予兆<7>
甚蔵の脇に座っていた子犬が走って洞窟の出口に向かった。
「祠の入り口を見張るように指示した。これで邪魔者は入れまい」
甚蔵は二人に向かって座り直すと話を続けた。
「この奥に、安倍晴明と蘆屋道満がいる。それに、陰陽道の秘伝書『金烏玉兎集』が納められている。これから二人は中に入って、晴明、道満の声を聞くのじゃ。そして、陰陽師としての心得をつかむがいい」
「えっ、ちょっと待てよ、親父。そ、その晴明やら道満やらがいるって、どういうことだ。金烏玉兎集って何?」
圭介は上ずった声で問うた。晴茂も、自分の祖先である安倍晴明にこんな場所で会えるとは、到底思えない。兎に角、安倍晴明は、少なくとも千年も前の人ではないか。やはり晴茂には信じられない話だ。
そんな晴茂の心を察したように、甚蔵はやや笑みを浮かべながら答えた。
「晴明と道満の像がある。但し、魂はその像に今だに宿っておる。二人はその像の前に座り、心を静かにして待てば、自ずと声が聞こえるはずじゃ。二人が入った後は、この穴の入り口に私が結界を張る。恐怖心で飛び出してくる馬鹿がいるからな。結界は晴明や道満が解いてくれるから、安心して声を聞くんだ。何も恐れる事はないぞ、圭介。金烏玉兎集は、吉備真備が唐から安倍晴明のために持ち帰った陰陽道の秘伝中の秘伝書だ」
「結界って?」
「結界とは此方と彼方を分ける境界の事だ。神社などで使われる注連縄もその一種だ。我々陰陽師は妖怪を異界に封じ込め、そこに結界を張る。その結界が破られない限り妖怪は結界の内部に閉じ込められる事になる」
「ふうぅん」
圭介は、あまり甚蔵の言うことが理解できないのだが、それなりに返事をしている。
「この祠の入り口にも注連縄が張ってあっただろう。あれは私が祠の中と外を分けた結界だ。結界を張ったからには、余人は洞窟に入れない。もし入れば、苦しみもがきながら死ぬことになる。…冴子の時のようにじゃ、晴茂」
「あっ!あの時…」
晴茂は、自分しか知らないはずのあの時の事を、なぜ甚蔵が知っているのかと驚いた。冴子がそう甚蔵に言ったのだろうか。いや、冴子は祠に入った記憶がなかったはずだ。しかし、…。
甚蔵おじさんって、やはり陰陽師なのか? 晴茂は、頭の中の整理ができない。今日の夕方、そして今の甚蔵は、これまで晴茂が知っている隣の甚蔵おじさんではないのだ。
「冴子には陰陽師の素養はないが、陰陽師の血は流れている。だから祠の入り口は無理にでも通れたという事だ。他の者は入り口で苦しみを感じるので、中には入れない。あの時、晴茂、おまえが冴子を外に出さなければ、冴子は私の張った結界で死んでおったわい。…まあ、その前に道満が何とか助けてくれたかもしれんがな」
『そうだったのか、あれは、そういうことだったのか』何となく納得できる話ではないか。
「でも、おじさん、冴ちゃんには入った記憶がない」
「そうだ、晴茂。この結界には、万が一に祠に入ってしまった者がいても、記憶に残らない呪文がかけてある。冴子には記憶は残っていない」
「では、僕は?」
「ははは…、晴茂、おまえの記憶は消す必要がないだろう。陰陽師になれば、いずれ分かってしまうことだからな」
圭介は、甚蔵と晴茂の話しに付いて行けなくなった。
「さて、二人は中へ入るがいい。そして、心静かに雑念を払って、無心で声を聞くのじゃ」