伸上り<16>
晴茂と琥珀は、咲と別れて書道会の会場へ向かった。既に昼前になっていた。書道会館にはまだ誰も来ていないが、もう時間がない。二人は中に入った。
「咲ちゃんが友達と仲直りしたことを菊子の霊は知らない。咲ちゃんの誕生日までに何とかいじめを止めさせるには、今日の書道会しかないな。きっとここに来る。いやもう来ているかもしれない。手分けして探そう。琥珀、二階を頼む。怨霊を見つけたら、すぐ呼ぶんだぞ。人間の怨霊は手強いからな」
「はい、晴茂様」
琥珀は二階へ上がった。書道会の会場は、二階の大広間のようだ。机が並べられ準備が整っていた。大広間には何も感じない。琥珀は、大広間を出て奥の小部屋を覗いた。椅子や扇風機などの備品が置かれている。棚には墨汁や毛筆、半紙が並んでいて、墨の匂いがする。
その墨の匂いに交じって、異様な霊気を感じた。琥珀は、気を静めて精神を研ぎ澄ました。異様な霊気は、一番奥の棚に置かれたガラス製の水差しから出ている。二十個ほど並んだ水差しの五個に霊気を感じた。琥珀は近づいて見た。何の変哲もない安物の水差しだ。
霊気を感じる水差しに手を伸ばした琥珀は、『うっ!何?』 と飛び退いた。水差しを取ろうとした琥珀の腕を誰かが掴んで押し戻したのだ。琥珀は構えた、が誰もいない。琥珀は、晴茂を呼んだ。
「どうした、琥珀」
「この水差しに霊気が、…。手に取ろうとすると押し戻されます」
晴茂も水差しを取ろうと手を伸ばしたが、『おっ!』 と声を上げた。
「なる程、この水差しは霊が選んだ人にしか、手に取れないように仕込まれているんだな。我々だから違和感を感じるが、普通の人にとっては無意識にこの水差しを選べない様になっている。菊子さんの仕業だな」
「しかし、なぜ水差しなのでしょう。これで、何かを起こす?」
「うーん、分からないな。一階は別に変わった様子はなかった。別の部屋を覗いてみるか」
二人は、廊下の反対側にある部屋に入った。そこは小教室のような部屋だ。別に異常はない。階段へ戻り、その隣の部屋のドアノブを回したが、開かない。ドアの上には会長室と札がかかっている。ドアに鍵がかけられているなら、琥珀は呪術で中に入ろうとした。
「待て、琥珀」
晴茂が制止した。晴茂は、この部屋に異様な気を感じていた。琥珀は、菊子の霊、悪霊を探して、霊気を探ることに集中していたが、晴茂に制止されてみると、確かにここには異様な気がある。
「菊子さんの怨霊でしょうか?」
「いや、霊は感じない。強い気じゃないが、気を付けろ!入ってみるぞ、琥珀」
「はい」
二人は、天井裏から部屋を覗いた。
壁に掛けられた大きな墨跡の掛け軸が目に入った。その書かれた字の上で踊っている黒い小人がいる。掛け軸の風帯にぶら下がったり、字の墨の上を走ったりしている。ほんの十センチにも満たない小人だ。晴茂と琥珀が天井の隅から姿を現したのに気が付いた黒い小人は、机の引き出しの中へ逃げ込んだ。
「何者ですか?晴茂様」
「いいや、僕も知らない。邪悪な者ではないが、…」
晴茂が呪文を唱えると、その小人は机の上に出てきた。晴茂は、その妖怪の気を測った。妖怪ではないな、と感じた。
「何だよ、おまえ達、じろじろと。俺が見えるのか?ええ?見えるのか」
「見えるよ。おまえは何者だ?」
「お、俺さまは、墨っ子ていうんだ。墨の精だな」
そうか、精霊だから妖気はない。
「ふぅうん。墨っ子とは、聞いたことがないな」
「この野郎!馬鹿にしてるな。俺さまはな、何でもできるんだぞ。見てな!」
そう言うと、墨っ子は掛け軸に向かって、ふうっと息を吐いた。すると掛け軸の墨が動いて別の字になった。
「へへん。どうだい?俺さまは墨に関しては自由自在だ」
「ほおお、すごいなあ」
「だろ?…、で、おまえ達は?急に現れたり俺さまが見えたりして、普通の人間じゃねえよな」
「僕は陰陽師の安倍晴茂といいます。これは僕の式神で琥珀です」
「あっ、そっ。陰陽師ね。だから俺さまが見えるんだ。…、琥珀っていうのか?おまえ可愛いじゃないか」
二人は、この墨っ子は憎めないやつだなあと感じた。面白い精霊だ。晴茂は、自分の知らないものもまだたくさんいるんだなあと、再確認した。
座敷童の類なのだろう、人間に悪さをする精霊ではない。むしろ、吉を呼び込む精霊なのかもしれない。
晴茂は聞いてみた。
