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 イタリア南部に構える地中海。その中でも最大の大きさをもつ島であるシチリア半島は夏真っ直中だった。温帯に属し、なおかつ夏場に乾燥するという気候的特徴を持つシチリアは、オリーブオイルとオレンジをはじめとする柑橘類の生産で古くから成り立ってきた土地だ。

 刺すような日差しの元に広がるオリーブ畑。その付近の土地にはオレンジやレモンの木が多数植えられた果樹園が存在しており、柑橘系の爽やかな果実の香りの中、仕事着に身を包んだ女達が乾燥した土に水を撒いて回るのだ。

 オリーブや果物の他に、比較的標高の高い地域では羊の放牧も行われており、コッポラ帽の下から日焼けした肌を見せる羊飼い達が、ルパラと呼ばれる短銃身散弾銃を携え、自らの財産である羊を害獣達から守っていた。

 農耕と牧畜。二千年も前から現代まで、その二つの要素で成り立ってきた自然豊かなシチリア。だが、そうした自然豊かな光景が見られるのは限られた田舎だけだ。州都のパレルモをはじめとする大都市は、一部の人々の深い欲望により、シシリー独自の景観を無視したいたずらな発展を遂げていた。

 近代化の一環として、政府がいくつかの建築業者へ数え切れないほどのビル建築の依頼を行った。

その結果、このパレルモの街は安請け合いで建築されたコンクリートビル密集地帯となってしまった。ノルマン式の宮廷建築物やバロック様式の協会をはじめとする、歴史的価値の高い文化財。それらは、何の飾り気もないコンクリートビル群に埋もれてしまい、あと数十年もすれば瓦解し新たなビルの建設地となってしまうのだろう。

 しかし、この街。いや、イタリア全土にまで蔓延する“欲深き人間達”の意向には誰も逆らうことはできなかった。なぜなら、彼らに対する抗議や反対意見を公にした人間は、一様に不幸な未来へと足を進めることとなったからだ。

 『我らの物』と呼ばれる欲深き彼らが支配する大都市パレルモ。その売春婦通りの一角に構える店。そこの壁に寄りかかり、二人の仲間と談笑する男。カルロ・ファヌッチは、このシシリーにおける支配階層に属する人間だった。

 真っ赤なワイシャツの上に、汚れ一つ無い純白のダブルスーツを着込む彼は、その身なりから有名な小説の登場人物に準えてドン・ファヌッチと呼ばれ、近隣住民からはそれなりの尊敬と同時に多くの反感を集めていた。

 尊敬はともかく、彼が周囲の人間の反感を集めているのには理由があった。

 それは、彼はこの売春婦通りのみかじめ料回収を一任されている男であると同時に、彼を扱う側の人間が設定した金額よりも決まって多い金額を、懐に忍ばせた暴力を見せつけて脅し取っていたからだ。当然、余剰な金は全て彼の財布の中に入ることとなり、それは、このパレルモに住む一般市民より良い暮らしを送るための重要な資金源となっていた。

 ファヌッチは二人の仲間と、今月この通りに立ち並ぶ数件の店から回収しないといけないみかじめ料の話をしながら、目の前に広がる薄暗い通りへと目線を巡らせている。緑、赤、紫、青と、鮮やかな光を放つネオンの光。それらが煌めく娼館やバー、クラブの艶やかな客引きに、若者達がまるで虫のように群がる。

 店売りの快楽を追い求める若者達を狙うのは、フランスやタイといった諸外国から密輸されたヘロインやコカインを、懐にたんまりとため込んだ麻薬の売人だ。

この売春婦通りを担当する警官が、『我らの物』と呼ばれる権力から供されるちょっとした贈り物と引き替えに、この地区の監視網を緩めているというのに、彼はは取引で得た多額の現金で購入した高級スーツではなく、怪しまれないフランクな格好で道行く若者達へ頻りに声をかけて回っていた。

