身代わり女と偽り男 番外編~エピソード:リズ~
――そうよ、これは試練なんだわ。
自分に繰り返しそう言い聞かせているうちに、私は木々に囀る小鳥達の声がいつの間にか聞こえなくなっていたことに気付いた。
今日もやっと、夜が来たのだ。このままベッドに入って目を閉じれば一日が終わってくれる。いつものようにそうしようとして、椅子から立ち上がると――なぜだか足は、閉ざされた雨戸の前でぴたりと止まった。
精神はもう限界に来ていた。ほとんど動き回っていないのに倦怠感が全身を覆い尽くしていて、とても穏やかな眠りなど期待出来そうになかった。
ローウィン様から引き離されて、実に五日が経とうとしていた。
散々泣き尽くして涸れてしまったのか、涙はもうほとんど出て来ないのに、腫れぼったい瞼の熱はなかなか引いてくれない。
食欲はまるで無く、大好きだったはずの母の手料理にも全然手を付けられずにいた。そのせいで、姿見に映る痩せこけた自分は全くの別人のよう。他の誰よりもローウィン様に逢いたいのに、他の誰よりもローウィン様に今の私を見られたくなかった。この有様じゃ、きっと百年の恋だっていとも簡単に醒めてしまう。
無事生還した娘をウェアウルフの元に嫁がせるのは、再び生贄として送り出すも同然だと、私の両親は猛反対だった。異種族間ということを差し引いても、出逢ってから結婚を決意するまでの期間が短過ぎることで、一時的な気の迷いでしかないと一刀両断されてしまった。
こうなることは何となく予想していたし、だからこそ私は家族に何も知らせずに嫁ぐつもりだったのだけれど、とにかく実直な私の婚約者、ローウィン・アクス・グレンデル伯爵は、きちんと筋を通さずにはいられない人で。
二人揃って実家を訪れた結果、私は家の外に出るのを禁じられ、ローウィン様は私を連れ帰ることを拒まれた。
正直、考えられる中でも最悪に近いと言っていい状況。
こののんびりとしたネーレルの村では珍しいくらい厳格な両親のことを、私は決して嫌いではなかったけれど、今回ばかりは我慢がならなくて思わず口答えをしてしまった。きっと私は心のどこかで、彼らが「命が助かったのだから好きにさせてやろう」と言ってくれることを期待していたのだと思う。それが無残に打ち砕かれたことが、ただただ悲しかった。
だけど、娘を奪い去りたければ我々を殺せと凄む両親に、ローウィン様は微塵も腹を立てることがなかった。すぐに受け入れられるとは思っていない、気長に行こう、と私を優しく諭し、分かっていただけるまで毎日参りますと両親に言い残して、彼は静かに退がった。
何とその日から、朝すぐにここを訪ねられるようにと、従者達と共に馬車の中で休んでいるらしい。物腰柔らかく穏やかな人だけれど、言動は意外に大胆だなと思ったら、そのギャップもまた彼の大きな魅力のように思えた。
逢いたい……。
私は雨戸に取りつけられている、拳一つ程度の明かり取り窓をそっと開けて顔を押しつけ、夜空に燦然と輝く月の姿をどうにか確認した。グレンデル伯爵邸の大きな硝子窓が恋しい。こんな夜はきっと、ローウィン様の美しい銀の毛並が月光によく映えるのに。
私は彼が変身した狼の姿を見てもちっとも怖いと思わなかったし、その状態で普通に会話が出来ることに感動せずにはいられなかった。紅夜城で一緒の皆さんは、例え種族が違っていても、少なくとも『人型』だから。『動物』や『獣』と言い切ってしまうととても失礼だけれども、とにかく人の姿でない命あるものと言葉が通じるという現象は、御伽噺の中でしか有り得ないと思っていた私にとって、この上なく胸躍る驚きだった。
それに、始まりは確かに一目惚れ、それは否定しない。だけど、中身を知って、その人となりを知って、もっと好きになった。決して一過性の気持ちなんかではないのに、両親がローウィン様のことを知ろうとしてくれない限り、彼の素晴らしさが伝わることは永遠にない。
