P.4 夢の中で
僕が通っていた小学校は、家から徒歩30分ぐらいのところにあった。
30分というと、小学生にとっては、どれだけ歩いても学校に着かないように感じるぐらい、遠く長い道のりだ。
僕は、いつものように学校に到着し、教室へと入る。
僕の席は、日の当たる、左端。この席は、僕のお気に入りの席で、晴れていると、外から暖かい日の光が包みこんでくる。
夏場はちょっと暑いが、それ以外の季節は、眠ってしまうぐらい、本当に気持ちの良い席であった。
席に着くと、僕の机には、決まって落書きがされてあった。
“男女”
“おかまみたいな名前”
“あほかえで”
今日は、いつも以上に落書きが多い。
僕は、消しゴムを取り出し、机に書いてある落書きを消し始めた。
いつものことなので、慣れてはいるが、こう落書きが書かれているのを見ると、誰がこんなことを書いたのか。どんな気持ちでこれを書いたのか。凄く恐かったし、泣きそうになった。
僕は、両親を憎んだ。なんで、こんな名前をつけたのだろうかと。
当時では、男らしい男の名前とか、女らしい女の名前が、主流であった。なので、当然のごとく、僕みたいなちょっと変わった名前の奴は、いじめの対象となるのだ。
もっと、まともな名前をつけて欲しかった。
泣きそうになる感情を抑えつつ、僕は、無我夢中で、机に書かれている落書きを消した。
「おはよう、かえでくん」
ふと、力のある声がして、僕は驚いた。
机の落書きを消す作業を一旦中止し、声のする方を見ると、そこには一人の可愛らしい女の子が立っていた。
「かのんちゃん……」
山下カノン。彼女との出会いは、小学校の入学式の時である。
僕は、人見知りが激しく、入学式の頃、ずっと下を向いていた。
その時、彼女が僕の前に現れたのだ。
「よろしくね!」
「……よろしく。」
これが、僕とカノンとの、なんだか恥ずかしく、とても懐かしい最初の出会いだった。
カノンは、なぜ僕なんかに話しかけたのか、今にして思えば納得がいく。
彼女は、とても社交的であった。それ故、同じ教室である人と仲良くなるために、こうして、みんなに挨拶をしていたのだ。
とても小学生とは思えない行動力である。
それ以来、彼女は、僕に何回も話しかけてきてくれた。
でも、僕は「あっそう」「へぇ」などと、簡単に話を切り上げてしまう。何せ、極度の人見知りだったからだ。
友達を作りたいとは、僕も思っていたが、いざ人前に出てみると、どうしてもゴモゴモしてしまう。
初対面の人に何を話したらいいのだろうか。どうしたら友達になれるのか、僕は全然分からなかった。
「かえでくん、おはよう!」
そんな何気ない言葉を毎日、カノンは僕に言ってくれた。呆気ない態度を毎回してしまう僕なんかに、カノンは毎日、挨拶をしてくれたのだった。
カノンと、ちゃんと会話ができるようになったのは、小学校4年の頃。
小学4年……。僕に対するいじめが徐々に増えてきた頃だった。
背は低く、名前は女々しい。性格も、人見知りだから、どうしても他の奴からは、暗い奴に見られてしまう。
そんな僕に、友達と言える人は、誰一人としていなかった。
はじめの頃は、声をかけられたこともあったが、もう誰も僕に声をかけてはくれない。もちろん、僕もみんなと仲良くなりたいと思い、精一杯話しかけた。でも、どうしてもゴモゴモしてしまう僕の事を、友達として、一人の仲間として、認めてくれる者はいなかった。
とても辛かった。とても恐かった。
上履きを隠されたこともあった。教科書が全部ゴミ箱に捨てられたこともあった。
でも、僕が一番嫌だったのは、みんなから無視されたことだった。
教室にいても、廊下を走っても、校庭に出ても、みんな僕の事なんか、まるで存在していないかのような態度だった。
