Page 3.裏切りのきおく
Page 3.裏切りのきおく
鈴原未来。彼女はいつも一人だった。小学校の時も一人だった。中学校の時も一人だった。高校の時も……一人だった。そう、ひとりだった。彼女の「こころ」には、いつも、からっぽが入っていた。
「わたしは、どこから来て、どこへと向かうんだろう」
高校の卒業アルバムを見ながら、ぽつりと呟いた。葉から雫が滴り落ちるように、呟いた。卒業アルバムの写真。色褪せることのない思い出の写真。そのはずだけど、たった一人の顔写真に大きくバツ印が描かれていた。顔写真の主、その名前は、日笠歩。未来の、親友だった女だ。
「もう、何もかも、わからない」
未来は二十七歳になった。すべてがはじまったあの時から、もう九年も経った。
◆◇
クリーム色の無機質な壁にうるさい黒板。未来の高校。高校の時、未来には、一人だけ親友がいた。それまでずっとひとりぼっちだった未来は、とにかく嬉しかった。友達ができて、嬉しかった。
「ねえ、次の授業何だっけ」
「んー? えっと、英語Ⅱ演習だよ」
「ああ、英Ⅱ演習か。あれ嫌ーい」
「好きな人いないでしょー」
次の授業に向けて、準備をしている時だった。教室移動をしなきゃなあと考えながら、カバンを手にとる。笑いながら、歩と一緒に授業教室に向けて歩き出す。
「でも、隆史くんは英Ⅱ演習好きって言ってたよね」
隆史くん、という名前を聞いた途端、未来は赤くなった。
「へ? そ、そうだねえ、あはは」
「おやおやー? 怪しいですなあ」
赤くなった未来を見て、状況を悟った歩。歩は顔で笑っていた。
「な、なにがよー」
「隆史くんのこと、好きなんかー?」
「違うよー、もう、どうしてそうなるのー?」
ますます赤くなる未来。歩は、ビンゴだなと思った。歩のこころは、決して笑っていなかった。歩は顔で笑いながら、未来の背中を叩く。「応援してるぞ」と言いながら。
授業が終わり、放課後になった。未来は歩と一緒に帰ろうと歩を待っていた。歩は教室掃除の当番だった。廊下に立って、窓から外の様子を眺めながら待つ。笑いながら帰っていく人たち、寒い中勉強している人たち、ベンチで談笑している人たち。いろいろな人がいた。そんなひとたちを眺めるのにも飽きて、未来は教室の方へと振り返った。
その時、邪悪が目に飛び込んできた。何よりも汚かった。何よりもあさましかった。何よりも、おそろしかった。歩が、隆史くんと、手を取り合い、唇を……重ねていた。「応援してるぞ」という言葉をくれたにも関わらず、歩が隆史くんとキスをしていた。
キスという行為が、未来にはとても、汚いモノのように思えた。
「あ、未来じゃーん。隆史くん、ちょっと席外して?」
いつもサバサバしていて男らしい歩が、とても可愛らしくねだっている。未来は見たことのない親友の姿。見たくもなかった親友の姿。
「うん、わかった。じゃあ、下駄箱で待ってるよ」
「うん! ありがとう!」
小さく手を振る歩。未来は、逃げ出したい衝動に駆られた。でも、足がどうにも動かない。未来のこころに反して、歩は近づいてくる。ゆっくりと、笑いながら。近づいてくる。
「隆史くんを好きになるとか、ダメなんだからね?」
歩が言葉を投げかける。黒ずんだ言葉。
「隆史くんは、私のなんだから」
いつになく高い声のトーンに、未来は震えた。
「あなたは、誰?」
認めたくなかった。認めようとしなかった。認めることができなかった。これが、親友の、歩だっていうことは。
「何言ってるの? 私は日笠歩だよ」
でも、認めるしかなかった。顔も姿も形も制服のしわも上靴の名前も鞄についているキーホルダーも、すべてが歩と同じだった。キーホルダーは、未来とお揃いのものだった。
「私、あなたが隆史くんのこと好きなの、ずっと知ってた」
「え?」
「だから、奪ったの」
未来は、言っている意味がよくわからなかった。歩がもともと隆史くんと付き合っていたなら、未来は謝って諦めるつもりだった。でも、どうやらそうじゃないらしい。
「奪った?」
「あなたから、すべてを奪おうかと思って」
歩は未来のすべてを奪おうとした。こころさえも、奪おうとした。泥棒のように。
「どうして、そんなこと」
「未来はいいよね。顔も良くてスタイルも良い。勉強もできるし料理もできる。私に無いものを、すべて持ってるんだ。妬ましいなあ、羨ましいよ。でも誰かが言ってた。羨ましがるだけじゃダメだって。自分でつかみとらなきゃいけないって」
羨ましい。それは、ひとを変えてしまうおまじない。
「だから、私は、未来から何もかも奪ってあげるの。親友のふりをして」
「……っ!」
未来は、歩を殴った。力いっぱい殴った。泣いても、あざができても、血が流れても、殴り続けた。何も言わず、何も聞かず、ただ、殴るだけだった。教師が未来を止めるまで、未来はやめなかった。教師が理由を聞いても、未来は答えなかった。答えたくなかった。それをいいことに、歩は、こう言った。「一方的に殴られました」と。
それからの高校生活は地獄のようだった。今までは歩以外の人にとって空気のような存在だった未来は、一変してみんなの敵になった。敵対心の標的になってしまった。それからというものの、クラスは、学年は、より一層、まとまり始めた。
それから卒業するまで、未来は殴られ続けた。女性にとって特に大切なお腹を殴られ続けた。時には男子に取り囲まれ、犯されることもあった。避妊をせず、出されてしまうことも多々あった。未来はますます、何も言えなくなった。
やがて未来は子供を身ごもった。誰の子だかもわからなかった。お腹にいる子供を、未来は不気味がった。得体の知れない生物が、お腹の中に入っていた。得体の知れない生物は、未来のお腹の中で、未来の栄養を吸い続けた。栄養を吸い続け、どんどん大きくなった。
生まれる時が来た。大きな痛みとともに、絶望が未来のこころを鷲掴みにした。病院の施術台に乗せられ、いよいよUMA召喚の儀式の時がやってきた。これから、化物が生まれてくる。そう思った。
でも、化物は、生きたまま生まれてくることはなかった。未来はお腹を殴られ続けていた。お腹にいた化物が、元気に育つはずはなかった。未来はほっとしたと同時に、なぜだか悲しくてなみだが出た。
卒業式。みんなは笑っていた。卒業式ばかりはみんな何もしてこなかった。これで、高校生活が終わるんだと思うと、なみだが出た。なんのなみだか、わからなかった。
未来は、高校を卒業した。けれども、未来は、本当に高校を卒業することはなかった。
◇◆
未来は卒業アルバムを閉じて、棚にしまう。深呼吸をして、伸びをした。仕事に行かなきゃいけないなあと思いながら、着替える。服を脱いだ瞬間、全身鏡が自分の体を映してしまった。未来は無意識にお腹をさする。もう、なみだなんか、出ない。
どれだけ泣いていないだろう、と未来は考えた。卒業アルバムを見ても泣けないなんて、わたしはどうかしてしまったのだろうか。思った。でも、考えるだけ、思うだけ無駄なことはわかっていた。もう、九年も、なみだなんて、流していないのだから。
スーツに身を包んで、外に出る。今日も頑張るぞと、こころが勝手に意気込んだ。