 無頼漢に娼婦。そしてファヌッチ達のような非合法な商売で生計を立てる陰の支配者が作り出す、性とドラックと犯罪にまみれたパレルモの一角。そこを、ファヌッチはえらく気に入っていた。

 理由は言わずしても分かるだろう。ファヌッチが懐の暴力をちらつかせるだけで、この売春婦通りは彼と彼が属する組織へ、あっさりとまとまった金を渡してくれるからだ。それに、通りを遊歩する金で買える売春婦達は、まだ二十代中盤に差し掛かったばかりの厳つい男に質の高い絶頂を提供してくれるのだ。

 ネオンの光から薄汚いコンクリート建築。そして、露出の高い服装で男達を誘惑する艶やかな娼婦達へ。

 つい数刻前までは、担当の店からどれだけの金を回収しなければいけないかを議論していたファヌッチだったが、一度よそ見をすれば今から行う簡単な仕事よりも、その後にどんな女を買って楽しもうかということが重要になってきてしまった。

 なかなか頑固で交渉上手。それに、暴力をちらつかせても全く動じない強かな店主からどのように金を回収するか議論する二人の話を適当に流しつつ、ファヌッチは通りの売春婦達をまるで品定めするかのように凝視するのだった。

 大胆に胸元を開いた服、その下から覗くグラマーなボディで男を誘う気の強そうなイタリア娘に、おそらくはアラブ系の国から出稼ぎに来ている褐色黒髪の少女。街灯とネオンの光で彩られた通りを見渡したファヌッチだったが、本来なら感じるであろう欲情の波を、彼はこの時感じることができなかった。

 もっと美しく、自分の欲情を駆り立ててくれる娼婦がこの通りを歩いているはずだ。もっと良い物があるはずだ、と一度でも考えてしまうと、今まで手にしていた物を喜んで手放してしまう。それはファヌッチが持つ昔からの悪癖だった。

 例のごとく、ファヌッチは仲間との仕事の話しへ一向に戻ろうとせず、飢えた狼のような目で通りを行き来する女を見定めていた。

 いつもであれば通りを行き来する売春婦達を数分ほど観察した後に、自分の突発的な欲求を満たせる女がいないことを再確認させられ、結局は行きつけの売春宿でいつも買っている女を指名するのだが、今日の彼は非常にツイていた。

 盛況で沸き立つ売春婦通り。薄暗く淫靡な光が飛び交うそこで、特に目立つ少女をファヌッチは見つけてしまった。

 暗い夜陰の中でもしっかりと映える金髪のセミロングヘアー 。

 そこから覗く整った顔立ち、その中でも形の良い艶のある唇は、店の前で呼び込みをしている娼婦の誰よりも妖艶だった。

 年齢は十八歳くらいだろうか。

 少しばかりか低身長ながらも、純白のブラウスを身にまとい、ミニスカートからスタイリッシュな脚線を覗かせる彼女は、少女と呼ぶよりも、女性と称した方がいいほど大人びた雰囲気を醸し出している。

 そんな均整のとれた顔立ちの中で一際目立つ鋭い目だけは、大人びた彼女の表面に少女の勝ち気を加えていた。

 スレンダーな体に、輝くようなブロンドヘアー。そして、醸し出される大人びた雰囲気。これまで数々の売春婦と関係をもってきたドン・ファヌッチから見ても最上級に位置する外見をもつ彼女は、憂鬱そうな表情を張り付かせながら、アスファルトをヒールで叩く音を響かせている。

「おお、スゲえ美人……」

 ファヌッチの隣で議論していた男も少女の存在に気づいたらしく、彼女の持つ美貌に思わずそう呟いた。その一方で、ファヌッチといえば今まで背を預けていた壁から身を離し、高鳴る感情を必死で押し込めようとしているのだった。

「稲妻に打たれたってわけか」

 ファヌッチ達が見つめる少女へと目を向けたもう一人の仲間――ファヌッチとは幼なじみで、通ってた職業高校を彼と同じ年に中退した――が、ファヌッチの肩を軽く叩くと、冗談めいた口調でそう声をあげた。

