人間へ<8>
起きて座り直した琥珀に晴茂は声を掛けた。
「どうだ?身体の調子は…」
「はい、晴茂様。身体の調子は、…普通です」
琥珀は、『わたしは病気でもしてたのかしら?』変な質問だなと思いつつ、小首を傾げて答えた。
「そうか、それは良かった。今、パンなんかを食べていたのだけど、琥珀も食べるか?」
「はい、食べます。腹が減りました」
「パンはテーブルの上、飲み物は冷蔵庫の中にある。好きなパンを食べな」
琥珀は、実際腹が減っていた。テーブルにあるパンを見て自分の好きなものばかりだと思った。冷蔵庫からカフェオレを出して、パンを食べ始めた。晴茂もテーブルに来た。
「おっと、服を着せなけりゃいけないな」
晴茂は呪文を飛ばし、琥珀にいつもの服を着せた。
琥珀は今起きたのだが、それ以前の記憶がない。いや記憶がない訳ではない。晴茂様は陰陽師で自分は晴茂様の式神だ、琥珀石から造られたので『琥珀』と名付けられた。山中で晴茂様の修行中に色々とお世話をした。そして、十二天将の式神たちにも会った。九尾のキツネと晴茂様の対決があった。等々、出来事としての記憶はあるのだが、どうもすっきりしない記憶だと、琥珀は感じた。
そして、元の崖の土の中にいた時、晴茂様から呼び出しの呪文が届いて、『あれっ?』、そこから先がよく分からない。パンを食べながら思い出そうとしたが、思い出そうとすると頭が痛くなる。貴人が居たような気がするけど、何か眩しい光を見たような、えっと場所はこの部屋か?琥珀は、頭痛のする中で断片的に記憶を辿った。しかし、ついに頭に激痛が走った。『うっ!』と声を出して、琥珀は頭を抱えて、テーブルに突っ伏した。
晴茂は、驚いた。
「どうした?琥珀」
「いいえ、大丈夫。起きる前の事を思い出そうとしたら、頭が痛い」
貴人が心を写して琥珀の心に入れた事は記憶から消されたのだな、と晴茂は理解した。
「ここへ来てから琥珀の容態が良くなかったので、貴人に診てもらった。記憶がなくても心配ないよ。ずっとここで寝ていたんだから」
「ええっ、ずぅっと寝てたのか?」
「そうだよ。頭が痛いのは、もう少し休めばいいだろう」
「はい、でももう大丈夫です。気分は悪くないし。そうか、ずっと寝てたのか。今何時ですか。丸一日くらい寝てたんですね」
琥珀は、時計を見ながらそう言った。
琥珀は三個目のパンを手に取った。
「おいおい、そんなに食べて、すごい食欲だ」
「だって、どれも私の好きなパンばかりなんだ」
晴茂の買って来たパンが、琥珀の好みに全部合っているのは、当然の事だ。晴茂は、しかし、むしゃくしゃと食べる琥珀を見て、これは自分が女性だと分かっていないなと思った。
晴茂の心を持った琥珀だが、その心から男としての経験を消してあるので、性別なしの状態なんだ。修正しておかねばならないと、晴茂は琥珀に話しかけた。
「琥珀、よく食べるな」
「はい、晴茂様。うまいです」
琥珀は口の中にパンを入れながら答えた。
「琥珀、おまえは男か女か?」
琥珀は、晴茂の突然の問いが一瞬理解できなかった。パンを呑み込みながら、琥珀は自分の身体を見た。
「えっ?おんな、…あっ!」
琥珀は、恥ずかしかった。テーブルに両肘を突き、足を組んで椅子にだらしなく座っている。こんな姿でパンを頬張る女性を、琥珀は最も嫌うのだ。それを、自分がやっている。何故?こんな恰好をしているのだろう、と琥珀は穴に入りたいくらい恥ずかしかった。
パンを籠の中にそっと置くと、琥珀は椅子から床に正座し直し、頭を床に着けながら言った。
「晴茂様、お許しください。女性の私がこんな恥ずかしい恰好をしました。どうかお許しください」
「琥珀、おまえは美しい娘だ。あんな恰好は良くない。それに、言葉遣いも女性らしくなかったぞ。僕は、琥珀を美しい娘として造ったのだから、そのように自覚してもらえるな」
琥珀は、『はい』と答えるのが精一杯だった。
式神としての私の役割は、晴茂様のお世話だ、と知りながら、目覚めてからの自分の行動はどうかしていた。それを思うと、反省で琥珀の頭の中は一杯になった。頭を上げられない、恥ずかしくて、悔しくて。
「琥珀、もういいから。病上がりだから仕方がないよ」
「申し訳ありません。晴茂様」
琥珀は、頭を床から離さない。晴茂は、少しやり過ぎたかなと思った。
「ほら、食べかけのパンがあるんだから、食べたらどうだ」
琥珀は、晴茂に手を取られて椅子に腰掛けた。涙が止まらない。そこにティッシュがあると晴茂に言われ、涙を拭いた。
椅子に清楚な座り方をした琥珀だった。しかし、食べかけのパンは、もう喉を通りそうもない。琥珀は、食べかけのパンを恥ずかしそうに手に取ると、ティッシュに包んだ。
「はははは、後で食べるのか、琥珀。はははは」
楽しそうに笑う晴茂を見て、琥珀からもやっと笑みがこぼれた。




