前編:雪より白く
短編戦記です。
二話完結予定。
降り続く雪の下、青年は一人、友を待っていた。
背筋はしゃんと伸び、身に纏う軍服には皺一つない。胸には磨かれた銀色の星が一つ。
彼の名はアレクサンダー・フォン・グラディッシュ――王都防衛を担う第一騎兵連隊の隊長である。
グラディッシュ家の家格は高く、王国将軍を何代にも渡って輩出し続けた名門である。だが、彼が若干二十四歳の若さで隊長に治まっているのは、彼自身も家格に恥じぬ比類なき武勇を誇るが故である。
明晰な知能から繰り出される戦術は、倍する敵すら寄せ付けず、彼自身が剣を振るえば、誰一人としてその前に立ち塞がることはできなかった。
彼自身はそう呼ばれることを決して喜びはしなかったが――誰もが彼を「英雄」と呼んだ。
ただ一人、彼の無二の戦友を除いては。
「頭に雪が積もっているぞ、アレックス。いつから待っていた」
アレクサンダーとは真逆の、飄々とした態度。
赤茶色の癖っ毛を肩口まで伸ばし、軍服を着崩した、一見して不良騎士のような出で立ちの青年。
彼の胸には、アレクサンダーと同じ銀色の星があった。その輝きは、彼もまた英雄であることを証している。
ヴォルフラム・ツー・リンデンベルク――対外作戦を主とした、王国の剣の切っ先たる第一砲兵連隊の隊長であり、アレクサンダーと同時に叙任を受け、永遠の友情を誓った「盾仲間」でもある。
「今しがた来たばかりだよ、ヴォルフ」
「騎兵の今しがた、というのは信用ならないな。たとえ三十分前に来ていても、お前は同じように言っただろう。騎士学校にいたときから、お前はそうだったよな」
「騎士学校――か。思えば随分昔のことのように感じる」
「卒業してからもう七年も過ぎた。だが、お前と初めて話したときのことは、一生忘れられそうにない。何しろ、いきなり不正行為を疑われたのだからな」
「あの時は他に思いつかなかったのさ、ヴォルフ。君が天才だと知っていれば、あのようなことはしなかった」
「よせよ、アレックス――撃ったら当たった、それだけだ」
グラディッシュ家の長男という立場から、幼少のころからアレクサンダーを畏れ敬う者は多くいた。
だが、積極的に友情を結ぼうとする者は少なかった。圧倒的な剣の腕前と、人並み外れて明晰な知能という強い輝きが、彼の周りから人を遠ざけていた。
騎士学校に入ってから、その傾向はますます強まっていった。
あらゆる科目で優秀な成績を収める彼に、誰もが敬意を表していた。しかし、家格と才覚、全てを持っていた彼を羨み、賞賛することはあれども、対等の友人として接しようという者は皆無であった。
彼自身はそれでも構わないと思っていた。孤独の風は常に強者に吹き付ける。
それが変わったのは、騎士学校に入って二年目の夏であった。
講堂前の扉に張り出された、期末考査の順位表――普段の彼ならば、とくに意識もせずに通り過ぎていただろう。自分の名前がその頂点にあるのは、当たり前のことでしかない。
だがその日は何故か、彼の足は掲示板の前に留まった。
ほぼ全ての科目で、彼は首席を獲得していた。
ただ一つ、二年目から新たに加わった科目――砲術を除いては。
ヴォルフラム――耳にしたことのない名前が、その頂点に刻まれていた。
砲術以外の科目は、下から数えたほうが早い男である。
その日のうちに、彼はヴォルフラムという男を探し出し、どのようにしてあれだけの成績を収めたのか問いただした。不正を働いたのではないか、と詰め寄る彼に、ヴォルフラムは鷹揚な笑みを浮かべて応じた。
――大砲は頭で撃つものではない、と。
意味を理解できず困惑するアレクサンダーに、彼は一振りの木剣を手渡し、修練場へと誘った。
試合を挑んできたヴォルフラムを、アレクサンダーは一方的に打ちのめした。ヴォルフラムの剣技はお世辞にも洗練されているとは言えず、騎士としての平均的な水準に達してはいなかった。
打ちのめされた彼はよろよろと立ち上がり、変わらぬ笑みを浮かべて、アレクサンダーに語りかけた。
――剣には術理があるが、俺を打ちのめすとき、お前はそれを意識したか。お前がしたように、俺もした。ただそれだけのことだ、と。
この時になって、アレクサンダーは漸く、ヴォルフラムが正真正銘の天才であることを認めた。
砲術においては、決して届くことのない高みにある存在。彼は不正を疑ったことを謝罪し、握手を求めた。
この日以来、彼はヴォルフラムを唯一の友人と認めた。
騎士学校を卒業してからも交流は続き、共に幾多の戦場を駆け抜けた。反乱諸侯を鎮圧し、押し寄せる異民族を打ち払い、持ち前の才覚で、栄光を手に入れてきた。