それが、とてつもなく恐くて、寂しくて、悲しかった。
学校に来るたびに、自分が、この世界で存在していないかのような気持ちになった。
僕の存在を、0から100まで拒否されているみたいで……
その頃、クラスでは席替えがあった。
僕の席の隣になる奴は決まって、なんでこいつの隣なんだよ…といった表情や態度をする。
だから、この席替えというイベントは、僕にとって、本当に嫌いなイベントの一つだった。
席替えは、くじ引きで決める方式だった。
新しい席が決まっていく。新しい席順が、担任の先生によって、黒板に書き出されていった。
友達と遠く離れてしまい、ため息をつく人や、やっとのことで友達と近づくことができ、歓喜の声を出す人もいた。
僕は、この雰囲気が本当に嫌いだった。なぜなら、友達がいなかったから。
だから、みんなのように、ため息をつくことも、歓喜の声をあげることもできなかった。それが、本当に悔しかったし、憎らしかった。
僕は、ふと自分の席はどこか、黒板の方を見た。
左端だった。
今回、僕の隣に座る人は誰なのか、何気なく確認をした。
あの不良グループの誰かじゃなきゃ良いな。僕のことを虐めるあいつじゃなきゃ良いな。
そんなことを思いながら、僕はじっと黒板の方に視線を送った。
そして、ついに僕の隣の席になる人が決まった。
「よろしくね、かえでくん!」
その人とは、席が決まるのと同時に、僕に話しかけてきてくれた子。
そう、山下カノンであった。
席替えをしてからというもの、山下カノンは、挨拶だけじゃなく、何気ないことでも、話しかけてくれた。
それでも、僕は、いつものように呆気ない態度をするのだった。
山下カノンには、たくさんの友達がいる。僕が雲に隠れた月であるとするなら、彼女は太陽のように、サンサンと明るく、クラスの中心人物的存在だった。
呆気ない態度しかできない僕に話しかける時間があるなら、もっとたくさんの友達と仲良く喋れば良いのに。なんで、彼女は僕に話しかけてくれるのだろうか。と、不思議で仕方がなかった。
でも、凄く嬉しくもあった。
僕の存在を認めてくれる人がいた。
やっぱり、僕はちゃんと生きているんだ。そう、思うことができたから。
「わたしも、けすのてつだうね。」
カノンはそう言って、ランドセルの中から、筆箱を取りだし、消しゴムを見つけ、机に書いてある落書きを消し始めた。
泣きそうになる感情を抑えていた僕は、安心したせいか、カノンが一緒に消してくれるのが嬉しかったのか、理由は分からないが、目から滝のように涙が出た。
女の子の前で泣きたくはなかった。だから、目から滝のように涙が出てくるのを、必死に拭おうとした。でも、涙は止まらなかった。
ありがとう……ありがとう……。そう僕は、心の中でカノンに向かって言い続けた。
「ほーら、オトコノコなんだから、なかないの」
カノンは僕に精一杯の励まし……いや、慰めなのかもしれない。でも、その言葉はとても温かいものだった。
机に書かれた落書きを消し終えると、カノンは少々考え事をし始めた。
僕はその光景がたまらなく不思議で、じっと彼女の方に視線を向けていた。
カノンは不思議がっている僕のことに気づくと、アハハっと照れ笑いをした。
「これから、かえでくん。じゃなくて、かぁくんってよぶね」
「え……」
「かえでくんのニックネーム!かぁくんできまり!」
なんて、ニックネームのセンスだ。
カノンは、僕の方を見ると、ニコッと笑顔を見せた。
その笑顔は、今でも忘れることはない。純粋で、凄く優しいものだった。
「なんだよ、へんなニックネームだな」
僕は、涙を拭きながら、また、呆気ない態度をした。
「わたしのことは、カノンでいいよ。そのほうがよびやすいでしょ?」
