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しかし、ルークと二人で話す機会はなかなかなかった。数日機会を逃し、そのうちそのうちと思っていたある日、洗濯物を取り込んでいたルキの横を、見張り台から降りた船員が慌てて駆け抜けて行った。
二階のデッキにいたカインに下から報告するつもりらしい。
「船長!船が見えます」
「海賊ですか?」
「はい、おそらく」
船員が海賊旗の特徴を言うなり、彼の顔色が変わった。珍しくルークを叫んで呼ぶ。船室から出てきたルークが彼を見上げ、「何だ」と訊いた。
「エミリアの船が来ます……」
ルークが目を見開いた。
「全速前進だ。逃げるぞ」
「無理です。向こうの方が速い」
「砲撃準備だ」
「できませんよ。敵でもないのに……」
「くそっ」
珍しくルークが困っている。
事情はわからなかったが、カインはルキに隠れなくていいし銀髪のままで大丈夫だと言った。古い「厄介な」知り合いらしい。
その船はどんどん近付いて来て、乗組員が数人乗り移ってきた。先頭にいるのは、赤い胸元が空いたシャツを着た女だ。美人である。
彼女は船におりるなり、ルークに突進して彼を抱き締め、愛しげに頬にキスした。ルキの隣でハルが持っていた望遠鏡を取り落とす。
「ルーク!久しぶりね。会いたかったわ」
もう一度ルークを抱き締めた彼女に、カインがにこやかに話し掛けた。
「エミリア、久しぶりですね。お元気でしたか」
「ええ。貴方も元気そうで何よりよ。あら?」
エミリアの青い瞳がルキを捉える。
「あの子猫ちゃんはだあれ?」
ハルの逆隣で、レックスが持っていたインク壺を落とした。
「ルキですよ。新しい仲間です」
「あら、羨ましいわね。あたしもこの船に移ろうかしら。そしたらルークと毎日一緒にいられるわ」
「エミリア様」
彼女の部下が声をかけた。
「船はどうされますか」
「この船に係留してちょうだい。ねえルーク、いつもの街でちょっとゆっくりしない?」
「駄目だ」
エミリアが来て初めて、ルークが明確な言葉を発した。
「あら、何で?」
「好きじゃない」
「いつもは付き合ってくれるのに、変ね。それなら島にしましょ。ね?」
エミリアは豊満な胸をルークの腕に押し付け、甘えたような声を出す。すごい色気だ。
「エミリアは昔からルークにご執心なんだよ。何が良いのか知らねえけど」
台所で豆のさやを処理しながらロイドが教えてくれた。居間の方では、エミリアを囲んだお茶会が開かれている。ルキは夕食の準備があると逃亡し、同じく逃亡したロイドと台所に逃げ込んでいるのだ。
「昔、ルークがエミリアのことを拒絶したらあいつ癇癪を起こして、うちの船に砲弾ぶちこんできやがった」
「はあ……」
「かといっても交戦するのも寝覚めが悪いっていうので、ルークを人身御供にしているんだ。ルークと数日間べったりしてれば落ち着くみてえだしな」
「はあ……大変だね。はい、この笊に入れて」
笊に豆がこんもりと盛られた。
居間の方からエミリアの高い笑い声が聞こえる。少し耳についた。
「でも、あんな綺麗な人に好かれて悪い気はしないんじゃない?男の人は」
「俺は苦手だな」
凝った首をほぐしながらロイドが即答する。
「そう?美人だしスタイルも良いし」
「美人でスタイルが良いだけだろ」
ロイドは素っ気ない。赤みがかった茶色の瞳がルキの方を窺った。
「気になる?」
「そりゃね。子猫ちゃんとまで言われたら」
「あれはびっくりしたな。レックスの奴、インク落として服の裾汚してたぞ」
二人で思わず苦笑する。
苦笑を引っ込めたロイドが、ルキの髪を一房取ってにやりと笑った。
「まああんまり気にするなよ。なんならあ副船長やめて俺にしとけ」
「へっ?」
ルキの反応を満足そうに見て、ロイドは鍋でお湯を沸かし始めた。
しばらく固まってから、ルキも夕食の支度を再開した。
「子猫ちゃんはお料理が上手なのねえ」
夕食を食べながらエミリアが褒めてくれた。何だか素直に喜べないが、「ありがとう」と答える。
