伸上り<4>
もう、夕刻だ。真弓が晴茂に聞いた。
「晴茂さん、今夜はどこのホテルに泊まるのですか。この近所ですか」
「あっ!」
晴茂は、うっかりしていた。琥珀と自分ならどこででも寝れると思い、宿は予約していない。
「あれ、兄ちゃん、泊まるところ決めてないの?」
琥珀は、晴茂の方を見ながらにやっと笑いながら、わざと聞いた。
「ああ、いやあ、参ったなあ。もう一度、筆司さんに聞いて来るよ」
親切な筆司さんだ。知り合いのホテルに電話をし、何とか二部屋を確保してくれた。
少し遠いので、わざわざタクシーまで呼んでくれた。晴茂は何度も礼を言うとタクシーに乗り込んだ。
「真弓さん、すみません。すっかり宿は忘れてました」
「いいえ、晴茂さん。こんな旅行の方がおもしろいわ」
「兄ちゃん、大事な真弓さんなんだから、しっかりしてよね」
琥珀は、真弓がいる時には晴茂の妹を演じて、そんな横柄な口がたたけるので、にこにこしながら言った。
ホテルに着いて、真弓と琥珀が相部屋で晴茂は別の部屋に分かれた。夕食をホテルで食べた後、晴茂と琥珀はカワウソの毛で作られた筆を前にして考え込んだ。真弓は別の部屋でくつろいでいる。
晴茂は、腕組みをして考えていたが、ぼそっと言った。
「琥珀、この筆から妖気は出ていないが、カワウソの霊を呼び出してみるしかないな」
「高入道がカワウソの変化した妖怪なら、この筆毛の霊が何か知っているかもしれませんからね」
「それは分からないが、今はそれしか手掛かりがないし…」
「はい、晴茂様」
「霊を呼び出すから、何か異変を察知したら、真弓さんを守れよ、琥珀」
「はい」
晴茂は呪文を右手に吐くと、ふっとカワウソの筆に飛ばした。何事も起こらない。数十年前に死んだであろうカワウソだ。しかも、その毛だけなのだ。容易に霊を呼べないのも当然だ。
「やはり、難しいか。人の霊ではないし…」
そう言うと、晴茂は気を静め、もう一度、呪文を飛ばし念じた。筆の毛が薄く光った。すると、薄らとカワウソが姿を現した。今にも消えそうな薄い影だ。
「私を呼んだか?」
「聞きたいことがある」
カワウソはしっかりとした姿を取れていない。ぼんやりとしたカワウソの姿だ。かなり弱い霊なのだろう。琥珀は、気をカワウソの霊に集中していた。
「おまえは、高入道を知っているか?」
「知っているとも」
「おまえが、高入道に変化したのか?」
「なに?私の霊力が強くないのは、分かるはずだ。高入道に変化するだけの力はない」
「最近この近くで、高入道が現れている。誰の仕業か知っているか?」
「知らないぞ。私たち日本カワウソはもうこの世にはいない。おまえ達、人間に滅ぼされた。変化できるカワウソがいるとは思えない」
「おまえは、その筆のカワウソの毛だ。その毛の主はどこにいる?」
「私の身体は、既に朽ちている。この世に、残っていない」
「もう一度聞く。誰が高入道に変化したのだろう?」
「この筆のように、毛が残っているなら…。それが集まって束になれば、おまえと一戦交えることも出来るかもしれぬ」
そう言うと、弱いながらもカワウソの目が光って敵意を示した。琥珀はそれを察知し身構えた。
「はははは、そこの女。私の力は弱いと言っているではないか。構えるまでもない」
「体毛でも集まれば妖気が出ると言うのか?」
「そうだ。束のように集まっておればの話だがな。高入道に変化もできるだろう」
「そうか」
晴茂は、用が済んだのでカワウソの霊を消そうとした。
「待て」
カワウソの霊は残る力を振り絞って話を続けた。
「昔、私たちカワウソと人間は、共に暮らしていた。悪さをするやつがカワウソにも人間にも時々いたが、それはお互い様でな。概ねは一緒に暮らしていた。それがどうだ。人間が、私たちカワウソが棲めない土地にしてしまった。おまえ達、人間の欲の所為でな。
こんな自然豊かな国土を、なぜコンクリートやアスファルトで固めないといけないのだ。食べ切れもしない食料を、なぜたくさん作らなければならないのだ」
絶滅したカワウソが、人間に警鐘を鳴らす。
「人間のやっていることは、いずれおまえ達人間も滅ぼすことになる。人間は、なぜ自分の手足を使わなくなったのだ、なぜ私たちカワウソと歩いたり走ったりしなくなったのだ。おまえ達人間も、私たちと同じ動物だったのだと、気付く日が来るだろう。その時には既に、おまえ達人間も住めない土地になっているのだろうよ」
そんな話が終わる頃には、カワウソの姿は薄くなって消えかかっていた。晴茂は、右手をかざし、「とうっ」と呪文を飛ばしカワウソの霊を消した。
「晴茂様、カワウソは本当に絶滅したのでしょうか」
「私には分からない。しかし、絶滅していないとしても、もう彼らが生き延びる場所は少ないのだろうな」
「可哀そうです」
「長い目で見れば、自然の摂理だな。しかし人間は、他の生き物も同じ生命だと、もっと感じないといけないよな」
琥珀は、カワウソ達が可哀そうで泣き出しそうになった。人間の所為で生きる場所も奪われ、餌も奪われたのだ。自分が人間になった事を誇らしげに感じていた琥珀だったが、人間の本性をカワウソに聞かされた思いだ。
頂点に立った者は、何よりも謙虚にならなくてはいけないと、カワウソは教えてくれたのだ。
「琥珀、どうした?大丈夫か?」
「はい、晴茂様」
「明日は、この筆を返しに行って、カワウソの毛の束を調べよう」
「はい」
「じゃあ、真弓さんをよろしくな」
「はい、晴茂様」




