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第七十五話:整地作業


 周囲には絶え間なく草木が茂り、踏みしめれば柔らかな腐葉土が沈む。ところ狭しと伸びる枝葉は進路や視界は遮られ、絶えず鳥や獣の鳴き声が聞こえてくる。動く者の気配を辿れば、魔獣と思わしき力を持つ存在も幾つか感じ取る事が出来た。


 尤も、魔獣は強者を恐れる。故に、グルーエルの肉体を持つ私に積極的に近寄ろうとする生き物は、背後から顔をひょっこりと覗かせては、しげしげ作業の様子を見ているエルフくらいであったりする。


「ねぇ、さっきからゾンヲリってば何してるの?」

「ああ、そういえば貴女にはまだ"目印"については何も教えていなかったな」


 短刀で切り株に刻んでいる紋様は、獣人国内で使われている"数と単語の頭文字を表す古い文字"だ。獣人国の事を知らない人間がこの模様を見た所で、その意味を完全に理解するにはしばしの時間を要する。これを少女風の言葉に言い直すならば、"暗号"という概念にも近い。


「うん。でも何となくだけどやろうとしてる事は分かるよ。私が住んでた里の森でも、迷わないように精霊様が"風の向き"で正しい通り道を教えてくれたりするけど、それに近い感じなのかな?」


 ……ブルメアはさり気なくエルフの里を窮地に陥れる程の重要機密を漏らしてる気がするが、気にしない事にしておく。


「そうだな、この湿地林で私の部隊が迷わないようにするためでもあるし、散開した後に特定の場所に集合するにはこういった目印が必要になる」


「あ、それ前にやったね。あの時は集合場所を忘れちゃって、森に一人取り残されてちょっぴり怖かったな」


 実の所、実戦演習の際に迷って取り残されてメソメソ泣いていたのはブルメアに限った話ではない。土地勘のない場所で一度はぐれてしまえば合流はほぼ絶望的になる。部隊を分けたり単独行動するのはそれだけ危険を伴うのだ。


 しかし、遠くからでも視認出来る狼煙のような合図でやり取りをしていては、敵に意図を報せてしまう恐れがあった。高度な柔軟性と隠密性を維持しつつ臨機応変に対応するには、地形の完璧な把握は必要不可欠と言える。


「……大丈夫か?」

「あ、馬鹿にしてるでしょ。フリュネルに聞けばゾンヲリの居場所だけは何処に居ても分かるんだからね」


 契約者の"声"を使った"通信"は実に革新的な情報共有法だった。どれだけ遠い場所にいたとしても、私とブルメアは互いに声を交わす事が出来る。そして、エルフであるブルメアの目と耳は非常に優れており、それは"最高の偵察者"になり得る素質があった。だからこそ私は、ブルメアの異様な熱意をくんで演習への同行を許可してしまったわけだが。


 今となっては後悔している。


「確かにそうなんだが、それは根本的に何も解決してないも同然ではないか? それと、"近い"ぞ。離れてくれ」


 私は死体の肉体でいるうちは、ゾンビ耐性を持つ少女以外のヒトと接する際には常に"一定以上の間合い"を開けるようにしている。その理由は多々あるが、一番の理由は"臭くて汚い"点にある。薬草等を調合して作った少女お手製の腐敗と臭いを抑える薬剤入り包帯で全身をグルグルに巻き、鎧の中に籠ってるとはいえ、年代物の死臭は到底誤魔化せるようなものではない。


「私ってばほら、独房の中で1年近く過ごしてるから酷い臭いにはもう慣れちゃってるし、ゾンヲリとネクリアの臭いくらいなら全然気にならないけどなぁ」


 どうもブルメアは隙あらば私の領域内に踏み込んで来る傾向にある。今一度、線は引き直しておくべきなのかもしれない。


「私に不用意に触れると病を患うかもしれない。離れてくれ」


 ブルメアは邪険にされて少しむっとしていた。


「う、でもゾンヲリってばちょっぴり神経質だよね。いざとなったらネクリアの薬だって沢山用意してあるんだし、ちょっとくらいなら大丈夫だと思うけど」


 少女の意志により、生産された黒死病の特効薬はほぼ無償同然に配布されている。薬の調合自体はそれ程難しくなく、入手に手間がかかる抗菌物質も太陽術の【リジェネレイト】によって増殖できるため、量産可能な態勢は一応整えてある。


