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琥珀色の心  作者: 柴垣菫草
第一章 予兆
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予兆<12>

 帰りは圭介の式神である柴犬が先導して山を下った。冴子は足が痛いと騒いでいる。さすがに男勝りの冴子でも、今日の山歩きは堪えただろう。晴茂が冴子を背負ってやることにした。冴子は照れながらも、足が痛くてもう歩けないと言う。


 柴犬と圭介が前で歩き、その後ろを晴茂が冴子を背負って進んだ。暫く行くと柴犬がピタッと止まった。身を低くして構えている。

「圭ちゃん、どうした?」

「何か妖気を感じる」


晴茂は気を集中した。確かに妖気だ。しかし、山の奥は色々な気が潜むので、多少の妖気らしきものは漂う。この妖気に危険はないと晴茂は感じた。

「冴ちゃん、ちょっと降りてくれる?」

「どうしたの。何かいるの?」

冴子を背から降ろしかけた時、圭介が叫んだ。

「そこだっ!」


冴子を降ろした晴茂が振り向くと、木の陰に隠れている何者かに圭介が術を飛ばしたのが見えた。芦屋家に伝わる痺れの術だ。術を受けると全身が痺れて動けなくなる。木の陰にいるのは、人間よりやや小さく、猿に似ているが毛が長い。頭の毛が異常に長く、足元まで垂れている。黒っぽい毛だ。異獣(いじゅう)という妖怪だ。晴茂は朱雀(すざく)に冴子を守れと指示をして、圭介に叫んだ。


「圭ちゃん、やめろ! そいつは、悪さをしない」

倒れた異獣に止めの術をかけようとしている圭介が、晴茂に返事をした。

「しかし、こいつは妖怪だぞ」

圭介は手を緩めようとしない。柴犬が異獣の背後に回ろうと動いている。その時、晴茂は強い妖気が森の奥から迫って来るのを察知した。『これは?』と目をやると、どんどんと妖気が強くなっている。圭介が危ない。


「圭ちゃん、やめろ!」

晴茂は、圭介に叫ぶと同時に、青色の五芒星(ごぼうせい)の印を切った。森の奥から稲妻が圭介に向かって放たれた。鋭く飛んできた稲妻は、圭介の僅か手前で護身の五芒星に遮られて飛び散った。バリバリと稲妻が弾ける大音響が辺りに響いた。異獣の背後に回っていた柴犬は、稲妻に打たれ高く飛ばされてしまった。そして、焼け焦げた葉っぱになって落ちてきた。


 一瞬の出来事だった。晴茂は森の奥を見た。妖気の出所を探った。牛の姿が見える。しかし、牛にしては頭に角はなく、一本足だ。()という妖獣だと晴茂は思った。強い妖気が圭介に向かっている。このままでは、圭介に再度攻撃をするかもしれない。妖気の強さから計ると圭介の敵う相手ではない。


「圭ちゃん、そこで動くな!圭ちゃんの勝てる相手ではない」

圭介は、目の前で飛び散った稲妻の威力に胆を抜かれた。腰が抜けて動けと言われても、動けない。夔が放つ妖気の目的は異獣に術をかけた圭介への報復だろう。


晴茂は、異獣を助け敵意のないことを示すしかないと考えた。晴茂は回復の呪文を唱えると異獣に向かって飛ばした。異獣は圭介の術から解かれ、よろよろと立ち上り、ゆっくりと夔の方に歩き出した。

「圭ちゃん、絶対に動くな!雑念を払って無になれ!」


今、圭介が異獣か夔に敵意を示せば、おそらく夔は強烈な稲妻を放つだろう。晴茂は、後ろで座り込んでいる冴子にも言った。

「冴ちゃん、動かないで。呼吸を整えて静かにするんだ」

冴子には、夔も異獣も見えない。ただ稲妻が弾けた大音響だけは聞こえた。何か異変が起っていることは容易に分かっていた。


 この状態で再び夔が攻撃をしてくれば、今の晴茂は圭介と冴子の両方を助けることはできない。絶体絶命だ。もう一度、強く回復の呪文を唱え、異獣に飛ばした。少し異獣の歩みが速くなった。異獣が夔の所まで辿りつくのに長い時が流れた気がした。


『動くな!二人とも』 晴茂は、心の中で何度も呟いた。やっと異獣が夔の背中に飛び乗った。夔が後ろを向いて、ぴょんぴょんと森の奥に帰って行く。妖気も薄れてきた。助かった。晴茂は、妖怪との初めての対決を無事に切り抜けられた事で、胸をなでおろした。

「もう大丈夫だ。圭ちゃん、立てるか?」

「ああ」


 晴茂は、圭介が立ち上ったのを見て後ろの冴子を振り返ろうとした。その時、森の中を素早く動く白い影を見た。夔が戻って行った方向へ白い影が流れたのだ。『九尾(きゅうび)だ!』と晴茂は感じた。この様子を九尾(きゅうび)のキツネは眺めていたのだ。やはり、異獣を助けて正解だった。あのまま夔との攻防に発展していたら、九尾も攻撃に加わってきたに違いない。圭介は陰陽師としての経験が残るが、冴子は命を失っていたかもしれない。


晴茂は、こんな時に式神を自在に操れなかった自分に腹を立てていた。現に呼び出されていた朱雀だって、冴子を守れとしか指示が出せなかった。戦いに強い青龍(せいりゅう)白虎(びゃっこ)も呼び出せなかった。唯一できたことは、圭介を守る五芒星を放っただけだ。


それに、安倍晴明(あべのせいめい)に授けてもらった式神十二天将の各々の特技も、まだ把握できていない。圭介の陰陽師としての技量を云々するより、自分の能力を磨くべきなのだ。晴茂は、情けない自分を恥じた。そして、安倍晴明に言われた言葉が、晴茂の頭を回っている。


「晴茂、おまえは陰陽師の修行などしなくても資質が備わっている。しかし、いつでも雑念を払えるように心がける事だ。雑念はおまえの動きを阻害する。常日頃から心を清く研ぎ澄ましておく事じゃ。それがおまえの修行だ」


 そうだな、異獣を見た時に感じた『この妖怪は悪さをしない』という自分の心の声を、もっと素直に受け入れるべきだった。もっと堂々と異獣を助けるべきだった。この妖怪との遭遇では、戦いに発展する要素はなかったのかもしれない。


「冴ちゃん、さあ、帰ろう」

冴子には、異獣も夔も見えていなかった。しかし、夔の放った稲妻と五芒星とがぶつかり、稲妻が飛び散ったのは見えたし、大音響も聞こえた。そして圭介の式神が焼け消えたのも見た。何か恐ろしいものが迫っている気配は感じていた。晴茂が差し伸べた手にすがった冴子の手は、冷たく震えていた。『ごめんね、冴ちゃん』 陰陽師として晴茂は、心の中でそう詫びた。


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