P.13 その涙を拭いて
翔太は、コートにうずくまったまま、小刻みに体を震わせていた。
翔太。僕は何をすればいい……何をしたら翔太の苦しみを解き放つことができる……
僕は、翔太のことを見ながら、拳をぎゅっと握っていた。
“死”という恐怖が、どれほどのものなのか、僕には予想がつかなかった。
この世で一番大切な人が死んでしまう悲しさ、寂しさ。それは、実際に経験した人にしか分からないものだ。
僕は、そんな経験をしたことがない。だから、翔太の背負ってる悲しみや恐怖が、どれだけのものなのか、全く分からなかったのだ。
何もしてやれない自分を憎んだ。
仲間が悲しみ、傷ついているというのに、僕は何もしてやれない。
ただ、見ているだけしかできないのか……
「Aクラスには、こんな負け犬しかいないんだな」
根崎は翔太の方を見ながら、クスクスと笑う。
「……お前……今なんて言ったよ」
根崎の発言に、僕は自分の中で、何かがぷつんと切れるのが分かった。
「Aクラスには負け犬が多いんだなって、言ったんだよ!」
根崎は、翔太に向かってボールを思いっきり投げつけた。
鋭い球が翔太に向かってくる。
僕が取れるボールではなかった。威力も早さも、見ただけで怯えてしまうぐらい、凄いものだった。
仁は、このボールを簡単に取ってみせたが、僕にはそんな技量はない。
だが、翔太がこのままやられるのを黙って見過ごすなんて、できなかった。
知らず知らずのうち、僕は翔太を庇っていた。
どんっと、後頭部に激痛が走る。
僕の後頭部に根崎の懇親の球が直撃したのだ。
僕は、大きく転倒した。
「おい、大丈夫かよ!」
「かぁくん!!」
周りからは、悲鳴ともとれる声が聞こえた。その中に、カノンの声があった。
こりゃ、変なとこ見せられないな……
「うっ……」
だが、僕の頭はグラグラし、激しい吐き気に襲われる。
立とうとしても、生まれたての子鹿のように、立つことができない。
「か、かえで……」
心配そうに近寄る翔太。
僕は、翔太の腕を全力で振り払った。
激しい吐き気と、頭のグラグラをぐっと我慢する。我慢できるものではなかったが、意地でも我慢した。
「よぉ、びびり。怪我はなかったかよ?」
「……」
僕が翔太にできること……それは、精一杯の挑発だった。
いつものように、「俺はびびってなんかねぇ!」って言い返してくれ。
いつものように、「やってやるよ!」って言ってくれよ。
だが、翔太は黙ったままだった。
僕は、翔太の顔を見ようと、体を必死に起こす。
「つっ!」
痛みが予想以上に酷い。顔なんて上げられる余裕はなかった。
徐々に、意識も薄れ始めていくのが自分でも分かる。
それでも、翔太に言いたいことがあった。どんなに、自分の意識が遠くなっても、翔太に言わなきゃいけない。今、言わなきゃ絶対後悔する。
僕はそう思ったのだ。
「翔太の……婆ちゃんは……」
「?」
「……翔太の婆ちゃんは、今のお前を見てどう思うよ!」
大きな声を出すと、後頭部に激しい痛みが走った。
だが、僕は薄れゆく意識の中で、翔太に言った。今、自分が出せる一番大きな声で言った。
「翔太の婆ちゃんは、あの元気で明るい翔太が大好きだったんじゃねぇのかよ!どんだけ辛いことがあっても、笑顔で乗り切ってみせる翔太が大好きだったんじゃねぇのかよ!そん……な……」
目の前が真っ暗になった……
僕は、目を覚ました。
ここはどこだ……
見慣れた風景……。見慣れた天井……。
そう、僕は保健室のベッドの上にいた。
僕は、起きあがろうとした。
「いてっ」
後頭部に激痛が走る。
そうだ。僕は、根崎の懇親のボールを受けて意識を失ったのか……
僕は、なんてダサい奴なんだ……
「楓」
声のする方を向くと、そこには翔太の姿があった。
どこか、ぎこちなそうな翔太。
「翔太……あ、試合は!?」
あの後、試合はどうなったのだろうか。
Cクラスとの決着……根崎との決着は……
「勝ったよ……」
「そっか〜、良かった……」
良かった……勝ったんだ……。
僕は、翔太から勝利の報告を聞くと、とても安心することができた。
