今宵の月
スーパームーン、見たかった。。
月が綺麗ですね。
かの偉人、夏目漱石は「I love you,」を右のように訳したのだという。奥ゆかしい当時の人々の考えが如実に表れている言葉だ。因みに二葉亭四迷はロシア文学を翻訳する際、愛に対する合意の意を「死んでもいいわ。」としている。
こういっちゃなんだが、この逸話はあまり一般的なものではない。だから、彼女がこの台詞を口にした時僕は少なからず驚いた。
「おぅ。今夜は月がキレイだねぇ。」
「は?」
きっと僕は見ていられないような顔をしていたんだろう。結衣は眉を寄せた。
「は?」
そっくり同じ言葉を返す。
「だから、月。月が大きく見えるねって。」
「・・・あぁ。何でもない。」
悠介っていつも変なとこ食いつくよね。これだから本の虫は。そんな言葉を受け流しつつ、僕は踊り出す心臓を鎮められずにいた。修学旅行三日目。明日に最終日を控えた夕方。宿への帰り道。これで期待をしない男子が何処に居ろうか。
そんな事を考えながら、他の班員達の少し後ろを僕らは二人歩く。
「なに?付き合って下さいとでも言って欲しかったの?」
そうだ、なんて言えるはずもない。
「誰がこんなゴリラに。」
「・・・誰のこと?」
「そこら辺がもう既に大分。」
隣から殺気のようなものが感じられたが、きっとそれは幻だろう。悪い癖だな、とは思っている。こんな軽口ばかり叩いてると、彼女も離れてしまうのではないか。そう思い悩むことも数回やそこらではないのに、事あるごとに口をついて出てしまう。それでも横にいてくれる彼女に甘えてしまう。
そして努力をすることすらせずに、醜い夢を見てしまう。
結衣はこんな僕を気にすることもなく、また空を見上げる。
「それにしても、今夜の月は本当にキレイだと思わない?」
思い出してみると、今日はスーパームーンだった気がする。彼女がこんなことを言い出すのも、不自然ではない。
「あぁ、そうだな。」
結衣は本を読んだりする暇があれば、外を走り回るような輩だ。一瞬とはいえ上気してしまった自分が恥ずかしくなる。僕は曖昧に笑った。そしてふと思いついた。どうしてこんな事をしようとしたのか、僕は。
「こんな夜になら、死ぬのも悪くない。」
ぽそりと呟いた。彼女に伝わるか、伝わらないか。その位の声で。賭けにも近い気持ちだったのかもしれない。彼女がこんなもの知っているはずがないのに。
「え?」
どうやら聞こえていなかったらしい。僕はほっとしたような、でも少し残念なような気で答える。
「気にしないでいいよ。」
次の瞬間。がっと結衣に肩を掴まれた。
「あんたなに考えてんの?」
向き合った先には、怒ったような顔。
「へ?」
呆気にとられた僕を突き放し、前を向いた彼女が矢継ぎ早にまくし立てる。
「あのね。確かにあんたはいくじなしで暗くてひょろくて、おまけに知識を鼻にかけるタイプの本の虫よ?でもそんな奴でも死んだら悲しむ人だっているでしょ?きっと。」
「は?」
「それにまだ修学旅行は終わってない。死ぬのはもっと楽しんでからにすればいい。」
悩みならいつでも聞くさ。そう告げて彼女は前を向いたまま口を閉じた。僕もやっと彼女の言っている事が繋がった。頬がすっと緩んだ。
「分かったよ。」
この時、彼女の台詞にあらぬ期待を抱かなかったと言えば嘘になる。そして、多少はがっかりもした。
でも意図せぬ結果だったとはいえ、かなりの馬頭を受けた気もするとはいえ、彼女が僕にそんな言葉をかけてくれたのは嬉しかった。単純で女々しいと感じる人もいるかもしれない。
だが僕はこれでいいと思うのだ。意気地なしで暗くてひょろくて、おまけに知識を鼻にかけるタイプの本の虫の僕が、どうしてこれ以上の幸せを望む?負け惜しみではないが、いつか僕が彼女の前に堂々と立てるようになったその時まで、僕はひっそりと彼女の幸せを祈ろう。彼女の幸せを、僕が邪魔をしていい権利などないのだから。
けれどいつか、彼女がこの台詞の意味を知り僕の想いに気が付いてくれたら――。
この位の願いなら、僕も持っていていいだろうか。
そんなことを考えている内に、宿へ着いた。
月がキレイですね。
夏目漱石、という有名な作家がいる。彼は「I love you.」をこのように訳した。かなりマイナーな話らしい。そんなことを知った時、私は思った。
「これだ。」と。
これが、私のささやかなチャレンジのはじまり。
突然だが私には好きな人がいる。その名も川口悠介。かなりの本の虫。あとは自称コミュ障の男である。何故こんなことになったのか、それは私にも分からない。
気が付いたらそうなっていた。それだけ。
彼の隣にいるのは楽しい。バカ話をして、たまには真剣な話もして。でも結局はまたバカ話になって、笑いあって。それだけのこともどうしてか彼といっしょだとかけがえのないできごとのように思えてくる。
だがここで問題なのは、彼と私は友人未満の関係であるということ。私は彼をかけがえのない人だと思っている。だが彼はどうだろう?彼が私に話しかけてくる時は大概が事務的なものだ。クラスが離れれば、きっとこの薄いつながりでさえ消えてしまう。