「しみったれた商売の話は後でもできるよな?」

 もはや、頑固な店主を拳銃で脅して金をせしめるという単純明快な仕事のことは、頭の片隅に追いやられてしまったようだ。それは、ファヌッチだけではなく、下品な笑みを浮かべた二人にも言えたことだった。

 疎らに設置された街頭とネオンで照らされた薄暗い通りを、まるで我が物だと言わんばかりに闊歩する少女。

 風俗店の壁から離れたファヌッチが、彼女の前に立ち塞がる。

「よお、かわいい子猫ちゃん。こんな危ない通りを一人で歩いて何処へ行こうってんだい?」

 厳つい顔つきに上等なダブルスーツといった出で立ちのファヌッチが、気さくな笑みを浮かべながら少女の肩に手をやった。

 大きくごつごつとしたファヌッチの手に、あからさまな不快感を顔に出しながらも、彼女は靴底でアスファルトを叩くのをやめる。

「一人じゃ寂しいだろう? そうだ、この近くにモーテルがある。そこに寄り道して俺達と一緒に“イイこと”しようぜ。なあ、いいだろう?」

 少女の鋭い目から漏れる睥睨を受けながら、華奢な肩を掴んだ右手をそのままに、そう言葉を続けた。

 もはや、B級映画でも使われなくなった誘い文句に他の二人の仲間が思わず吹き出しそうになる一方、歩みを止めた少女は鋭い目線をファヌッチに向けながら、一言も言葉を発さず立ち尽くしていた。

「まさかコイツを見てイヤなんて言えないよなぁ?」

 少女の反抗的な態度を見たファヌッチは、やれやれといった様子で空いている左手でダブルスーツの襟を摘み、ゆっくり引っ張ってゆく。

 闇夜でも映える鮮やかなワイシャツの赤。

 その次に見えたのは黒いナイロン製のショルダーホルスター。

 そして、アルミ合金製のコンパクトなボディに不釣り合いな大口径弾を五発装填したシリンダー。

 俗に粗製拳銃(サタデーナイトスペシャル)と呼ばれている小型リボルバー拳銃ブルドック。ショルダーホルスターに収まったそれをこれ見よがしに見せ付けると、少女の肩を掴む手へ更に力を込めた。

 周囲を行き交う人間達は、誰も彼女を助けようとはしない。犯罪者の掃き溜めであるパレルモの売春婦通りにおいて、チンピラや“この街を実質的に支配している人間達”が起こすトラブルへ介入するのは自殺行為だからだ。どこからともなく取り出された粗製拳銃から吐き出される、これまた安っぽい鉛玉を受けて死ぬのだけは御免だ。と、この街に住む誰もがそう思っているのだ。

