1:物語はスラム街から
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昼間だとは思えないほど暗い路地を、少年は呼吸を荒げながら走る。両手には、彼の身長と比べてみても大きめの汚い袋を抱えていた。
街は酷く薄汚れ、かつては栄えてたであろう都市の面影が廃墟、廃材に姿を変え、いたるところに散らばっていた。少年の駆ける道も例外なく障害物が散乱しており、少しでも気を抜いたら足を取られてしまいそうだった。
そんな醜悪な走路を走る少年の後ろからは、穏やかでない罵声と共に、それがお似合いの薄汚れた制服を着た大柄の男たちが必死に追いかけていた。最前線を走っている男の手にはナイフが握られている。捕まれば明るい未来は待っていないだろう。
少年も裏路地に立てかけてある看板や酒樽などを通り過ぎざまに蹴倒していき、男たちに追いつかれないよう少しでも抵抗する。
―しかし、そんな努力もむなしく、道に乱雑に転がっている小石の一つにつまずき少年は転倒。男たちはまもなく追いつき倒れる少年から袋を奪いあげた。
「はあ、はぁ…随分とまあ、かき回してくれたな、こんのクソガキ!」
一人の男が少年に向かって声を荒げる。と同時に、転んで未だ立ち上がれていない少年に向かって強烈な蹴りを放った。内臓がひしゃげるような衝撃に加えて、口内には血液のほろ苦さを感じる。
「それに比べておっさんがたは随分と息が切れてるみたいだな…基礎体力でも、ゲホッ…上げたらどうかな…?」
少年は再び立ち上がり、袋を取り返すため男たちに殴りかかろうとした。
しかし、多勢に無勢。少年は一人の男に軽々と持ち上げられ、少年の身長と比べると決して低くはない位置から勢いよく地面に叩きつけられた。悪運も極まったもので、偶然にも床は石畳。何の緩衝材も挟まずに衝突し、体のいたるところが悲鳴を上げる。先ほどの蹴りに加え全身打撲だ、仮にここで暴力が終わったとしても、しばらくは安静にしていなくてはならないだろう。
全身を襲う痛みと朦朧とする意識の中、意地だけでそんな希望的観測を立ててみる。
が、現実は無常。
「へへへ…おいガキ。楽しい鬼ごっこに付き合ってくれたお礼だ、すーぐ楽にしてやんよ」
先ほど最前線を走っていた男がナイフを片手に少年に歩み寄ってきた。今の命がけの競争を鬼ごっこと形容するならば、文句なしにこの男たちは鬼役をやってのけたことになるだろう。
今まで上手い事やってきたつもりだったが、いよいよ自分も天に見放されたようだ。
「――楽しそうだね。弱者をいたぶる事がこの街の自警団の仕事なのかな?」
その声は、そんな少年の考えに横槍を入れるような形で聞こえてきた。
突如として現れたもう一人の立役者はその場の全員の注意を一瞬にして惹き付けた。
少年もまた、途切れ掛けの五感を懸命に叱咤し、その声の元へ顔を上げ、ぼやける視界で目を向ける。
向けなくてはならない。何の根拠もないが、そんな気がした。
声の主は、発色のいい青髪が特徴的な、整った顔立ちをしている細身の青年だった。
「あ?誰だてめえ、よそもんには関係ねえことだ。どっかいってな」
「お生憎様。売れるもんは何でも売るってのが僕の持論でね。この状況だと、君達の相手を請け負って、そこの男の子に恩を売るのがよさそうだ。…申しわけないけど急いでいるんだ、手加減はできないかもしれない。長生きしたいなら、今のうちに逃げることだね」
そう言うと青年はバックパックを下ろす。地面に置かれたときの鈍い音から、中身はそれなりに詰まっているであろう事がうかがえる。すると、青年は不敵にも男たちの方へ歩み寄ってきた。
その距離約一メートルというところで、ナイフをもった一人の男が青年に切りかかりにいった。
「舐めやがって…どっかいってなって、いっただろうが、よォっ!」
大きく振りかぶったナイフが、的確に青年の首に向かって軌道を描く。あとほんの少しで凶悪な刃が青年の首を切り落とそうとした刹那―――。
男の持ったナイフが砕け散るのと同時に、凄まじい衝撃音が閑静なスラム街に響き渡った。
その結果に、男だけではなく、ぼやける視界でなんとかその光景を見ていた少年でさえも、自らの目を疑った。
青年は首に刃が当たる直前に素手でナイフを殴ったのだ。というより、叩き割ったといった方が正しい。
粉々になったナイフ「だった」ものを見て、男は血の気が引いたのか、慌てるように袋を投げ捨てて逃げ出していった。それを皮切りにして、残りの仲間たちも後を追うように四方に散開していった。
男たちの気配が完全になくなると、青年は周囲を見回し、先ほどナイフを爆散させた左手を庇う様に覆った。
「ふふっ、流石に刃物を殴るのはまずかったかな…」
見たところ外傷のようなものは見受けられないが、それなりにダメージは受けたようだ。
見当違いの発言をする青年はさておき、少年の心境は穏やかなものではなかった。
この街では、自分が生きるための行動をとらなければ死が待っている、誰かに甘えて生きていけるほど楽な世界ではない。それがこのスラム街「デンタパーク」に住む住人達の基本理念だ。この青年も決して少年を助ける為だけに、男たちを追っ払ったわけではないのだろう。
地面に散乱する無残にも木っ端微塵になった金属片をながめ、息を呑む。
「大丈夫かい?少年」
「―⁉」
気が付いたら青年は少年の横に腰を下ろしていた。動揺を隠すのすら忘れ驚愕の目で青年を見つめた。
「…可哀想に、よほど怖い目にあったんだね。ほら」
青年はそう言うと、少年に向かって布切れを渡してきた。驚愕も冷めやまぬうちに次は手渡された善意だ。
戸惑いながらも渡された布を手に取る。白地の端に赤く刺繍された十字架が印象的な布だった。
すると青年は顔を拭くしぐさをして見せた。真似するようにして布で顔を拭うと、自分でも驚くほどの鮮血が布にしみ込んでいた。度重なる衝撃で、自分が負傷していたことすらも忘れていた。
「うん。大丈夫そうだね。ここに居たらいつ彼らが仲間を引き連れてくるか分からない、僕も行かなきゃ行けない場所があるけど、とりあえず後回しだ。君の安全を確保したい。行けるかい?」
「え…」
「立ち上がれないかい?無理もない、アレだけの人数が襲いかかってきたんだ、おぶろうか?」
人の意図を全く汲もうとしない青年に対し、少年は混乱を極めた。
ついていったら一体どんな代償を払わされるのか、下手したらあの男たちに殺されていた方がずっとましだったのではないのか、様々な考えが少年の頭の中を巡る。
しかし、あれだけの力を持つ青年だ、断ってここで殺されるよりは、従って少しでも長生きしたほうが賢いだろう。
それが善意なら儲けものくらいのつもりで。
「す、すまねえ…おぶってくれると…その…助かる…」
「ん、了解」
そう言うなり青年は軽々と少年を持ち上げ、背中に負ぶった。
その背中から伝わってくる温かさで、緊張の糸が切れてしまった。
少年の意識はそのまま暗闇へと堕ちた。