きっと、仁や田端が頑張ってくれたんだろうな……
僕は安心すると、力を抜き、ベッドに横になった。
「楓……」
翔太が再び僕の名前を呼んだ。
「ん?」
「……ごめん」
翔太はそういうと、深く頭を下げた。
「なーに……謝るなよ」
「俺のせいで、こんなことになっちまって……それに!」
「分かってる……」
翔太は、久しぶりに感情的になっていた。
久しぶりに見た翔太の姿だった。
翔太は、近くにあった椅子に座り、下を向いた。
「ばっちゃんさ……」
下を向きながら、翔太は話し始めた。
「脳梗塞だったんだ。急に倒れて……」
「……そっか」
「俺が、病院に行った時には、もう……死んでた」
「……」
翔太の体が、小刻みに震え出すのが、目に見えて分かった。
その仕草は、とても悲しく、とても辛いものだった……
「認めたくなかったんだ……仁や楓に、“ばっちゃん死んだ”って言ったら、ばっちゃんの死……認めちゃうみたいで……」
翔太は泣いていた。
隠すこともなく、翔太の目からは涙が溢れていた。
「そっか……」
辛かったのだろう。悲しかったのだろう……
お婆ちゃんの死を認めたくない。
だから、みんなに言えなかった。言ってしまえば、全てを受け入れることになる。
翔太には、それが辛かったのだろう……
僕は、なぜだか、翔太の気持ちが痛いほどよく分かった。
僕は、翔太にかけられる言葉を探していた。
こういうときに限って、言葉というものは出てこないものだ。
「でも、乗り越えなくちゃいけないんだよな。」
「そうなのかな……」
「え?」
僕の返事に、翔太は驚く様子をみせた。
「別に無理して乗り越える必要は、ないんじゃないかな……悲しいものは悲しいさ。」
「……」
翔太は再び黙ってしまった。
僕の思いもよらぬ言葉に困惑している様子だった。
「僕さ……実は……小学生の頃、虐めにあってたんだ」
僕が小学生の頃、虐めにあっていた話なんて、誰にもしたことがなかった。
だから、ちょっと恥ずかしかった。
でも……、翔太には、全部言おう。
「楓が……虐めに?」
翔太は信じられないという表情を見せた。
「あぁ、極度の人見知りでね。名前も当時じゃ変わってて。虐めの対象となっちゃうんだよね。そういう人ってさ」
「……」
「友達が、僕にはいなかったんだ……机に落書きされたことも、教科書が全部捨てられていたことも、学校の人全員に、無視されたこともあった。」
「そんな……」
翔太は、自分のように真剣に、僕の話に耳を傾けていた。
そんな翔太を見ていると、恥ずかしい気持ちなんて、いつの間にか吹き飛んでいた。
ちゃんと、翔太に言えそうな気がした。
「辛かった……悲しかった……僕の存在を、全て否定されているみたいでさ」
「……」
「でもね、ある日、僕にも友達ができたんだ」
「それは良かったじゃんか!」
自分のことのように、嬉しそうな表情を見せる翔太。
「あぁ、とても嬉しくてね。今まで一人で背負ってきた悲しみとか寂しさが、軽くなった気がしたんだ」
「うん……」
僕は、天井を見た。
保健室の窓からこぼれる、夕陽の光で、保健室の天井もオレンジ色に染まっていた。
「……少しでも良いからさ……背負わせてくれよ……」
「え……?」
翔太は、何かを確認するかのように、僕の方を、じっと見つめた。
「翔太には、僕や仁。いや、もっとたくさんの仲間がいるんだから……」
「……」
そう……少しでも良い。翔太の悲しみが、苦しみが少しでも良いから分かりたい。
そして、共にまた歩んでいこう。
翔太は決して、一人なんかじゃないんだ。
僕は、保健室の窓から外を見た。
体育祭はすでに終わり、後かたづけが始まっているようだった。
「楓……」
「ん?」
僕は、翔太の方を向く。
「……りがとう」
翔太の声が小さかったこともあり、僕には翔太がなんて言ったのか聞き取ることができなかった。
「え?」
「……もう言わない」
「聞こえなかったから、もっかい!」
「いいや、ぜってー言わないし!」
気づくと、僕と翔太は笑い合っていた。
あの頃のように、自然に笑うことができた。
良かった。本当に良かった。