 ショルダーホルスターの拳銃を他の人間に見られないように、ダブルスーツの襟を元に戻す間も、少女の目は相変わらず鋭い眼光を内包していた。

「おい、何とか言ったらどうだ!?」

 ダブルスーツの襟が元の位置に戻り、業を煮やしたファヌッチの怒号が吐き出される。

 その瞬間、彼女の鋭い目線は溶けるように消え去った。代わりに浮かび上がった淫靡な笑みと共に、右手の人差し指と親指でミニスカートの裾を摘み上げる。

「おいおい、街頭ストリップショーでも始めようってのか!? ビッチ!」

 少女が不意に見せた動作に、ファヌッチがからかうような口調でそう言う。

 後ろのニ人も、それぞれが歓声を上げながら、少女の色白な太股に目をやっていた。

 ファヌッチとその仲間達は、目の前の生意気な少女が自分の持つ拳銃に怯え、渋々自分たちの要求に応じているものだと考えていた。

 だが、次の瞬間にはその考えが間違っていたことを思い知らされた。

 釣り上げられたスカート。その下から覗いたのは、下着に包まれた官能的な臀部などではない。

 黒い革製のレッグホルスター。そこから見えるのは先ほど自分がみせた拳銃が玩具だと感じられるほど、深みのある鈍い輝きを放つ金属の塊。

「このクソアマ、銃を持ってッ……!」

 もはや、扇情的な太股に欲情などしていられなかった。

 少女が身につけたホルスターから覗くそれが拳銃であることを。それも、自分が密売人から手に入れた粗製拳銃よりも圧倒的に高価で工作精度の高い拳銃だということを悟ったファヌッチは、肩を掴んでいた手をすぐに離し、後方に跳躍しながら懐のブルドックを構えようとする。

「いい銃をお持ちね。でも、私の“モノ”の方が凄くってよ?」

 懐に右手を突っ込み、ブルドックの銃把を握った丁度その時だった。

 芝居めいた口調の少女の声。そして、親指で撃鉄を引き上げ、六発の45口径ロングコルト弾が納められたシリンダーを回転させる音が聞こえたのは。

 開拓時代から数多のガンマンに愛されてきたシングルアクションリボルバー、コルトSAA。

 少女の手に握られていた鋼鉄の塊。否、撃鉄を起こしたことで即時射撃が可能になった殺意の塊は、後方に逃れた間抜けな男を暗い銃口で照準していた。

 時間にして一秒にも満たない間に引き抜かれ、撃鉄の準備がなされたSAA。それを右手で操る少女は、次の瞬間にはトリガーに人差し指をかけ、何の躊躇いもなく引き絞った。

 売春婦通りを駆け抜ける轟音。撃鉄に叩かれた雷管がらの熱エネルギーが薬室内の装薬を爆発させる音。

 それが、少女やファヌッチとその仲間達、更には通りの売春婦や適当な巡回を行うやる気のない巡査長の耳を貫いた時には、銃口から飛び出した45口径弾は大柄なファヌッチの右肩へ突き刺さっていた。

 ごく至近距離から放たれた鉛玉が筋肉を切り裂き。骨格にめり込む衝撃に、掴みかけていたブルドックから指が離れ、不自然に右肩が流される。

 皮膚を突き破り、骨を砕いた時に出るくぐもった音は、やかましいリボルバー拳銃の銃声に邪魔されてろくに聞こえなかったが、初速300km/hにも及ぶ鉛の塊は、ファヌッチの右肩に貫通銃創と赤い飛沫を見事に体現してくれていた。

 右肩に銃弾を受けた彼は、そのまま仰向けに倒れ、硬質なアスファルトへと身を預ける。

「殺しよ! 誰か来て!」

 少女の射撃を近くで目撃した売春婦が、銃声から遅れること五秒ほど経った後で悲鳴を上げた。

 丁度その時、ファヌッチの幼なじみが、彼と同じように懐へ右手を伸ばす。彼もまた懐に粗製拳銃を忍ばせており、少女の凶行を止めようとしたのだろう。鉛玉を彼女の身体に撃ち込むことで。

 しかし、特注のSAAを携えた金髪の射手を止めるには、彼もファヌッチと同じで全くもって実力不足であった。

 遅い、と言わんばかりに照準を銃を抜こうとした男に移す少女。彼女は照準を移動させる僅かな時間で、SAAのコッキング動作を終えていた。

 引き金を引き絞ることにより引き起こされた本日ニ度目の銃声と共に、男の右肩から赤い液体が弾け、ずっしりとした体躯がアスファルトへと倒れ込む。

「ひっ……!」

 瞬く間に放たれた二発の銃弾により無力化された二人。不衛生な地面に倒れ込む彼らを目にした三人目は、隠し持つ拳銃を抜くこともなく、少女に背を向け走り出した。

「はっ! 腰抜けがよおッ!」

 二人の仲間を見捨てて逃亡を始めた小心者。その背中を見て勢いよく暴言を吐き捨てた少女は、SAAの撃鉄を起こし、彼の右足に照準を定め何の躊躇いもなく引き金を絞る。装薬の爆発力に尻を叩かれた銃弾は、その場に居合わせた誰の目にも視認されることなく小心者の右太股へと突き刺さった。


