橋姫<11>
晴茂は、しばらく振りに修行の祠の前に立った。芦屋甚蔵おじさんに連れて来られて、安倍晴明に陰陽師を術を授かってから、まだ一年も過ぎていない。それにしては、懐かしさを感じた。結界を抜ける呪文を唱えて祠に入った。奥の穴の中で晴茂は、正座をし晴明を呼び出し、事の仔細を伝えた。
晴明を差し置いて道満に会う訳にはゆかない。安倍晴明像が光を放って、晴明の姿がおぼろげに現れた。晴明は、目を細め優しい眼差しで晴茂を見た。
「晴茂、その陰陽師の名前を道満に聞いてどうするつもりだ」
「その陰陽師の霊を呼び寄せ、橋姫に会わせます。そして、橋姫の念願を聞き届けてやりたいと思います」
「いくら霊だと言っても、芦屋家の陰陽師だ。橋姫を放っておくはずがないぞ」
「しかし、このまま橋姫を結界に封じるのは酷だと考えました。元来、橋姫は邪悪な妖怪ではありません」
「今、道満の魂を眠らせている。このような話を芦屋家の陰陽師に伝えても無駄だ。晴茂の思うようには運ばない。安倍家と芦屋家の家風を知って考えた計画ならば、愚策と言うしかない」
芦屋家は、異界の住人はこの世に居てはならない、という思想だ。だから、妖怪などを見つければ直ぐに結界に封じる。それは問答無用の考え方だ。一方、安倍家では、人間と異界の住人は、邪悪な者を除けば、両者は共存できるという考え方だ。妖怪でも無暗に結界に封じないのだ。
「はい、晴明様。では、どのような手がありますか。お教えください」
「安倍家の秘伝の中に『反魂香』がある。橋姫にその陰陽師を会わせたいのであれば、反魂香を使うがいい。霊を呼んで会すより晴茂の計画に沿う」
「反魂香ですか、…」
その時、晴茂の意識に強烈な晴明の念が届いた。安倍家秘伝のひとつ『反魂香』の呪術を授かったのだ。
「反魂香は、香煙を借りて死者の姿を具現化できる。実際の魂を呼び寄せるのではないが、その姿形は霊そのものだ。反魂香は実際の霊より強い力を持つ。なぜなら本物の霊に似せるために特徴を強調するからだ。
例えば邪念を持つ霊であれば、反魂香で出現させたものは更に強い邪念を内在させている。また逆に愛情を持つ霊であれば反魂香は更に強い愛情を持っている。その強調されたところを出させる事も、抑える事も、反魂香の香煙はおまえが自在に操れる。しかし、操らない時には、反魂香は強調された霊そのものの振る舞いをする。そこをわきまえて使う事だ。
もう一つ、反魂香は死んだ霊にしか使ってはならぬ。生きている魂に使うと、生霊が香煙に乗り移って絶大な力を持つことになる。その生霊の強さにもよるが、おまえが操れなくなる場合もある。当然、魂を抜かれた方は姿形だけが残り、やがては死ぬことになる。心して使うのだ」
「はい、分かりました、晴明様」
「橋姫を封じた陰陽師は芦屋道珍と言う。若くして亡くなっている。さほど強い陰陽師ではない」
「はい、晴明様」
晴茂が顔を上げると、晴明の姿が消えていった。晴茂は、晴明像に一礼し穴を出た。道満とは話をしなかった。ちらっと蘆屋道満の像を見たが、晴茂が最も不得意とする人物に見えた。いずれ蘆屋道満と相対する時が来るのだろうか。道満は、一時的にしろ安倍晴明の命を取った程の術師だ。晴茂はそんな事を考えながら、祠を出た。
反魂香、それは安倍家秘伝だけあって、使い方次第で世の中を奈落に突き落とすだけの威力がある。安倍晴明もその怖さが分かっているからこそ、これまで歴代の安倍家陰陽師に伝授していない呪術だった。その責任の重さを晴茂は心に秘めて修行の祠を後にした。夜がすっかり明けた頃、晴茂は婆娑橋の近くに、青龍、琥珀、天后を集めた。