この日から、僕とカノンは、少しずつではあるが、ちゃんと会話らしい会話をすることができるようになっていった。
虐めなんて、もう恐くなくなった。みんなに無視されるのも、平気になった。
なぜなら、カノンがいてくれたから。一人で十分だった。僕のことを、一人の友達として認めてくれる人。僕の存在を認めてくれる人が一人いれば、僕はどんなにつらいことがあっても、平気に思えるようになった。
僕に対する虐めは、なくならなかった。でも、学校に行くのが毎日楽しみになっていった。
朝、学校に到着し、教室に入ると、いつもカノンが先にいて。
「かぁくん、おはよう!」
と、いつもの元気な笑顔で挨拶をしてくれる。
休み時間では、特別変わった話じゃないが、カノンと二人で楽しく会話をした。
下校の時間になると、カノンはいつも「一緒に帰ろう」と、誘ってきてくれた。
そんな何気ない事が、僕にとっては、本当に幸せだった。
こんな日々がずっと続けば良いなと、そう思っていた。
雨が降る月曜日の朝。
いつもなら、先に学校に到着し、自分の席に着いているはずのカノンの姿が、その日はなかった。
学校を休んだことは、カノンは今まで一度もなかったのに、今日はどうしたのだろうか。風邪でも引いたのかな……と、思ったが、また明日になれば、あの優しく、温かい元気な笑顔をして、学校に来るだろうと、僕はそう思っていた。
その日、僕は、雨が強く降っていたので、親に連絡をとり、車で家に帰った。
カノンが休んで一日が経った。
僕が教室に入ると、カノンの姿はなく、教室では、何やらいつもと違う雰囲気があった。
僕は、そんな雰囲気なんてどうでもよかった。僕が、気になったのは、カノンがいないということだった。
本当に何かあったのではないか……活発で小学生とは思えない行動力のあるカノンのことだ。何か、大きな事件に巻き込まれたんじゃないか。僕は、心配で心配でたまらなかった。
朝の会のチャイムが鳴り、先生が教室へと入ってきた。それと同時に、カノンも教室へと入ってきた。
僕は、カノンの姿を見たとき、とても安心した。何事もなく、無事にこうして、学校へと来てくれたのだから。
だが、担任の先生から出た言葉は、衝撃的で、耳を疑うようなものだった。
「みんなはもう知っていると思うが、山下カノンは、今日でこの学校から旅立つことになった。」
クラスは一段と騒がしくなった。
カノンは、いつもの元気で明るい表情をしてはいなかった。
「両親の都合で、引っ越すことになったそうだ。みんな、寂しいと思うが、カノンも寂しいはずだ。今日、精一杯カノンを送り出してあげようじゃないか。」
信じられなかった。
カノンが今日で、この学校からいなくなる……信じられるはずがなかった。
一昨日まで、あれだけ、楽しく話していたじゃないか。何事もないような表情で、僕に温かい笑顔を見せてくれたじゃないか。
僕は、この日、一度もカノンと話すことはなかった。
カノンは、それでも僕に話しかけてきてくれた。でも僕は、カノンと話そうとは決してしなかった。
「さようなら」も。「また会おう」ってことも。そして、「ありがとう」って言葉も。
カノンが、今日学校から去っていくこと。それを、認めてしまうようで、僕は、何もカノンに伝えることができなかった。
何も伝えることのできないまま、カノンは、学校から姿を消した。
僕は、目を開けた。
なんだ、夢か……
なんて、変な夢を見てしまったのだろうと、僕は暗闇から目覚まし時計を探り、時間を確認した。
「5時過ぎか……」
二度寝する時間ではなさそうだ。
カノンと衝撃的な出会いをしてから、一日が経った。
あの出来事も、夢であって欲しいなと思いながら、僕は、寝起きで気怠い体に鞭を入れ、すっと起きあがり、水を飲みに自分の部屋を後にした。