橋姫<4>
夜が明けたので琥珀と天后は村に下りた。ひっそりとした村だ。山間を走る道路の両脇に家が五十軒ほど並んでいる。農業を主体とした山村なのだろうか、畑や田圃が多い。天后が畑で作業をしている人を見つけた。
近づいて見ると老婆が鍬を持ち一列に並んだネギの畝を手入れしている。琥珀と天后は、橋や広場の事を聞いて見る事にした。
「お婆ちゃん、おはよう」
ひょいっと顔を上げた老婆は、にこにこと笑顔で答えた。
「おやっ、どちらさんかね。山登りかえ?」
「ええ、お婆ちゃんも、朝早くから大変ですね」
「なぁに、自分で食べる物だからね。昼になると暑くなってしまうし、年寄りは朝が早いんだよ。どこから来なすった?」
「京都です」
「何と、えらく遠くから来たんだね」
よそ者なのに怪訝な顔もせず、老婆は愛想よく世間話をしてくれた。
「あのぉ、そこの道を山に入っていくと、古い石でできた橋があるでしょ」
天后が橋の話をすると、にこにこしていた老婆の顔色が変わった。
「お婆ちゃん、知ってますか?」
「知ってるがのぉ、それがどうした?」
それまでの老婆の明るい声と、明らかにトーンが違う。
「橋を渡って山を登ると広場があるんですが、あれは何の広場ですか?」
琥珀の問いに老婆の顔付が益々険しくなった。
「あんた方、あの橋を渡っちゃいかん!誰も渡ってはいかん」
「ええ?どうしてですか?」
「わしゃ、知らん。とにかく渡ってはいかんのじゃ」
「橋の向こうはその広場で行き止まりになってるのですけど、何故ですか?」
「あんた方、橋を渡ってそこまで行ったんか。何という事をしたんじゃ」
老婆は、ぶつぶつと独り言を言っている。
ようやく老婆の顔が元に戻ってきたのを見て、天后が聞いた。
「よろしければ、聞かせて欲しいのですが、…あの橋は何という橋ですか?」
「古い言い伝えがあっての、ここら辺の人はあの橋は渡らん。あれは『婆娑橋』と言うぞ」
「婆娑橋。…で、あの広場は?」
「知らん、知らん。北村の爺さんなら何か知ってるかもしれんの。この村一番の年寄りじゃ。古い話は北村の爺さんに聞くに限る。ほれ、あっちの高台にある大きな屋敷が北村さんじゃから、聞いてみたらどうかのう」
「北村のお爺さんですか。有難う、お婆ちゃん」
「じゃがの、あの橋は渡ってはいかんぞ。何が起こっても、わしは知らんからね」
琥珀と天后は老婆に礼を言って、北村のお爺さんに会いに行った。
高台にある北村家の家は、遠くから見た通りりっぱな建物だったが、かなり古い。その昔は豪華だったと思われる一部崩れかかっている土塀の門をくぐり屋敷に入った。「おはようございます」と声を掛けながら、広い中庭を抜けて玄関口に二人は立った。
天后が大声で、「おはようございます」と玄関先で言った。中から、「はーい」と声がし、玄関の古い引き戸が開いた。出てきたのは、先ほどの老婆よりやや若い女性だ。古い話は北村のお爺さんに聞くがいいと教えられたことを告げた。それならこちらへと言って、建物の横を裏に回された。
裏には、長い縁側があり、その奥には障子の戸が並んでいた。古い家らしい風情のある建築様式だ。縁側に二人は座らされた。縁側に座って庭を眺めると、既に手入れが行き届かなくなってやや荒れてはいるが、りっぱな日本庭園が設えてあった。先程の女性が、お茶を煎れてくれた。
しばらくすると白髪に白い顎鬚を伸ばした痩身の老人が出てきた。
「いやあ、こんな若い女性が尋ねて来てくれるとは、嬉しい限りじゃ」
天后は、老人を見て一瞬師匠の仙人を思い出した。確かこんな風貌だった。
「朝早くから申し訳ありません」
「なあに、年寄りは、目の覚めるのが早くてな、退屈をしておったところじゃ。で、どんな御用かのう?」
琥珀と天后は、山の橋の事、広場の事を話した。この老人も話を聞きながらやや眉をひそめたが、途中で遮る事もなく最後まで聞いてくれた。
「なる程、婆娑橋を渡ると言うか。ふうむ」
そう言うと、老人は目を閉じて考え込んだ。相当の年齢に見えるが、縁側に正座し背筋を伸ばした姿勢は、年齢を感じさせない姿だ。琥珀も天后も、この老人はただ者ではない、と見ていた。
突然、老人はすくっと立ち上ると、琥珀の喉元に向かって右拳を飛ばした。その動きの速さは、とても老人ができるものではない。普通の人間なら、老人の一撃をまともに喰らっただろう。
琥珀は、二メートルほど縁側から飛び、その突きをかわした。天后も立上り庭に降りて身構えた。
何者だ、この老人は…?




