橋姫<13>
晴茂は、呪文を唱えた。反魂香の元となっている香煙を消す呪文だ。枯れ枝の中心で鈍く燃えていた火が徐々に小さくなってゆく。それと共に、白い香煙が薄れてきた。道珍の姿も薄れてくる。晴茂の『喝!』という声と共に、火が消えた。
道珍の姿が消えて行く。橋姫は、道珍の居た場所に手を伸ばしたが、すでに何も触れることができなくなっていた。
晴茂は、橋姫の方に近づいた。
「綾殿、これを…」
橋姫は、お沙世の真珠を受け取った。
「あっ!お沙世ちゃん」
真珠を手にした橋姫は、心にお沙世を感じた。
そして、お沙世の言葉が橋姫の心に届く。
『綾ちゃん、ありがとう。綾ちゃんのお蔭で私は生贄から逃れられたのです。ずっとお礼を言いたくて、…、やっとお礼ができる』
橋姫は、真珠の玉を握りしめた。お沙世の顔が昨日のように思い出された。
「綾殿、覚悟はいいか」
「はい」
それまで微動だにせず、成り行きを見つめていた琥珀が、橋姫に走り寄ってお別れを言った。
「綾子さん、幸せになってね」
橋姫は大きく頷いた。そして琥珀の耳元で、そっと小声で言った。
「琥珀ちゃんもね。晴茂さんと離れてはいけませんよ」
琥珀は耳たぶが熱くなる不思議な感覚に包まれた。
晴茂が呪文を唱える。琥珀は橋姫から離れ、晴茂の後ろに控えた。
橋姫は手に真珠玉を握りしめ目を閉じた。真珠が手の中で熱くなってきた。橋姫は手の中の真珠に気持ちを集めた。橋姫の妖気を真珠が吸い取っているのだ。
晴茂は呪文を唱えながら橋姫に近づき、右手の人差し指と中指で額にそっと触れた。
妖気は消えつつある。晴茂が最後の呪文に入った。『木、火、土、金、水』と五行相生の印を切り、橋姫の額に当てた指先に気を集め、「とうっ!」と放った。
橋姫はその場に崩れ落ち、手から黒く変色した玉が転げ落ちた。お沙世の真珠玉が橋姫の妖気を全て吸い取った証だ。
「綾子さん、…」
琥珀は橋姫に駆け寄り、名前を呼んだ。橋姫の肩に手を当て名前を呼びながら揺さぶったが、意識は戻らない。琥珀は、晴茂を見上げた。
「橋姫は人間になった。しかし、意識を戻さない方がいいだろう。今は夢の中で道珍に会っているはず。このまま霊界に導こう」
「はい、晴茂様」
琥珀は、橋姫から離れた。
晴茂は、五芒星を放った。人間となった橋姫を白い五芒星が包んだ。隔離の五芒星だ。そして、晴茂は腹の前で、両手で印を結ぶ。晴茂の呪文が低く流れた。
すると、五芒星が白色から、やや緑色を帯び出した。
「こ、これは、…これは、攻撃の五芒星!」
琥珀は、五芒星に閉じ込めた気を消滅させる究極の五芒星、『攻撃の五芒星』を見ているのだ。
天后も見たことがないと言う『緑に光る五芒星』だ。
晴茂は気を溜め、呪文を吐き、右手を天に伸ばした。晴茂の右手からも緑色の光線が出た。その緑の光線が五芒星へ向かって流れた。五芒星の光と合体する。五芒星全体が緑に輝いた。眩しい緑色だ。
五芒星の中に取り込まれた橋姫の姿が、圧倒的な緑の光で見えなくなった。
「す…、すごいっ!この迫力は、…」
琥珀は、晴茂の天に突き出した右手と橋姫を包んだ五芒星を結ぶ緑色の光の威力で、身体が遠くへ飛ばされる気がした。それでも琥珀は、目をそらさず、『攻撃の五芒星』を脳裏に刻もうとした。
「だめ!もう…、限界だわ、これ以上、直視できない」
その時、晴茂は天を仰ぐと呪文を唱え、道珍の霊を呼んだ。
「来たか、道珍!」
琥珀が見上げると、五芒星の上に道珍の霊が白く浮かんでいた。
晴茂が、更に一言呪文を唱えると、五芒星の緑は一層鮮やかに輝き、ぴかっと光った。
やがて緑の光から白い霊が抜け出た。橋姫の霊だ。白い橋姫の霊は、頭上で待つ道珍の霊に吸い込まれ、合体した。
『さらばだ、晴茂殿』
琥珀には道珍の声が聞こえた気がした。徐々に静寂が戻ってきた。合体した霊は消えた。それと同時に緑の五芒星も消えた。
残ったのは橋姫の亡骸だけだ。琥珀は、柔和な微笑みを残した橋姫の顔を見た。綺麗だ。橋姫は美しい死顔をしている。琥珀の目には涙が流れていた。
「琥珀、その黒い真珠を破壊するんだ。妖気が詰まっている」
「はい、晴茂様」
琥珀は、涙を拭うと白虎の光線を放った。黒く変色した真珠玉は、光線で溶けて消滅した。
「よし、では次は波山だ。琥珀、波山を結界に封じるんだ」
さすがに晴茂も、究極の五芒星で体力を消耗した。火喰い鶏、波山の始末を琥珀に託した。
「はい、晴茂様。でも、綾子さんのご遺体は、どのように…」
「僕が、ここに手厚く埋葬しておく。行け、琥珀」
「はいっ!」
琥珀は飛んだ。山を下り、青龍と天后が見張る火喰い鶏の方角へ消えた。