「ひっ……人殺しぃ!」

 太物に激痛を受け、小心者は崩れるようにアスファルトへ倒れこんだ。

射撃音を耳にしたファヌッチは目に見えてわかる恐怖をその表情に湛え、ほとんど悲鳴に近い声でそう怒鳴った。

 彼は銃撃を受けた右肩を庇いながら必死で立ち上がろうとする。

 だが、完全に萎えてしまった四股は、どれだけ力を入れても無反応を貫くだけであった。 

「人殺し? 馬鹿言うなよ。まだ誰一人として殺っちゃいねえよ?」

 不快そうに眉を顰めた少女は、美しい外見とはかけ離れた粗暴なイタリア語でそう言いながら、撃鉄をまた起こして弾の込められた薬室と銃身を同期させる。

「アタシ達が人を殺すのは本当に切羽詰まった時だけだ」

 シリンダーが回転する不快な金属音に少女の声が重なる。

 少女の発した言葉に、腰を抜かしたファヌッチを襲う恐怖と震えは止まるどころか、更に増大してゆくばかりだった。なぜなら、「人を殺すのは本当に切羽詰まった時だけ」という少女の言動から、ファヌッチは彼女の背後に立つ強大な権力の姿を見いだしてしまったからだ。

 コーサ・ノストラ(我等の物)と呼ばれる、この地の根幹まで根付いている秘密結社の名に、それを構成する屈強にして残忍なマフィオソ(名誉ある男)達。

このシチリア半島を。いや、イタリアという国家そのものを裏から操る一大勢力。

 彼らの前に立ちふさがる者は、まず何度かに分けての警告が発せられる。

 例えば、自分の身近な人間に不幸な未来が訪れたり、所有する車が破壊されたり等だ。

 それらの全てに対し無視を決め込んだ者にだけ、コーサ・ノストラはその長くて太い腕を初めて振り下ろすのだ。

「や……やめてくれ! 殺さないでくれ!」

 殺されはしないだろうが、目の前の少女は自分達の非礼と拳銃を抜こうとしたことに対しての仕返しを必ず行う。そうでなければ、自分の仲間二人に躊躇なく銃弾を撃ち込んだり、右肩に銃弾を受け、腰を抜かした自分に撃鉄の上がった銃を向けはしないだろう。

 少女の銃から飛び出した弾丸が再び体内に突き入り、筋肉が引き裂かれ骨が砕ける激痛に悶える。これは、どれほど足掻こうが変えようのない定まった運命だ。そう考えただけで、目尻からは大粒の涙が漏れ出し、喉からは助けを求める絶叫が漏れ出した。

 まるで死の権現であるかのような金属の塊。ワンアクションで暗いその銃口から殺傷力を即座に射出することができるSAA。抜かした腰を元に戻すことも、射抜かれた右肩を動かすこともできないファヌッチは、それをただ凝視し、発射された銃弾が偶然自分の身体を外してくれることを今まで一度も信じたことがない神に祈る他無かった。

 しかし、それは相手が全知全能の神だったとしても難しい相談だった。先のシングルハンドでの早射ちを見る限り、少女は無骨なリボルバー拳銃を完璧に使いこなしている。そんな彼女が、距離にして数メートルしか離れていないファヌッチへの射撃をしくじる可能性は皆無に等しい。

