「崖から少し離れていれば安全だと思ったのだが、言わなかったか?」
「言葉が全然足りてない! あんな岩石がいっぱい降って来るだなんてあれだけで分かるわけないじゃん!」
「む、むう、それはすまなかった」
怒り心頭といった様子で顔を近づけて詰め寄るブルメアに、鏡銀鎧は思わず顔を反らして頭の裏をかいていた。
「というか、ゾンヲリってばい~~~っつもそうだよね。なんか思わせぶりな事言うと思ったらやたら危ない事ばっかやろうとするし」
「いや、それは貴女が首を突っ込もうとするからでは……」
「黙って!」
「はい」
普段強面の戦士であっても、こう怒られてしまえば黙らざるを得ない。
「もう少し、付いて行く方の身も考えてよ……。ちゃんと教えてくれれば私だって、もっと頑張れるから」
ブルメアの握りこぶしがコバルトフルプレートを叩く。
「……善処はしよう」
「反省してる?」
「し、しています」
エルフの娘の翠玉の瞳でじっとフルフェイスの中を覗き込まれてしまい、たじたじになりながら目を反らそうとするゾンビウォーリアーであった。
「はい、じゃあ"崖登り"やるからちゃんと教えてね」
そうして、ゾンビウォーリアーによる崖登り指導が始まった。
「落下する前に壁を勢いよく蹴って跳び、跳んだ先にある壁をすかさずに勢いよく蹴って跳び、この一連の流れを何度も繰り返して高所に跳ぶための技法が【三角跳び】だ。このように跳んだ先に壁があれば、【崖走り】が出来なくともある程度の崖は登れる。また、この技は空中での軌道制御にも応用できるので覚えておくと色々と便利だ」
小気味よく、一定の間隔で、三角の軌道を描きながら跳ぶ事から【三角跳び】と呼ばれる。
「……まず、そんな高くジャンプ出来ないんだけど」
「高く跳べないなら三角跳びの"回数"を増やして登ればいい。そのために作った亀裂だ」
ゾンビウォーリアーは先ほど1度の三角跳びで辿り着いた場所に、今度は崖に作った亀裂の間で等身大程の高度上昇の三角跳びを10回繰り返して同じ場所まで跳んでみせた。
ゾンビウォーリアーからすれば、もはやうさぎ跳びのような窮屈な狭さではあるが、ブルメアにとっては十分に広い跳躍間隔である。
「ねぇゾンヲリ、これすっごく怖いんだけど」
要領を掴んで1度の三角跳びを成功させたブルメアであったが、次の壁に跳ぶ際に躊躇して地面に着地してしまった。
「恐怖は動きを鈍らせる。身体で覚えないうちは下を見るのは避けた方がいい。それと、連続で跳ぶのが難しければ、岩壁の出っ張りに掴まるか足を引っかけて落ちないように固定すればいい」
「……ねぇ、これ。素直に出っ張りを掴んで登った方が安全じゃない?」
安全を第一に考えれば、一つ一つ出っ張りに足を引っかけて登るのが一番確実で事故がない。それでも掴んでる出っ張りや足場が崩れれば地面に垂直落下する危険性はあったのだ。本来、崖登りの危険性は魔獣狩りに匹敵する程の所業である。
「それをやっていては登りきるのに丸一日はかかる。昼までに本陣に返るつもりでこの壁を登れないのなら、ここまでの話だな」
「うぅ……しんどい……」
なお、壁キックで壁を登る業はパルクールの一種で実際にあるらしい。
設定補足
ゾンヲリさんの放った戦技の【地裂斬】は実際のとっころすっごい筋肉で放った強撃でしかない。なお、日喰谷を登りきるには低層雲(標高2000m程度)を超えた先にある高さ、およそ3500m程の崖を登るハメになるのだが、ゾンヲリさんは3500mの亀裂を作ったわけである。
また、グルーエルゾンヲリさんが日喰谷を登りきるまでの所要時間はおよそ3分程。カップラーメンを作る速度で富士山の登頂が可能だ。
脳筋と同じ移動速度を維持する事の大変さが身に染みる今日のこの頃。戦士の道は険しく、ブルメアさんの苦行はなおも続く。