脱出などの妙な気を起こさぬよう、雨戸を開けるなと父にきつく言い付けられているので、逃げ場のない溜め息が部屋にどんどん降り積もっていく。馬鹿正直に言い付けを守っているのは、とにかく真正面から信頼を勝ち取ろうというローウィン様の想いを無駄にしたくないから。思い切った行動に出ることは決して難しくないけれど、堂々と認めてもらえるならそれに越したことはないという思いが、私の中にも確かにあるのだろう。
どれくらいの長期戦になるかは分からなかった。
ただ、ローウィン様のことを信じ続けるしかなかった。
彼が我が家を訪ねてくるたびに自室に押し込められる私は、扉の向こうから微かに聞こえてくる彼の声に耳をそばだてながら、もう幾度も涙して。同じ屋根の下にいるのに、手を伸ばして触れることが出来ないという現実に、少しずつ精神を削られていくような気がした。
今はただ、一刻も早く朝を迎えるために、ローウィン様と一緒になれる日が近付くように願って、寝もう――そう思って、明かり取り窓を閉めようと手に力を込めた時だった。
ちょうど正面、薄闇の中に、金色の光が二つ並んでいるのが目に入る。
心臓が大きく跳ねた。
明かり取り窓に無理矢理腕をねじ込み、肘から先を何とか外に出す。
やや間があって、温かいものが指先に触れた。それはやがて私の手をすっぽりと覆い、その存在を確かに私に伝えてくれる。
「……ローウィン様」
呼び声は弱々しく掠れ、震えた。だけど、ウェアウルフ族である彼の鋭敏な聴覚はそれをしっかり拾い、手の甲を撫で擦る指の動きとなって私に応えてくれた。愛しさが込み上げて、喉元がぐっと熱くなる。
今すぐこの窓をすり抜けられる小動物になって、この部屋を飛び出し、ローウィン様の胸に飛び込みたい。
でもそれはどう頑張っても叶えられないから、もどかしくて歯痒くて悔しくて、湿った吐息を浅く繰り返すばかり。
するとやがて、私を安心させるために、ローウィン様がその優しい声を聞かせてくれた。
「……リズ、聞こえますか?」
「……はい!」
「時間がかかってしまって申し訳ない。ですが、もう少し――本当にもう少しですから」
「はい」
彼の掌に包まれた指を軽く動かして、想いを伝える。だけどそれだけじゃ足りなくて、私は両親に聞こえないよう細心の注意を払いながら、ローウィン様にこちらから声を掛けた。
「……今、周りに誰もいませんか?」
「ほとんど寝静まっているようで、気配は全くありませんよ」
「じゃあ、狼に変身してください」
「……えっ!?」
突拍子もない私の提案に、さすがの彼も驚く。
「お願いします」
私がもう一度強請ると、触れ合っていた指先がそっと離れる。そのまま私も腕を引いて、小窓から彼が変貌する様をじっと見つめた。
月明かりに照らされて、彼の肌が見る見る銀の毛で覆われていく。以前変身に立ち会った時は、衣服が破れるかもと思って目を瞑ってしまったから、こうして一から十までじっくりと見るのはこれが初めてだった。やっぱり、凄く綺麗。『獣』というだけで恐れる人もいるだろうけれど、この摩訶不思議な光景は私の瞳には魅力的に映るばかりだった。
「もっと、こっちに来てください」
完全な狼の姿に変わった彼を呼び寄せ、その鼻先を明かり取り窓から差し入れてもらう。
この姿だからこそ、出来ること――私は室内にちょこんと突き出た彼の顔の一部に両手でそっと触れると、その口元にしっかりと唇を押し当てた。
『お試し期間』でも決して手を出そうとしなかったローウィン様に、私のほうから、生まれて初めてのキス。
「次は人間の姿で」と告げると、驚きからか照れなのか、彼の鼻先がじっとりと汗をかいてくる。その様子が愛しくて、私は実に五日ぶりに笑った。
これで今まで以上にやる気に満ちたローウィン様が、伯爵としての辣腕を遺憾なく振るい、ネーレルの村じゅうの住人を味方につけたお陰で。
私はこの二日後に無事、結婚を許されることになった。後に両親はこの時の軟禁を最大の過ちのように話すようになったのだから、私の旦那様ってやっぱりとびきりの『人たらし』なんだわ。
紅夜城に生贄として喚ばれた時は、絶望感しか抱かなかった私だけど。
巡り廻って、ローウィン様と出逢えたのだから、人生って何があるか分からない。
こんな惚気話に付き合ってくれた貴方にも、どうか幸せが訪れますように。