そして二人は、英雄として此処に居る。
「立ち話もなんだ、何処か入ろうか――王都には良い店が沢山ある」
「任せるよ、アレックス。生憎俺は、田舎貴族の次男坊だ。王都のことはよく知らないのでな」
「分かった。久しぶりに会ったんだ、いい酒を飲ませよう」
入り組んだ路地の奥、小さな樫の扉の前で、二人は足を止めた。
カウンター席に座り、オン・ザ・ロックを注文する。
「ここは隠れ家のようなものでな。身を固めてからは、昔のように飲み歩くわけにもいかなくなった――体に毒だと言われてな。今日は君に会うと言って、特別に許しを貰ってきた」
「武勲煌めく騎兵隊長が、七歳も年下の嫁の尻に敷かれたと?」
「笑うなよヴォルフ、いずれ君にも分かるさ」
「三十までは遊んでいるよ。嫁を取ったら、おちおち色街にも行けん」
「出陣前に病気を貰って、軍医にどやされたのを忘れたか」
「ああ、綺麗さっぱり忘れたよ」
グラスを傾けつつ、二人して笑う。
「変わらないのか、変わったのか――私達はどちらなんだろうな」
「俺にも分からない。だが、何かを変えたいと思っているのは確かなことだ」
「違いない――そう言えば、騎士学校の戦略研究会でも同じことを話していたな。この国を変えたいと」
「そうだな。変えられる方法があるのなら、より良い国にしたいとは思っている。だが、大砲撃ちの俺には分からないことが多すぎる。お前のように博識でもないし、家の力も強くない。言われるがままに敵に砲弾を撃ち込むことでしか、俺は国に貢献できない。だが、お前は違う。俺の持っていないものを、全部持っている」
「持っている――いや、背負わされたのかもしれないな。砲術の腕だけで第一砲兵連隊の隊長にまでのし上がった君のことが、心底羨ましい。誰もが翼と羨むものが、私にとっては枷だったこともある」
「黄金で作られた枷なら、誰だって欲しがるさ」
グラスの中で、琥珀色の輝きが揺れていた。二人揃ってぐいと飲み干し、二杯目を注文する。
「騎士学校の戦略研究会は、まだあるのかな」
「私が聞いたところだと、去年解散させられたそうだ。体制に批判的な意見もよく出る場所だったからな」
「参ったな。騎士学校で最も自由な空間だったのだが、無くなってしまったとは惜しいものだ」
「仕方あるまい。あのような場所が残されていたことそのものが、奇跡に近かった。有志貴族からの援助で成り立っている学校だ。現体制を作っている中央議会に噛み付くような議論をされてはまずいのだろう。成立当時のように、王家の庇護の元で自由な議論が出来た時代ではなくなった」
アレクサンダーは、遠い目をしてグラスを傾けた。
現在、王国の実権を握っているのは貴族議員で構成された中央議会である。
王家は諸侯を取りまとめる以外の役割を失っており、地方では諸侯同士での内戦まで勃発している。もはや、かつてのような偉大さはない。貴族達が払う敬意は、形だけのものでしかない。
議会では汚職が蔓延しているが、もはやそれを止める者すら居ない。商業ギルドと手を結び、金の力で政治を動かすことが当たり前になっていた。
「王家の再興を志す動きもあるらしいが――どう思う、アレックス」
「それなら私も聞いている。王権回復運動――議会を腐敗の象徴としてこれを廃し、王権による統治を再び打ち立てる。何とも時代錯誤な考えだが、近衛の一部にまで賛同者が出ているそうだ。全く嘆かわしいことだ」
「意外と冷静だな。将軍の家柄で王家贔屓のお前なら、何か言ってくれるかと思ったのだが」
「彼らは王権の支持者を自称しているが、真の意味で王家を支えているとは言えない」
「どういう意味だ」
「彼らが支持しているのは、自分の心の中に描いた、理想としての王権なんだ。あれに賛同している者の中に、かつての王国の姿を知るものは誰一人として居ない。歴史書に書かれた英雄としての王家が、再び自分達を導いてくれると信じているのだろう。だが、今の王族がそれを望んでいるかどうかは、彼らには見えていない」
「お前の話はいつも難しいな。だが、少し安心した――この流れに乗って、お前が何処か遠くへ行ってしまうのではないかと、俺は恐れていたのかもしれない」
ヴォルフラムは静かに目を閉じ、グラスに口をつけた。
客は少なく、彼らの他には、初老のマスターがグラスを磨いているのみであった。
「だが、彼らの言い分も分からないわけではない。中央議会は腐敗の巣窟だ。国益を蔑ろにし、商業ギルドと癒着して作り上げられた利権構造を守ることに終止する。ヴォルフ、俺達はあの日、何に忠誠を誓った? 守りたかったものは、一体何だ? そう思うと、私は彼らを単なる愚者として断じることができないのだ――ヴォルフ、君はこんな私を笑うか?」