「メイドとしてもやっていけるわね。このサラダなんて素敵だわ」
褒めるの、サラダですか。
彼女に悪意はないと思うのだが、妙に疲れる。早めに夕食を切り上げて片付けに移ると、「お茶が欲しいわ。レモンティーの甘いやつ」と声がかけられた。立ち上がろうとするカインを制し、ルキは希望通りのお茶を淹れてやった。
エミリアが言っていた「島」には翌日に着いた。無人島である。てっきりエミリアとルークだけバカンスを楽しむのかと思いきや、全員降りるらしい。
「じゃあルーク、散歩に行きましょ」
エミリアはルークと腕を組み、足取り軽くどこかへ歩いて行った。
それを視界の端に入れつつ荷物をおろしていたルキに、「大丈夫ですか」とカインが声をかける。
「大丈夫って何が?」
「昨日から眉間にしわが寄りっぱなしです。無理もないですけど」
「大丈夫大丈夫。あの人がパワフルすぎてついていけないだけ」
「それだけじゃないでしょう」
カインがそっと頭を撫でてくれる。
やっぱり、この感覚はなぜか懐かしい。
「ルキが気を使うことはないんですよ。昨日からルークを避けてるでしょう」
「別に避けてるわけじゃ……」
「そうですか?」
ルキは黙って俯いた。
「もともと喧嘩中だったし……」
「仲直りしようとしてたでしょ。あんまり遠慮しないで下さい」
難しい顔をしたルキの頭をもう一度撫でて、カインは去って行った。
しかし、ルキが避けなくてもルークはエミリアが独占しているのだから仕方ない。カインも比較的エミリアの相手をしているので、ルキは同じくエミリアから逃亡してくるロイドと一緒にいることが多くなった。
そんな日が数日続き、ルークはどんどん不機嫌になっていくようだった。ますます仲直りのきっかけなど掴めない。
夕食の片付けをしながら、こっそりロイドに耳打ちする。
「エミリアさん、よくあの不機嫌なルークにベタベタできるね……」
「あいつが不機嫌なのはいつもだろ」
「そうだけど、いつもより眉間のしわ一本多いよ」
「知らねえよ」
ロイドが眉をひそめる。
最後のお皿を泉ですすぎ、布巾を持っているロイドに渡すと、彼はそれを受け取ってまじまじとルキを見つめてきた。
「気になるのか」
「へ?」
「あんな女の尻に敷かれる男なんてやめとけよ」
「そんなのじゃない」
ルキは慌てて否定したが、ロイドは真剣な目をしてルキの腕を掴む。
「本当か?今だってエミリアに嫉妬してるんだろ」
「違うってば。もうやめよう、この話」
ロイドの腕をそっと振り払うと、彼は視線を逸らした。
「俺はルキが心配で……」
「それはありがたいと思ってる。でもこの話は今したくないの。先に戻るね」
食器の入った籠を持とうとすると、「俺が持っていく」と目を逸らしたままで言われた。素直に従って立ち上がり、自分のカンテラを持って船が停泊している浜の方へ歩き出す。しかし浜に帰るとみんながいる。今は会いたくない気がして、少しだけ寄り道しようと思った。来た道を戻り、途中の三ツ又で右へ行く。
確かこの先に開けた草地があったはずだ。そこでのんびり空でも見上げてーー……。
ずるり、と足の下で嫌な感触がした。
身体が傾く。
草地は三ツ又の左だったかも。
そう思った時には、ルキの身体は真っ逆さまに落ちていった。
食器の籠を持って帰ってきたロイドを見て、「遅かったな」とレックスが声をかけた。
「ああ、悪い。ちょっとのんびりしてた」
「とか言って、ルキに手でも出してたんじゃねえだろうな」
「そんなわけあるか」
ロイドは即答したが、ふとレックスのからかいに違和感を覚えた。
「ルキは?」
「何言ってるんだよ。おまえと皿洗いに行ったんだろ」
「ああ。でも先に帰ったはずだ」
焚き火を囲んでいた面々がぴたりと話をやめ、ロイドに視線を向けた。
「本当か?」
「ああ。結構前だぞ。戻ってねえのか」
「ああ……」
舌打ちをしたルークが立ち上がる。エミリアが何か言ったが聞いていない。カインが無言で差し出した袋とカンテラを受け取って、彼は島の奥へ消えていった。
あたりが静寂に包まれる。
カインがやはり無言のまま、焚き火に薪をくべた。