 少女の持つ拳銃が放つ銃弾は必ず男の身体へと突き入り、その殺傷力を遺憾なく発揮する。これは、運命で定められた変えようのない事実なのだ。

「ひ……ひぃ」

 恐怖でこわばった声帯から短い呻き声が上げられる。同時に、臀部へと温かい液体がじんわりと浸透する感覚を、腰を抜かしたファヌッチは感じた。

「おいおい、大の大人がお漏らしか?」

 アスファルトへとゆっくり広がる水溜まり。それが目の前で怯える彼の尿だとわかった少女は、照準を解き、両手を広げて笑い始めた。

 両手を広げたことにより、向けられた照準が解除されたのを、さすがにファヌッチでも見逃さなかった。

 自分の失禁を見ながら、照準をはずしてせせら笑う少女。彼女の見せた隙。それも、致命的に大きな隙に、ファヌッチは恐怖の中で生まれた一筋の希望に内心細く笑みながら、ショルダーホルスターに収められたブルドックを密かに意識した。

 左手でショルダーホルスターの拳銃を無理やり抜き、ハンマーをコックして、ブルドックの小さい図体に不釣り合いな大口径弾を銃身と同期させる。

 言葉にすると簡単だが、実際に実行するとなると不自由な左手と抜きにくい位置にあるブルドックが相まって、非常に困難を極めるであろう照準作業。そして、撃発動作。それをファヌッチはやってのけなければならなかった。

 目の前で嘲げる少女を装填された大口径の弾丸で撃ち抜き、この修羅場から抜け出すために。完全に打ち砕かれた自分の尊厳を、少女の肉を切り裂き、骨格を打ち砕くことで取り戻すために。

 そう、射撃動作を行わないことには、体と威厳にこれ以上傷が増えるだけ。

 肩から流れ出す激痛を押さえ込み、震える左手をダブルスーツの中へと突っ込む。

 静かに、それでいてなるべく素早くだ。幸い、少女は左手を目に当てながら笑い続けている。

 ダブルスーツの中を探るように手を動かすと、冷やりとした“愛犬”の感触が伝わり、左手が反射的に頼もしいそれを掴む。

 肩が動き、“犬小屋”に引きこもるリボルバー拳銃を引き抜く。

 静かにだ。肩の関節が動作する音、血液の黒い染みができたスーツから漏れる衣擦れ音にさえ細心の注意を払いながら。

 腕の筋肉が動きだし、肘の腱が収縮する。

 それと同時に、不器用な左手の親指がブルドックの撃鉄を慎重に起こした。もはや照星をまともに覗く余裕などなかった。

 この少女が卑下た笑いを止め、手にした殺傷兵器をこちらに向けてくるかわからなかったからだ。

 左手での射撃に不慣れなのもあったし、撃たれた右肩からの痛みや恐怖心が、前方に突き出した左手を震わせる。

 左手が震える。だが、そんな中でもファヌッチは人差し指を引き金付近までもっていくことに成功した。

 銃口は笑う少女へ。撃鉄は起き上がり、大口径弾がはめ込まれた薬室が銃身と同軸に位置する。

 あとは引き金を引き絞るだけだ。それだけで、この激痛と恥辱にまみれた場を一変させることができる。

「くたばれ! クソアマッ!」

 もう後戻りはできないし、する必要もない。そう言わんばかりに絶叫にも近い怒号をあげた手負いの大男は、後少しの動作だけで引き金を引き絞ることのできる人差し指へと最後の指令を送ろうとする。

 脳から発せられた電気信号が一秒にも満たない間に神経を駆けめぐり、指先を軽く動かす。それさえできれば、手にしたリボルバー拳銃から起死回生の一撃が、相手を死に至らしめる死の一撃が吐き出される。人差し指を動かすという単純明快な指令を脳から発することができれば、ファヌッチはこの修羅場を切り抜けることができた。

 だが、その前に発した叫びが。引き金に人差し指をかける間もなく発した勝利宣言が、ファヌッチが犯した今日最大の失策であった。

 腹の底から絞り出した怒号から一拍。野次馬が騒ぎ立てる売春婦通りに銃声が鳴り響く。それは、粗製拳銃に装填された大口径弾の装薬が爆ぜる下品な音ではなかった。そう、通りに木霊した銃声は、古めかしいリボルバー拳銃に装填されたロングコルト弾が奏でる、昔懐かしく力強い撃発音。あと一歩の所で失態を犯したファヌッチをあざ笑うSAAの咆哮だ。