後頭部の痛みは、一晩治まらなかったけど、それでも、良かった。これで、翔太を笑顔で見送ることができる。
駅のホームで、翔太と僕たちは、電車が来るのを待っていた。
平日の昼間だからなのか、ホームは閑散としており、人の気配はあまりなかった。僕たちにとっては好都合だった。
焦らず、ゆっくりと翔太のことを見送ることができるからだ。
「それにしても、今日でお別れとは……残念ですよ……」
真之介が寂しそうな目で翔太を見る。
「へへ。すぐ戻ってくるさ。就職して落ち着いたら、すぐ戻る。」
翔太の言葉は一つ一つが力強く、自信に満ちあふれていた。
「いつでも……連絡しろよな。……待ってるぜ」
仁は、どこかぎこちなさそうに、翔太に言った。
「仁……。」
翔太は、どこか寂しそうな表情で、仁のことを見た。
そんな翔太を見て、仁はクスッと笑った。
「……なーに、みっともない顔してんだよ!別れのシーンじゃあるまいし!」
仁がそう言うと、翔太は、再びいつもの笑顔に戻った。
「別れのシーンだっての!」
良かった。仁と翔太の間にできた亀裂も、今は跡形もなくなっていた。
僕たちは……あの頃の仲に戻れたんだよね……
電車が来た。ドアが開き、翔太は電車に乗る。
「あ、翔太!」
「ん?」
吉沢さんが、鞄から一枚の写真を取り出し、翔太に渡した。
「ごめん、ごめん。修学旅行の時の写真……翔太に渡してなかった。」
「写真……?」
翔太は写真を受け取ると、クスっと笑ってみせた。
「俺、写ってねぇじゃん。」
「何を言ってるのですか、秋山氏!足が、ちゃんと写ってますぞ!」
「で、この手だけ写ってるのが、岡田くんだよね」
カノンが笑いながら言う。
「ああ、そうだったな!あの時、俺と真之介だけ転んだんだっけか。」
「そうですぞ!思い出の一枚です!」
「あはは!」
僕たちは笑い合った。
久しぶりだな……みんなとこうして、笑い合うのも。
「カノンちゃん。」
「え?」
「楓のこと……頼みました。」
翔太はそう言うと、カノンに深々と頭を下げた。
「おい、翔太!冗談もほどほどに……」
「楓」
翔太が真剣に僕の方を見た。
「な、なんだよ。」
「チャンスを逃すなよ。楓だったら……大丈夫だって、信じてるから。」
「んだよ、それ……」
汽笛が鳴らされた。
発車の合図だ。
翔太は、みんなの顔をゆっくりと確認していくかのように見る。
翔太……見えるか?
翔太には、こんなにたくさんの友達がいるんだ。
僕や仁、カノンに、吉沢さん、山本さんに根本さん、内山に真之介……ここには来られなかったけど、翔太には、もっともっとたくさんの友達がいるんだぞ。
悲しいときは悲しくなればいい。辛いときは辛いって言っても良いんだ。
でも、一人で抱え込まないで。
僕たちがいる。遠く離れてしまうけど、僕たちはいつまでも翔太の友達だから……
翔太は笑顔を見せながら涙を流していた。
「じゃあな」
ドアが閉まり、止まっていた電車が動き出す。
「翔太!」
僕は、動き出す電車を追うように、走った。
加速していく電車は、みるみる翔太と僕たちの距離を離していく。
「翔太……翔太……」
翔太との思い出がフラッシュバックする。
翔太との出会いは、ゲーセンだったな。不良で絡まれていたのを仁が助けて……
それ以来、僕たちは一緒に遊んだ。楽しく会話し、一緒に帰った。
お互いの部活で一緒に過ごす時間が減ったけど、時間を作っては、笑い、泣き、時には喧嘩した。
懐かしい日々……
電車は、さらに加速する。もう、翔太の乗った車両は見えなくなった。
僕はそれでも、電車を追い、走った。全力で走り続けた。
「……りがとう……翔太……」
決して追いつけるとは思わなかった。
でも、それでも僕は走った。
「ありがとう!!!!」
ありがとう……翔太。
翔太に出会えて、僕は本当に良かった。
“さようなら”じゃないさ。また、いつか会える。
あの頃のように、ファミレスで愚痴り合おう。ゲーセンにだって、行こう。
共に笑い、共に泣き、一緒に楽しもうじゃないか。
無情にも、どんどん小さくなる電車を、駅のホームの片隅で、僕はいつまでも見届けていた。
次回更新予定日:2月19日