でも、私が思いを伝えたとして、彼は私を受け入れてくれるだろうか?最悪の場合、この糸のような関係さえも切れるかもしれない。焦りは禁物、とはいうけれど、これじゃ何もできない。まるで体をぐるぐる巻きにされて短距離走に出ている気分。心ばかり先走るのに、現実は全く進まない。
これはやばい。そう思った矢先の出来事だった。夏目漱石の文献を見つけたのは。
「月がキレイ」
なんてふしぎな言葉なんだろう、と思った。聞き手によってはそれがただの無邪気な言葉にも、愛の告白にもなってしまう。そして、まるで私と悠介みたいだな、とも思った。同じ言葉を受けても感じ方がまるで違う。うまく説明できないのがもどかしいけれど。
そして、この言葉の魔力を借りて一生に一度の演技をしてみようと考えた。
あまり小説を読まない私は悠介によく目を丸くされる。「こんなことも知らないのか?」と。・・・まぁその大体の知識は生きていく上で全く必要のない、というか、人類の大半が知らないようなものなのだけれど。
とにかく、一般的な感性かどうかはおいて、彼から見た私はただの「バカ」なのだ。無知だと思っていた私が、彼に、「月がキレイですね」という。彼はなんて返すのだろう。そう思った。
何より、自分の思っていた反応が返って来なかった時、一番傷つかなくて済むんじゃないかと思った。ただ、言葉の意味を知らないふりをすればいいだけなのだ。
思いを伝えはしたかったが、傷つきはしたくなかったのだ。勝手かもしれない。
ただ、バカな私にはこれしか思いつかなかったのだ。
チャンスはすぐにやってきた。修学旅行最後の夕方。丁度今日は一年で一番月が大きく見える日らしい。斜め上を見上げる。
「おぅ。」
少しわざとらしくなってしまったかもしれない。
「今夜は月がキレイだねぇ。」
「は?」
悠介が勢いよくこちらを見た。彼は夕闇の中でも分かるレベルのすごい顔をしていた。
「は?」
予想以上の食いつきに少し面食らう。速くなった鼓動を無視して軽い口調で続けた。
「だから、月。月が大きく見えるねって。」
「・・・あぁ。何でもない。」
用意していた台詞を吐く。
「悠介っていつも変なとこ食いつくよね。これだから本の虫は。」
「はぁ。」
面白い程に動揺していたから、思わず魔が差した。あろうことか、少し窯をかけてみたくなったのだ。彼の本音が知りたかった。
「なに?付き合って下さいとでも言って欲しかったの?」
「誰がこんなゴリラに。」
食い気味に返事がきた。ぐっと心臓が縛られる。
「・・・誰のこと?」
「そこら辺がもう既に大分。」
予想していた返事とはいえ、少しきつかった。何をしたわけでもないのに、どうしてだろう。裏切られた気持ちになった。それでも痛みに気が付かないふりをして、また空を仰いだ。
「それにしても、今日の月は本当にキレイだと思わない?」
彼の心はもうとっくに分かっていたのに、認めようとしない自分がいた。
「あぁ、そうだな。」
底なし沼みたいだ。もがけばもがくほど沈んでいく。言葉だけが上滑りして、空気が冷える。そう思っているのは私だけだと信じたかった。そんな時だった。
「こんな夜になら、死ぬのも悪くない。」
悠介がそう囁いたのは。小さい声だった。半分聞き流してしまいそうになるまでに。
「え?」
顔から血の気が引いた。
「気にしないでいいよ。」
そういえば、今日の昼から、いや一か月前くらい前から様子がおかしかった気もしないでもない。こいつなら放っておいたら簡単にそんなことをしてもおかしくない。だから焦った。悠介の肩を掴む。
「あんたなに考えてんの?」
向き合った先には、拍子抜けしたような顔。
「へ?」
手を放し、前を向いた。
「あのね。確かにあんたはいくじなしで暗くてひょろくて、おまけに知識を鼻にかけるタイプの本の虫よ?でもそんな奴でも死んだら悲しむ人だっているでしょ?きっと。」
焦りすぎて何を言っているか途中から分からなくなった。
「は?」
それほどまでに心配だった。
「それにまだ修学旅行は終わってない。死ぬのはもっと楽しんでからにすればいい。悩みならいつでも聞くさ。」
一気に話して黙った。そして冷静になった。何を言っているんだろう私は。これじゃぁもうばれた様なものじゃないか。彼の顔を見ることが出来なかった。一瞬の時間が以上に長く難じられた。やっと悠介が口を開く。
「分かったよ。」
優しい声だった。そして彼はそれ以上の詮索はせず、口をつぐんで歩き続けた。私はもう何も言うことができなかった。
そういえば、こいつもかなり勘が悪いところがあったなぁ。なんて思いだした。夜の闇の中で薄く笑う。
この胸の中にある二文字は、いつか自分の気持ちを真っ直ぐに伝えられるようになるまで、とっておこうと思った。今は月の感想しか言えなくても、いつか必ずその言葉に頼らないでいいようになろうと思った。
ただ、彼が夏目漱石を読むとき、この一連の出来事を思い出してくれればいいなぁとも思った。
そのぐらいなら、今願ってもいいでしょう?
そんなことを考えているうちに、宿へついた。
自分の小説の信条は「小説内でリア充は作らない」です。