 彼の発した叫び声。引き金に指をかける前に口から漏れ出た早すぎる勝利宣言を、この抜け目ない少女が聞き逃すはずもなかった。醜い叫びに思わず顔をしかめながら、彼女は広げていた両手を反射的に動かし、腰の位置でSAAを構え、そしてハンマーをコックして引き金を引いた。

 まるで西部劇のガンマンのような早撃ちは、ファヌッチがブルドックの引き金に人差し指をかけるほんの少し前に成立し、放たれた弾丸が不運な男の体を撃ち抜いた。

 二度目の銃撃を受けた張本人であるファヌッチは、痛みによる叫びを上げることも、先ほどのような怒号を上げることも無かった。全くの無声。白目を剥いた大男。想像を絶する激痛に襲われる彼の身体に刻まれた致命的な一撃を探す観衆。少女が放った一発の弾丸。手にした拳銃の銃声が、喧噪で溢れかえっていた売春婦外の一角を全くの無音状態にしてしまった。

「感謝しな。その役に立たない“モノ”を無料タダで去勢してやったんだからな」

 銃声から続いていた静寂。それを破ったのは、唇をつり上げた少女が漏らした嘲げりであった。

 少女が発した去勢という単語。

 今まで眼下で繰り広げられていた一方的な銃撃戦とは全く無関係そうな言葉。

 それを聞いた周囲の野次馬達は、一拍の考える時間をおいた後に、少女がどういう意図でその言葉を発したか理解したらしい。

 ある若い男は青ざめた表情で唖然としながら。ある売春婦は驚愕のあまり両手で口元を隠しながら。銃撃戦の舞台であった道路の一角に集まる彼らは、白目を剥いたまま口から大量の泡を吹くファヌッチの股間へと一様に視線を移した。

 白いズボンの臀部に浮かんだ尿の染みに、その付近にぽっかりと空いた小さな破孔。それに、失禁時の染みの下から浸食してくるどす黒い液体。そう、少女はこの屈強な下足番が犯した無礼に対して罰を与えたのだ。拳銃弾で睾丸を撃ち抜く、麻酔無しの拷問的な外科手術によって。

「何があった!?」

 野次馬の男性陣が自身の睾丸の有無を密かに確認していた時だ。遅れてやってきた巡回の巡査長が、腰の拳銃を意識しながら声を張り上げたのは。

 銃声により緊張した面もちの彼は、右手にまだSAAを保持する少女をその鋭い目線で射抜いていた。

 銃撃を受け道ばたに倒れる二人の男に、それよりももっと凄惨な姿を見せるファヌッチ。右手に拳銃を持ち、怯える彼らと対峙する少女。

 こんな状況を見せられたら、懐にしまい込んだ多額の“贈り物”により、のろのろと駆けつけた不真面目な巡査長でも、流石に誰を逮捕すべきかは理解できる。

「よお、巡査長。パトロールご苦労さん」

 ホルスターに拳銃を差し込み、濃い紺色の帽子を頭に乗せた男。それは確かに世界中どの国でも決まって犯罪者から恐れられる警官の姿だった。

 だが、そんな巡査長に対し、少女は臆することなく、それどころか不敵な笑みを浮かべながら軽口を返してみせた。

 巡査長を手にしたSAAで無力化しようとしているのか、それともアルコールか薬物を摂取して正常な判断ができないのだろうか。どちらにせよ、まともな脳味噌があれば、拳銃を意識した警官に対してとれる態度ではなかった。

