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琥珀色の心  作者: 柴垣菫草
第十章 雲外鏡
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雲外鏡<10>

 晴茂と琥珀は、おそでが好きだったという裏山に入った。今は公民館が建っている場所の裏だ。何か手がかりはないかと探し回ったが、これでは余りにも雲を掴むような話だ。長時間森の中を歩いた二人は、西に広がる干拓地が見える場所に来て、石に腰を下ろした。印旛沼が見える。


「あああ、晴茂様。何を探せばいいのか分からないのは、果てがないですよ。三百年も前の、おそでちゃんの痕跡といっても、何が何だか、…もっと絞れないのかなぁ。


焼き払われた宗吾(そうご)さんの家の跡に行った方がいいかもしれないし、この辺りの古いお墓を巡って見るとか、何か妙案はないので…」


琥珀が話をしている横で、晴茂はぼそぼそと口の中で呟いている。琥珀がそれに気付いて晴茂を見ると、晴茂は両手で印を結び目を閉じて小さな声で呪文を唱えている。手で組む印を時々変化させながら、晴茂は無心で呪文を吐いているのだ。琥珀は、その晴茂の気迫に圧倒され、口を噤んだ。


 琥珀は暫く晴茂の様子を見ていた。すると、晴茂はすくっと立ち上り、右手を天に伸ばすと指先で五芒星を切った。それまで澄み切った秋空が一転して曇天に変わる。黒っぽい雲が晴茂の切った五芒星から立ち登ってゆく。細い竜巻のような暗雲が、天に向かって伸びた。


晴茂のまわりの空気がぴんと張り詰めた。何物も寄せ付けない気迫だ。


琥珀は驚いて立上り、晴茂からやや離れてその様子を見ていた。晴茂の呪文は続いている。


すると、どうだ。立ち登った雲を伝って、人間が天からすっと降りてくる。晴茂の前でその人間は一瞬姿を見せ直ぐに消える。そして、また別の人間が天から降りてくる。一瞬姿を見せては消える。


降りてくる人間はは老若男女まちまちだ。姿も立派な着物を着ている者もあれば、粗末な格好のものもいる。百姓、武士、町人、旅人、等々、次から次へと降りてくる。それは、凄まじい光景だ。琥珀にしても、その物凄さに数歩後退りをしたほどだ。


そうか、あれは死者の霊か。晴茂は、死者の霊を次々と呼んでいるのだ。


 百霊ほどが降りては消えただろうか。ひとりの粗末な身なりの老婆の霊が、晴茂の前で止まった。乞食の霊だろうか。粗末な身なりというより、ぼろぼろの着物だ。


痩せ細った身体を太い竹の棒で支えている。足が悪く、歩くのも不自由なようだ。


「わしを呼んだのは、おまえか?」

息がどこか漏れているようなかすれた声だ。


「教えてくれるか。木内宗吾(そうご)の家に出入りしていたおそでは、どこに眠っている?」

晴茂が聞く。


「おそで?…、ああ、…あのおそでなら、御蔵(みくら)村の墓じゃ」

「確かか?」


「確かも何も、わしが(とむら)った。可哀そうな娘じゃ。宗吾様の家族の後を追って、自害しおった」

「そうか。礼を言う」


晴茂は、右手で大きく印を切った。老婆の霊も、黒い雲柱も、五芒星も消え、元の空に戻った。


 琥珀が、黒雲の消えてゆく様子を見ていると、どっと晴茂がその場に倒れるのが見えた。琥珀は晴茂に駆け寄った。晴茂は気力を使い切った様子だ。息も絶え絶えではないか。回復の術を頼む、と晴茂の声が微かに聞こえた。


 琥珀は、晴茂に回復の術を施した。晴茂の気が強くなってきた。ようやく目を開けた晴茂は、琥珀の手を取り自分の胸に当てた。

「琥珀、もう一度、回復の術を、…」

琥珀は、晴茂の様子が尋常ではないと感じた。

「は、はい、晴茂様」


琥珀は呪文を唱え、左手で印を切り、晴茂の胸に向かって喝を入れた。

「晴茂様!」

心配そうに琥珀が呼びかけた。晴茂は、微笑むとやっと立ち上がり、石に腰を下ろした。

「いやあ、百霊以上も呼ぶことになってしまった」


 晴茂が行った術は、安倍家の秘伝、『雑鬼招霊(ざつきしょうれい)』の術だ。本来、霊を呼ぶには、実際に霊が眠る墓所で直接霊に働きかけるのが普通だ。直接、霊に働きかけられない場合でも、霊に所縁(ゆかり)の品物などを媒体として霊を呼ぶのだ。


しかし、全く霊と無縁の状態で、その霊を呼ぶには、それ相応の気力と術が必要だ。それが『雑鬼招霊(ざつきしょうれい)』の術だ。


晴茂は、おそでがよく来たというこの場所で、時代だけを限定して、おそでかおそでを知る霊を探したのだ。無縁の状態で百霊以上を呼んで、ようやくおそでを知る霊に出会った。


さすがの晴茂でも気力を使い切るのは当然だ。

「心配するな、琥珀。おまえの回復の術で生き返った」

「晴茂様、驚かさないでください!」


「ああ、すまない。…、暫く休みたい。膝を貸してくれ」


 晴茂は、横に座る琥珀の膝に頭を乗せると目を閉じた。晴茂は、気力も体力も消耗し切ったのだ。琥珀は、晴茂の身体を包むように抱き、晴茂の回復を祈った。そうしていると、晴茂の身体の温もりが伝わってくる。


もし…、晴茂がいなくなったら、自分はどうすればいいのだろう。晴茂のいない自分の存在とは何なのだろうと、琥珀は晴茂の顔をしげしげと見つめた。そんなことを考えていると、心臓の鼓動が高鳴る。すると何故か涙が溢れ、晴茂の顔に落ちた。琥珀は天を仰ぎ、止まらない涙を手で拭った。


どれ位の時間、琥珀は晴茂を抱いていただろうか。既に陽は西の地平線に消えていた。


 晴茂は、息苦しくなって目を覚ました。琥珀が、晴茂の上半身を抱きかかえている。琥珀の柔らかい乳房で、晴茂の口と鼻が塞がれたのだ。晴茂は手で琥珀の身体を軽く叩いた。


「琥珀、苦しいよ。うぷっ…」

「あっ、晴茂様!生き返った」


「何を言ってるんだ。最初から死んでいないよ」

「だって、こんなに長く眠っているから…」

琥珀の目には、まだ涙が溜まっていた。


「いやあ、ごめん。随分眠ったようだなあ。腹が減った」

晴茂は立ち上って伸びをした。


「では、わたしが何か探して…」

「いやいや、どっかで食べよう。山を出ればレストランか何かあるだろう」


よかった、晴茂様は無事だったのだ。琥珀は、笑顔で涙を拭って、晴茂の後を追った。


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