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あれきり、僕と瑞希は親しく肩を並べることはなくなってしまった。
あの雪の日に見かけた黒いコートの女性が瑞希の母親だったかどうかはわからない。もしかしたら、同じような事故はほかにもいくつかあったかもしれない。あの時見かけた女性は、大したことはなく済んだかもしれない。
けれども、そう思ったからといって、瑞希の問いかけに僕はうなづくことは出来なかった。
あの時、僕は心底ほっとしていたのだ。電車に乗れたことに。その先の、試験会場まで順調にたどり着けるかは気になったけれど、あの女性がどうなったか、気にすることは全くなかった。あの時、あの状況で、彼女を助け起こすのは僕の役割ではなかった。少しは気の毒に思ったかもしれない。だが、それだけだ。
あの時、僕は瑞希に意地悪くこう尋ねることも出来た。君だったら、自分の未来を中断してまで見知らぬ誰かを助け起こしたかい?もし、ホームにいた無数の乗客の立場だったら。
検事になって、罪を犯した自覚もない不特定多数の誰かをどうやって起訴するんだい?真実を明らかにして、誰かに罪を突きつけることで、事件は解決するのかい?
けれども、瑞希の母親はいまだに目を覚まさない。瑞希の家庭は、朗らかで優しい母を失ったのだ。
あの日、僕はみっともなく口ごもりながら、そうだね、大変だね、と、瑞希のまっすぐな問いかけを不鮮明な何かひどく無様なもので包んで、押し返したのだった。
そして、あの日人の波に乗って、電車に乗ることを選んだ僕は、始まりかけていた幸せな恋を失った。
月日はあの雪の日の出来事も、瑞希との出会いと別れも、まるでなかったかのように思い出のかなたに押しやって過ぎて行った。
真っ白な雪けむりが目の前いっぱいに広がった。
スノーボードで転倒した僕は、しばらくぼんやり雪に突っ伏していた。
そしてよろよろと立ち上がると、傍らに倒れている見知らぬ少年を助け起こした。
「大丈夫?」
小学校3、4年生ぐらいだろうか、毛糸の帽子をかぶってレンタルのスキーウェアに身を包み、数メートル先にスキーの板とストックが散らばっている。
少年は黙ってうなづくと、飛んだ板とストックを取りに行こうと立ち上がろうとした。
「待って、僕が取ってくるよ、そこでじっとしてて」
僕は少年をおしとどめ、あちこちに散らばった板とストックを取りに行った。その間に、周囲には人だかりができ、僕が戻った時には少年の父親らしい中年の男性が少年を抱き起していた。
「すみませんでした、よけきれなくて」
僕がそう言うと、少年の父親は険しい顔をして鋭く言い放った。
「こっちは子供なんだから。気を付けてもらわないと。一応、住所と名前聞いとこうか」
僕たちはゲレンデの下のロッジにある救護室で、事故の手続きをした。状況を説明して、不可抗力だったことがわかると、少年の父親は幾分態度がやわらかくなった。
「君が責任感のある人で良かったよ。そのまま知らん顔して行っちまう奴もけっこういるらしいから」
保険にも入っているので、もし医者にかかることがあったら連絡してほしいと言うと、父親はすっかり打ち解けてくれた。少年も特にけがはないらしく、僕に手を振って親し気に微笑みかけてきた。
「あんなに丁寧にしてやることもないのに」
少年と父親が立ち去るとき、謝罪しながら深々と頭を下げる僕に、一緒にいた友人があきれ顔でそう言った。
「あんまり下手に出ると、調子に乗ってあれこれ要求してこないとも限らないからな」
「まあ、相手は子供だったし、仕方ないよ」
そう言いながら僕は、/あの雪の日の出来事と瑞希のことを思い出していた。
僕がたった今見知らぬ少年を放っておかなかったのは、今が学校休みでレジャーを楽しんでいる時だったからなのかもしれない。時間に余裕があって、特に予定も何もなかったから。
あの日、自分の未来がかかっているセンター試験の朝に、見知らぬ誰かを突き飛ばしていたとしたら、ひょっとしたら僕だって、気が付かなかったふりをして電車に駆け込んでいたかもしれないんだ。
僕は心の中で、瑞希に謝罪している光景を想像していた。
僕がやったんだよ。君のお母さんを突き飛ばしたのは、僕だ。
そう言ったら、彼女は何と言っただろう。どう思っただろう。特定の恨む相手を見つけて、やるせない気持ちの全てをぶつければ、辛さは軽くなったのだろうか。
あの夏の日、後ろめたい気持ちでいっぱいで瑞希にはっきりしない答えを返した僕は、本当はプラットフォームに倒れていたあの黒いコートの女性に、謝りたかったのだ。
すみません。気が付いていたのに、見ないふりをしました。あなたは倒れて血を流していたのに。人波をかき分けて、大丈夫ですか、と声をかけることも、やろうと思えば出来たんです。
救護室からはるか上まで広がるゲレンデのしみ一つない真っ白な雪の斜面を見上げながら、僕はあの日の情けなく汚れた雪よりもずっと白く光っていたプラットフォームの床の色が、心の隅に残像としてずっと消えずにあったことをぼんやり自覚していた。
- the end -