「お前と同じ意見だ、アレックス。俺達が守ると誓ったのは、貴族議員の膨らんだ財布の中身ではないな。もっと崇高なもののために、俺達は騎士の誓いを立てたはずだ。笑えるものか」
「彼らはその原点に忠実にあろうとしただけなのだろう。愚かだが、眩しいな」
「ああ、眩しい――見ていられないほどに」
気がつけば、グラスは空になっていた。
「三杯目は?」
「いい。これ以上飲んで帰ったら、フランツィスカがへそを曲げるのでな。君はこれからどうする」
「久方ぶりの王都だ。色街にでも出掛けようかと思うが、付き合うか?」
「悪い遊びだ。既婚者を誘う奴があるか――まったく、君も変わっていないな」
「変われなかっただけさ。お前のように嫁を貰えば、また変わるのかな」
「いや、どうかそのままでいてくれ。もっとも、君に変われというのは、山に歩けと命じるのと同じことかもしれないが」
「言ってくれるぜ、アレックス――行こうか」
カウンターに銀貨を置き、二人はバーを後にした。降り積もった雪が、辺りを白く染め上げている。
「王都でこれだけ降るのは珍しいな――アレックス、傘は持っているか」
「いや、ここまで降るとは思わなかった。参ったな、説教のタネが増えた」
「俺のを持っていくといい」
そう言って、ヴォルフラムは手にしていた蝙蝠傘をアレクサンダーに差し出した。
「いつ返せるか分からんぞ。それに、君が雪に降られて凍えるのは忍びない」
「濡れたっていいさ、これから温めてもらいにいくところだ」
「では、遠慮なく使わせてもらう。この恩は忘れんよ」
「ああ。元気でいろよ、アレックス。またお前と一緒に戦える日を待ってるぜ」
「その時はよろしく頼む。では、また会おう」
アレクサンダーは傘を手に、ヴォルフラムと反対の方向へと歩き始めた。
「すぐに、また会うことになるさ、ヴォルフ――」
アレクサンダーの言葉は、激しさを増した雪のカーテンに遮られて、夜空の果てに溶けていった。
「おかえりなさい、アレックス」
「ただいま、フラン」
帰宅したアレクサンダーは、出迎えた十七歳の新妻――フランツィスカを腕の中に抱き寄せた。
その手は亜麻色の髪を撫で、背中から腰に回された。柔らかな手触りを楽しむように、服の上から愛撫する。
「もうっ……先にお風呂ぐらい入ってからにして」
「今欲しいんだ。終わってから二人で入ろう」
フランツィスカは頬を染め、彼の腕に体を預ける。
逞しい腕が華奢な体を抱き上げ、優しく寝台に横たえた。
ランプが消され、暖炉から朧気に漏れる灯りに照らされて、二人は向き合った。
始まりは、軽く触れる程度の口付けから。やがて舌を絡め、互いの秘所を愛撫し合う。
二十四歳と十七歳。
若さ故の情熱に任せた激しい交合は、月が沈むまで続いた。
「……ねえ、アレックス」
「どうした、フラン」
彼らは風呂場で汗を流し、互いの体温を感じながら、寝台で横になる。
「アレックスは、ずっと私の傍に居てくれる?」
「……どうしてそんなことを聞く」
「時々ね、怖くなるの。戦場に出て行く度に、もう戻ってこないんじゃないかって」
フランツィスカの声は、少し震えていた。
「貴方と結婚すると決めたときから、覚悟は出来ているつもりだったのに――変よね、こんなの」
「何も変ではないさ。愛しい者を失うのは、誰だって怖い。君は正常だ」
「うん……ごめんね、変なこと聞いて」
「何があっても、君だけは守り通す。安心するといいい、フラン」
髪を撫でる手は、優しかった。
寝息を立て始めた妻の頬をそっと撫で、アレクサンダーは目を閉じた。
「君だけは――必ず」
眠る妻に掛けた言葉は、どこか淋しげな響きを帯びていた。
早朝四時。
控えめにドアをノックする音で、アレクサンダーは目を覚ました。フランツィスカを起こさないように気を遣いながら、寝台を抜け出して軍服に着替える。
ベルトに拳銃とサーベルを吊るし、「来客」を出迎える。
そこには、数名の青年騎士達の姿があった。
「――連隊長、準備は整いました。学生騎士からも、出撃準備が完了したと」
アレックスはサーベルの留め金を外し、青年騎士達と共に、迎えの馬車に乗り込んだ。車輪と蹄鉄が、路面に降り積もった雪を踏み締める。
「もう後戻りは出来ない。覚悟はいいな」
「もとより、そのつもりです。勝利する以外に、我々に道はありません」
「よろしい。では、共に征こう――王国の未来の為に」
二月十五日の朝。
軍靴と蹄鉄の音を、白く染め上げられた大地に響かせて。
雪より白き清廉を胸に、烈士達は戻れぬ道を歩み始めた。