「これから波山と橋姫を封じに行く。青龍、居場所は分かったか」
「はい、波山の居場所はつきとめました。ここから南に下がった所に小さい湖があるが、その湖畔で身体を休めている」
「妖力は回復しているのか」
「いや、まだ回復していないから、波山を封じるのは容易い事だ」
「橋姫は?」
青龍が答える。
「橋姫は、婆娑橋にいるだろう。他に行くあてもないだろうしな」
「よし、ではまず橋姫だ。琥珀、婆娑橋で橋姫、綾小路を呼べ。そして、芦屋道珍という人物の話を聞いてみてくれるか。道珍は、橋姫を封じた陰陽師だ。青龍と天后は、波山を見張れ」
青龍と天后は、波山の見張りに飛んだ。
晴茂と琥珀は、婆娑橋へやってきた。晴茂が身を隠した。琥珀は婆娑橋を渡り、橋の真ん中で止まった。谷を覗き込んだ琥珀に、橋姫の綾子が現れ声を掛けた。
「あら、琥珀さん」
「綾子さん。先日は、急にいなくなってしまったので、心配していました」
「ご免なさいね。人影が見えたので、怖くなって…。火喰い鶏には会いましたか?」
綾子は、波山を封じようとしたのが琥珀だと、知っているはずだ。琥珀は嘘を言っても仕方がないと考えた。
「会いましたよ。綾子さんも、その場所にいたんでしょ?」
綾子の目がきらっと光った。
「あら、私は知りませんわ」
「あの時、何故火喰い鶏を助けたのです?綾子さんのお友達、お沙世さんが火喰い鶏の生贄にされようとしたのでしょう。お沙世さんを助けるのなら分かるけど、火喰い鶏を助けるのは話が通らない」
そこまで言われ、橋姫綾子の表情は険しくなった。身体には明らかに妖気が漂い始めた。
「あなたに、何が分かると言うの」
「お沙世さんに聞きました。綾小路さん、あなたの事を」
橋姫は、きりっと琥珀を睨みつけた。
「お沙世ちゃんに会ったのか?何を聞いた?」
「あなたと若い陰陽師が、お沙世さんを助けたことを」
橋姫の目が輝いた。
「えっ?あの方は陰陽師なのですか?」
「芦屋道珍と言う陰陽師です」
「芦屋、…道珍様、…陰陽師。あの方は、芦屋道珍様」
「お沙世さんがこの婆娑橋を渡るのを、芦屋道珍とあなたは見ていたのでしょう。名前を知らない人だったのすか」
琥珀の問いには答えず、橋姫は焦って琥珀に質問する。
「その方は今どこにいるのです?琥珀さんは、道珍様をご存知なのですか?会いたい、…。会わせてください、琥珀さん」
どうやら橋姫は混乱しているようだ。結界の中で、どれ位の時が過ぎたのか理解をしていないようだ。
橋姫は、芦屋道珍の名前を聞いて、その方に会いたいと琥珀に涙を流して言った。芦屋道珍に恋焦がれているのだ。橋姫から妖気は消えていた。
「綾子さん、あなたが道珍さんに会ってから、すでに数百年が過ぎています。もうこの世にはいません」
「ええ?道珍様はいない?亡くなったのですか?嘘だ!わたしを放っておいて、死ぬわけはない」
「嘘ではありません」
橋姫は、まだ頭が混乱している。その陰陽師、道珍しか見えていないのだ。
「お沙世ちゃんは…?琥珀さんは、お沙世ちゃんに会ったと言いましたね。じゃあ、道珍様も…」
又しても橋姫に妖気が灯った。しかも、橋姫の邪悪な嫉妬の妖気だ。誰かが、道珍を隠している。いや、誰かが道珍の心を奪った。そう勘違いしている。
「おまえは、道珍様を隠しているのか。お沙世が、道珍様を隠しているのか。あの方は、わたしが恋焦がれたお人だ。おまえやお沙世に渡す訳にはゆかん」
そう言うと橋姫の形相は、みるみる嫉妬に狂う鬼になった。