「墨っ子様、この会館のことは何でもご存知ですよね?」
「そらあ、そうだ。俺さまはここに住んでいるからな。何でも分かるよ」
「最近、この会館に異変は起ってませんか?悪霊が入って来たとか」
「えええっ!悪霊、…。そっそんなものは、…」
墨っ子は悪霊と聞いただけで怯えてしまった。何か知ってるな、と晴茂は思った。
「見ましたね。悪霊」
「あっ、あれ、あれって悪霊だったのか?…な?」
「墨っ子様、私が悪霊をやっつけますから、大丈夫ですよ」
琥珀が優しく言った。
「ななあに、悪霊だったのなら、俺さまがやっつけるんだったなあ。ははは、…」
「悪霊は、何をしていましたか?」
墨っ子は、辺りをきょろきょろと見回しながら言った。
「今、どこかにいるのか?この会館の中にいるのか?」
「分かりません。霊気はないみたいですけど」
「あいつ、昨日の夜、やって来た。あちこちの部屋をうろうろしてた。この部屋も覗いて行ったんだ。俺さまが、出て行ってやっつけようとしたら、消えてしまったけどな。どんな悪霊なのかな?」
「分からないから、聞いているんですよ」
「あっ、そうか。そう言えば、昨日の昼間に、書道会の準備に来ていた人間たちが話してたんだが…、井戸水が出ないとか何とか。ここは水道水と井戸水の両方を使っててね。ほら、書道の硯と墨には井戸水の方がいいんだよ。だから井戸水を汲めるようにしてあるのだけど、どうも井戸に水がないとか言ってた。ここの井戸水が枯れるのは聞いたことがないけどね」
「いつからだろう。あやしいね」
「先週の土曜、日曜にあった習字教室では、井戸水を使ってた」
「琥珀、井戸へ行ってみよう」
「おお、俺さまはここで待っててやるからな。井戸はこの会館の裏だ」
二人は、会館の裏にある井戸にやってきた。小さな屋根を設えた小屋の中にある井戸には鉄製のふたがしてあり、ポンプが備え付けてある。その小屋に入った途端、二人は強烈な霊気に見舞われた。飛んで小屋を出ると、琥珀は身構えた。
「すごい霊気です、晴茂様」
「その井戸の中に菊子の霊が潜んでいるな」
「誘い出しましょうか?」
「いや待て、琥珀。今、事を起こすと、菊子の霊はまた姿を隠すだろう。菊子は、今日の書道会のために準備をしてきたはずだ。だから、それを待った方がいい。よし、一旦墨っ子の部屋へ戻ろう」
晴茂は墨っ子の力も借りようと考えた。菊子の悪霊は、水差しに細工をし、その水差しに入れる井戸水にも細工をしているのだと、琥珀と墨っ子に話した。
「悪霊がどんな細工をするにしろ、水差しと井戸水は書道の墨をするのに使うはずだ。墨といえば、墨っ子様、あなた様の出番ですよね」
「おお、そりゃあ、まあ墨とくれば、俺さまの出番だな」
「水差しと井戸水で、悪霊は何かを仕掛けてくるはず。その時に、墨を使えば、墨っ子様の力で悪霊の細工は破れますから、機を逸せずよろしくお願いしますよ」
「そうそう、そりゃあ墨汁の中では、墨が主役だからね。水よりも墨の方が強い。そして、俺さまは墨を操る」
「できますか?墨っ子様。悪霊の技を抑えて、墨本来の力を発揮させる」
「おおぉ、あ…悪霊の技を、…よおし、俺さまに任せてくれ。悪霊と直接対決するのは気が進まないが、墨の力を操るのは造作のない話だ」
「よし、これで決まりだ。琥珀は、出席者と墨っ子様を守るんだ。特に子供も来るので細心の注意を頼む」
「はい、晴茂様」
「おいおい、ちょっと待て!子供を守るのはいいとして、琥珀が俺さまを守るのか、この琥珀が…。ははは、…俺さまは、墨の精、墨っ子様だぜ。自分のことは自分で守るぞ」
「それは、もちろんです、墨っ子様。でも、子供たちが危険になると、墨っ子様も子供を助けなければなりませんから、その時の、万が一の時の補助として琥珀がいる、そんな訳ですよ」
「あっ、なるほどな。琥珀は俺さまの補助ね。うん、そういうことだね。補助ね」
「では、僕はちょっとここを離れるが、書道会が始まるまでには戻ってくる。それまで、琥珀は怨霊を見張れ。誰かに危害が及びそうになるまでは、手出しするなよ、琥珀。菊子の霊力は相当強い、気を付けるのだ。墨っ子様は、もう一度この会館の中を探索して、異常がないか確認をお願いしたい」
「はい、晴茂様」
「うん、分かった、分かった」
そう言い残すと、晴茂はどこかへ飛んで行った。