「貴女は少しばかし、病を甘く見過ぎているな」


 しかし、少女は今も寝る暇も惜しんで錬金術にかかりきりであるし、"見える全てを救う"ためには依然として資源も魔力も時間も労力も圧倒的に足りていない状況下にある。


「戦争は飢餓と疫病によって始まる。その恐ろしさを己の身をもって思い知りたいというのならば、これ以上私に安易に触れるのを止めはしない。だが、貴女が命をかけて救った老婆の痛みを忘れるには、まだ少しばかし早いと思うが、な」

 

 孤児院の老婆が黒死の病から助かったのは、偶々最初に少女の目にとまったからだ。言い換えれば、単に"運が良かった"だけに過ぎない。その裏では幾百の命が選別されてしまっているのだから。


「ごめん、そんなつもりはなかったの。ただ、もうちょっとゾンヲリと話したいなって思って」

 

 遠まわしな拒絶を受けてか、じっとこちらを見据える翠玉の瞳に僅かな陰りが見えた。


「……腐った死体と話したがるとは、貴女も随分と酔狂な趣味を持ってるな」

「死体と話す趣味なんてないもん」

「まぁいい、勝手にしてくれ」

「うん、勝手にする」


 相変わらずブルメアは平然と私の領域内に居座ろうとするのだから始末におえない。私が切り株に座標文字を書き終えるまでの間、ブルメアはずっともじもじした様子で機会を窺っているだから気になって仕方がない。


 結局、先に折れるのは大抵私の方になる。


「……はぁ、地図に目印を転記するのを手伝ってくれるか? 手甲の上だと細かい作業が難しくてな」

「うん、任せてっ」


 エルフ特有の長い耳をピョコっと動かして快諾してくれた。受け渡した血染みの羽根ペンにヨレヨレの地図を手に取ったブルメアは、手際よく目印を書き記していく。


「はい、これでおしまい。あとどれくらいやる事残ってるの?」

「そうだな、あとざっと31地点の"整地"が目標になるな」


 湿地林の邪魔な木々や枝を大剣で薙ぎ倒し、川があるなら切り倒した丸太で橋を架ける。可能な限り、地点と地点の間は直線で結ぶように獣道を切り開き、その間に発見した獣や鳥は全て追い払う。これも全て、亡霊部隊が迅速に作戦を遂行する為に必要な"整地"だ


「えぇ……明日の朝までかかっちゃうよ」


「無論、そのつもりだが? その後に日喰谷の断崖を登った先の地形調査も残っている」


 峡谷(きょうこく)戦において高所が優位なのは戦術の基本だ。無論、敵側に同様の手を使われて崖上から要塞を強襲されてはひとたまりもない。よって、今の内に不安の種は潰しておかなくてはならない。


「え、あの岩壁も登るつもりなの? ここからでも見上げなきゃ頂上なんて見えないんだけど……」


 ある程度の戦士になれば"壁走り"や"高低差を多少無視した垂直飛び"くらいは出来る。今の私ならその気になれば一人か二人抱えた状態で断崖を登りきる事も不可能ではない。

 

「元々は一人でやる予定だった仕事だ。嫌なら野営地に戻ってくれても構わないぞ」


「……控えめに言って、ゾンヲリってば頭おかしいよね」


「それ程でもない」


 結局、いやいや言いつつも付いて来るこのエルフも同類なのではないか。と、一瞬どうでもよい思考が頭をよぎっては泡のように消えていった。


 一人で整地しては敵陣視察までやる無尽蔵の体力の持ち主、それがゾンヲリさんである。状況説明会話が長くなってしまったので一旦区切る事にしたらしい。


 なお、本編では未だ登場していないが、帝国重装騎士団とかになると、2m級のガチムチ巨漢達総勢2000名がゴッツイフルプレートアーマー着込んで断崖を一斉に壁走りしたり、河川の上を身体が沈む前に走って渡りきったりするのが夏の風物詩になったりする。しかも大気が震えるレベルで吠えるので生半可な鼓膜では潰れてしまうくらいに滅茶苦茶煩いし、時速100km以上で一斉に統率のとれた前進してくるやべーやつらだ。


 今のグルーエルゾンヲリさん以上のフィジカルエリートだけで構成された軍。しかも魔法も使えて銃や戦車も使える。それが、ゾンヲリさんの脳内で将来的に戦う事を想定している相手だったりするらしい。

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