 あまりにも軽率な態度と握られた古めかしいリボルバー拳銃。それら二つの要素は、駆けつけた巡査長に少女の逮捕を決意させるのに十分な要素であった。

 笑みを浮かべる少女を睨みつけた巡査長は、先まで意識していた拳銃を掴み、視線で少女を牽制しながら引き抜いた。

「銃を捨てて地面に伏せろ!」

 ホルスターから抜いた拳銃を構え、犯罪者を制圧する時のお決まりな台詞を吐き捨てた巡査長だったが、それでも少女は右手にハンマーの下りたSAAを握ったままであった。

 数秒間の沈黙。巡査長が市民の安全のために少女へ発砲しようか迷っていたときだ。不意に彼女は右手を動かし、SAAを胸のあたりまで持って行くと、これ見よがしに銃身部の刻印を左手で指さした。

 まず目に飛び込んできたのは、鈍色の表面に刻み込まれた、まるで地獄の炎を模したかのような火炎のレリーフで、それはフレームだけではなくシリンダーにまで細かく刻まれており、レリーフを入れた彫刻職人の技の高さとこだわりを体現してくれている。

 派手な火炎のレリーフ以外にも、そのSAAには目を引く刻印が刻まれていた。

 シリンダーから視線を右に移すと目に入る銃身。銃の命とも言える、精密に加工されたパーツにそれを見いだすことができた。



『War maker(戦争屋)』



 『Peace maker(平和の創り手)』という別名を持つSAAには酷く不釣り合いな刻印を目にした巡査長は、ある一つの不吉な渾名を思い出した。



そう、『戦争屋』だ。



 その銃身に刻まれた二つの英単語が表す通り、銃弾の嵐の中を嬉々として走り抜け、手にした不気味なリボルバー拳銃。場合によっては自動小銃で敵の射手を次々と殺害する。シシリーに存在する多数の権力同士。その血で血を洗うような抗争の中で、とりわけ大きな戦果を挙げた人間。使用しているリボルバー拳銃に刻まれた刻印と、数々の戦場での悪魔のような働きぶりから、彼もしくは彼女は『War maker(戦争屋)』と呼ばれているのだ。

 目の前の少女が本当に噂の戦争屋と呼ばれる人間なのかは、彼女を問いただすか、それとも手にした拳銃を撃発してみる他ないだろうが、この巡査長はそれを試す勇気も、自分の命を危険にさらすほどの仕事への熱意も持ち合わせていなかった。

 拳銃を構える両腕から力が抜け落ち、即時射撃可能な殺意が少女から離れてゆく様は、さながら巨大な武力に屈服する敗残兵のようだった。

「それじゃあ後片づけよろしくな」

 巡査長の反応を見たやいなや、軽口をたたきながらウインクした少女が浮かべた笑みは、年相応かそれより少し幼い朗らかなものだが、確かに彼女は三人の人間に弾丸を撃ち込み、ハンマーが下りてもなお殺意が漏れ出すリボルバー拳銃を手にしているのだ。

 陰鬱な殺意と活発な笑顔。相反する二つの要素が入り交じった少女に、巡査長は勿論のこと、周囲を取り巻く野次馬達でさえ血の気が引く感覚を覚えた。

 ハンマーが下りて安全になったSAAを西部劇のガンマンよろしく人差し指でくるくると回し、太股のホルスターへと戻した少女は、飄々とした態度で青ざめた巡査長の横を通り過ぎる。

 それから、彼女はそのままファヌッチ達に阻まれる前の進路へと悠々と歩みだした。

 目の前で見せられた惨劇をまだ覚えている人間達は、倒れる男達の二の舞になりたくないようで、避けるように少女の為に道をあけていた。

 唖然とする巡査長とオーディエンス。致命傷を免れた二人の男と、麻酔無しの去勢手術で意識と玉を飛ばしたファヌッチ。

 喧噪で溢れかえっていた売春婦通りにそれらを現した『戦争屋』は、街灯の光とネオンの光で彩られた夜陰の中へと消えてゆく。

 後に来るであろう警察車両と救急車両のエンジン音。それから、明日のトップニュースを飾るであろう傷害事件の痕跡を残しながら。


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