足洗い<19>
晴茂と太陰が、伊香保の北外れにある神社の境内に姿を現した。朱雀は神社の奥にある高い木の枝にいた。神社はひっそりと静まり返っていた。
「おやっ、ここは蛻の殻ですわよ」
「そうだな、何の気配もない。朱雀、どうだ?」
晴茂は、上を見上げて言った。
朱雀が降りてきて、スズメの姿に変わると、晴茂の肩に止まった。
「妖気も何もありません」
ここには、何の痕跡もない。
「では、足洗いの屋敷に行くぞ」
次に晴茂と太陰が姿を見せたのは、最初に妖怪足洗いが出た御手洗家の裏納屋の前だ。納屋の中に入ってみた。荒れた納屋の中にも気配はない。以前は、直ぐに分かる妖気が漂っていたのだが、今は全く気配がない。
晴茂は、例の掛け軸を探した。妖怪足洗いが封印を解かれて抜け出たと言った掛け軸だ。確かに多くの掛け軸が散らばってはいるが、その掛け軸だけが見当たらない。
「あらぁ、晴茂様、やはり分福茶釜も足洗いも、偽物だったのかしらねぇ」
太陰は納屋の中をうろつきながら呟いた。
しかし、伊香保の神社といい、この納屋といい、これ程までに気配を消し去るとは、桁外れの妖術を使うのか。これだけ痕跡が消されてしまうと、探索の方法がない。
晴茂が諦めようとした時、上空を舞っていた朱雀から念が届いた。『山の中に妖気の痕跡がある』と言う。二人は、直ぐにその場所に向かった。
朱雀の待つ場所は、御手洗家から南へ下がった森の中だ。小川が流れる湿地があった。朱雀は、スズメの姿で晴茂を誘導した。湿地を過ぎた森の斜面、小さな祠がある。その祠が遠くに見える場所に朱雀が止まった。
「確かに、妖気だわ」
太陰が呟いた。その祠は、狸の棲家なのだろうか。
「もう少し近づかないと、何の妖気か分からないですわねぇ。朱雀、探れないかしら?」
朱雀が晴茂を見た。晴茂が頷いた。
朱雀は、スズメの姿のままで祠に近づいた。低木の枝から枝へ飛びながら、祠の直ぐ上の木に止まった。そこで様子を探った朱雀の言うには、古狸の妖気を感じると。
「朱雀、中に古狸がいるなら、追い出してくれ」
朱雀は、火の玉を燃やすと、羽根で風を起こし、祠の中へ朱雀の火を送り入れた。暫くして、大きな狸が祠から飛び出してきた。祠からやや離れた所に、晴茂がすくっと立つ。それを見た古狸は、ぴょんと飛び、若い男に変化した。人間に見つかっては厄介だと思ったのだろう。
晴茂は、すたすたと若い男に近づいて言った。
「おやおや、古狸の妖怪ではないですか。ほら、僕ですよ。御手洗家の納屋で会った…」
若い男に変化した古狸は、じぃっと晴茂を見て、思い出したように言った。
「ああ、あの時の陰陽師」
「あなたの棲家はここだったのですか」
「ああ」
「ところで、足洗いの古狸はどこにいますか。会って聞きたいことがあるのです」
「ああ、あの古狸。知りませんよ、居場所は…」
「知らないって…、でも、足洗いのやり方を教わったのですよね」
「いいや、別に教わった訳ではありません。わたし達、古狸は、予め足洗いの知識はありますから…。それをやっただけですよ」
「でも…、あの時、あなたは、白髪の老人の姿をした古狸と一緒にいて、しかも掛け軸の話までしたじゃないですか。掛け軸から封印を解いて出てきたと…」
「ああ、そうですが…。わたしが、足洗いをして、陰陽師に見つかって逃げようとした時に、突然あの古狸が出てきたんです。わたしはてっきり古狸の先輩だろうと思ったまでで、それまでも、その後も、会ってもいませんし、話もしていませんよ」
太陰が、晴茂の横に姿を見せた。古狸の男は、急に現れた太陰を見て驚いた顔をした。
「あらっ、古狸さん、そんなに驚かないでよ。怪しい者ではありませんわ」
そう言ったが、太陰のその風体は現代ではけっこう怪しい。
「お聞きしたいの、古狸さん。その白髪老人に化けた狸って、本当に古狸でしたかしら。もしかして、何者かが古狸に化けていたとか…」
古狸の男は、さあぁと言って首を傾げた。
晴茂も太陰も、この古狸は確かに狸の妖怪で、しかも掛け軸から出てきたという足洗いの妖怪や、分福茶釜とは無関係だと感じた。この古狸の男にこれ以上聞いても何も出てこないと、諦めた時だった。
「そういえば…」
「なあに、古狸さん。何かありましたかしら」
「ああ、何とも言えませんけど…。陰陽師なら知っているでしょうが、我々、狸の妖怪は、何物にでも化けます。けど、知らない物には化けられません」
「はいはい、よく知ってますわ。妖怪の中で、他の物に化ける能力は、古狸さんが一番ですわ。それはそれは素晴らしい変化の術でございますわ」
古狸の男は照れ臭そうに頭を掻いた。
「いやいや、そうですか。わたしの今のこの姿も、妖怪になって初めて会った人間の姿です。見事なものでしょう…」
古狸の男は胸を張った。
「あっ、いやいや、そんなことではなくって…。あの白髪の老人ですが、…。わたしは、あの老人の後ろに立つことが多かったのです。その時にですね、あの老人の白髪を透かして見える首の後ろがですね、…やけに黄色かったのを覚えています。黄色の縞模様です。
狸の妖怪が変化するのは、人間なら実際に存在する人間の姿そのものに寸分違わず化ける訳です。と言うことは、白髪で首筋が黄色い縞模様の老人が実際にいるはずですが…、首の後ろに、あんな黄色い筋を持つ人間がいるのだろうかと…、感じました。いやぁ、いるんでしょうね、きっと…」
太陰は、話を聞きながら、顔を曇らせた。
「それは…、もしかして…」
太陰が、近くにあった木の幹を手の平ですっと撫でた。
すると、木の幹が黄色と黒の縞模様になった。そして、すぐに元に戻った。
「こんな感じでしたかしら?」
「ああ、びっくりさせないでください。でも、そんな模様でした」
「土蜘蛛…?」
晴茂と太陰が、同時に呟いた。
白髪老人に化ける古狸、元々は土蜘蛛の妖怪…なのか。




