予兆<6>
甚蔵は、蝋燭の灯りを燭台のような岩に置くと、二人に話し出した。
「いいか、ふたりとも、よく聞くんだ。ここは『修行の場』だ」
「はぁ?……?」
「晴茂の安倍家と、うちの芦屋家がこの『修行の場』を維持してきた。我々は陰陽師の家系だ。代々、陰陽師としてこの国の泰平に力を注いできたのだ。今の時代は概ね泰平だが、江戸の末期まではこんな風ではなかった。日本中で妖怪が出没し、人間界を混乱させておった…」
何?…?甚蔵の話が理解できない。圭介も晴茂も、きょとんとした顔をしている。
「もっとも妖怪と言っても、人間界を奈落の底に貶める程の大物の妖怪は、江戸の初めころまでに退治されておったからの。その後は小物の妖怪を退治するだけだった。我々の両家は千年以上もこの国の安泰に尽力をしてきたんだ。まず、そのことをしっかりと理解せねばならない」
「……?」
昼間、圭介が晴茂に話した白坊主の話よりも、更に奇想天外な話ではないか。圭介、晴茂の困惑した顔を気にせず、甚蔵は続ける。
「安倍家からは、偉大な陰陽師で安倍晴明が出たし、それと同時期に芦屋家からは蘆屋道満が出た。道満は結局、呪術と式神の対決で清明に敗れたのだが、両家の思いは同じと悟り、代々この地で異界を封じてきたのじゃ。」
圭介も晴茂も、甚蔵の話す内容が理解できない。妖怪?陰陽師?安倍晴明、蘆屋道満、誰なのだ、それは。安倍晴明は、学校で習ったかもしれないし、確か陰陽師の安倍晴明が主人公の映画もあったようだが、…。
「ちょっと待ってくれ、親父。陰陽師とか呪術とか式神とか、よく分からないけど…」
圭介が、やっとの思いで甚蔵の話を遮った。それに答えて甚蔵は続けた。
「陰陽師とは、陰陽道を駆使して天文を調べ占いを行う人たちだ。陰陽道は平安の時代に唐から学んだ学問だ。陰陽道に通じた者には、呪術を用いて見えぬものを見せたり、見えているものを消したり、命のないものに命を吹き込んだりする呪文が使えた。そして、命のない物に命を吹き込み、自分の手下のように使えるようにしたものを式神と呼ぶ。例えば、こんな風にだ…」
甚蔵は胸のポケットから一枚の紙を取り出した。そしてその紙に一言二言呟くと、すっと横に投げた。するとどうだろう、その紙は可愛い子犬になった。子犬は甚蔵の足元に走り寄り二人の方に向き直るときちんとお座りをした。
「この犬は、私の式神になった。式神は私の思い通りに動く」
圭介は驚いて座っていた岩から転げ落ちた。晴茂も驚いたのだが、何か懐かしいものに出会った気分になった。
「さすがだ、晴茂、驚かんのう。圭介、この犬は悪さはしないから大丈夫だ」
「ああ、うう……」
圭介は言葉にならない声を出しながら、岩に座りなおした。晴茂も圭介も、訳が分からない。しかし、甚蔵が手品のように犬を出したのは現実だ。甚蔵は、二人の戸惑いは関知せず、話を続けた。
「このような呪文が使えるのは、陰陽師の家系に連なる人々が持つ生まれながらの能力だ。しかし、その能力には個人差がある。圭介、おまえは少しだけ陰陽師の能力があるはずだ。私と同じ位かもしれない」
「の、能力……? 呪文…??」
圭介の言葉に耳を貸さず、甚蔵は続ける。
「晴茂、おまえは大いに能力がある。生まれてまだ三日も過ぎない時に、おまえの周りにあらゆる蝶が集まって来た。おまえの寝ている部屋は蝶々でいっぱいになった。それから三日三晩は蝶の絶える事がなかった」
「…」
「このような事が起きる子供には大きな力が備わっていると芦屋家と安倍家には伝わっている。そして、今日聞いたように、おまえは見ている物が消えることがあると言う。これは、呪術に必要な基本的な能力のひとつだ。私の場合なら、一所懸命に長年修行をしてやっとできる技だ。それを晴茂、おまえは何の修行もせずにできている」
「えっ、あれは病気ではないのですか」
「病気ではない。呪文を唱え呪術を駆使する時には、雑念を払わなければならない。雑念を払う時には、自分の周りが消えるようになるまで無心にならなければいけない。難しい術になればなるほど雑念を消さねばならない。既におまえには、それが備わっているということだぞ、晴茂」
「で、でも、何かに集中している時は、例えば運転中とか、…消えない」
「それはそうだ。運転中は運転という行為に心が奪われている。それは雑念のある状態だ。例え無意識で運転をしているとしても、危険を察知してブレーキを踏むだろう。それは、無心ではない。」
「……」
「その能力が、最近になっておまえの中で強まった。圭介が白坊主を見た頃と重なる。何か異変が起こっているから、晴茂、おまえの呪術の能力が強まったんだ。陰陽師としての、おまえの力を必要としているんだ」
晴茂は、分かったような分からないような顔つきだ。
「おまえの能力なら、雑念を持ったままでも簡単な呪術が使えるようになるはずだ。おまえの祖先の晴明のようにな。雑念と無心を瞬時に切替えられるようになる。そのうち分かるぞ、晴茂」
甚蔵と晴茂のやり取りを聞きながら、圭介はほとんど合点がゆかない。
「おれにもその陰陽師の素養があるってか、親父」
「おまえにもある、圭介。しかし、おまえは苦しい修行を積まねば一人前にはなれん。どこまでできるかはおまえ次第だ」
「……」
「しかしな圭介。おまえは決して晴茂を超えられぬ。生まれ持った能力の差は歴然としている。いくらおまえが修行をして一人前の陰陽師になろうとも、晴茂に挑むことはせぬ事じゃ。我らの祖先、蘆屋道満も安倍晴明に挑むという過ちを犯した。我らの向かう道は同じだ、圭介。晴茂と心をひとつにせねばならんぞ」
「うちの親父はこのことを知っているのですか」
晴茂は聞いた。晴茂は父親からこのような話は一度も聞いたことがない。母親からも聞いたことがない。
「時晴は、もちろん知っている。まあ、おまえの親父のことは追々分かるだろう」
甚蔵は、時晴については言葉を濁した。